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王の剣士 七

<第三部>

第二章『冥漠の空』

十二

 アスタロト達が剣士の里を発った日を遡ること二日、七月十一日。
 サランセラム丘陵に展開する西方軍は、シメノスを拠点とする西海軍、中でも三の鉾ゼーレィが率いる海魔達の歌声に、この場所に布陣以来二カ月の間におよそ二千の兵を失い、苦戦を強いられていた。
「だが、これで流れが変わる」
 ヴァン・グレッグは報告を前に、深々と息を吐き出した。
 報告をもたらしたのは西方軍法術士団の長、モウローだ。
 半刻前、モウローはヴァン・グレッグの天幕を訪れると、ゼーレィ軍の歌声を封じる術式が完成した、と開口一番告げた。
 泥地の回復、そしてゼーレィ軍を抑える事、この二点が西方軍勝利への端緒だ。
 特に西方軍を苦しめ続けたゼーレィとその同胞はらからの歌声を封じられれば、戦況は大きく変わる。
 第五大隊大将ゲイツは勢いを得て卓に身を乗り出した。
「閣下」
 卓に置いた彼の拳の下で、サランセラム一帯の地図が、一部を塗り潰されている。
 塗り潰したそれは、これまで泥地と化した大地を示す。
 泥の海は今やボードヴィル砦城をほぼ囲み、大河シメノスに沿っておよそ一里四方に渡りサランセラム丘陵の一部を侵食していた。
 西方軍はサランセラム丘陵の中央部に本陣を構えていたが、その本陣へ、泥海は僅かながらも着実に距離を縮めていた。
 あとひと月もすれば、サランセラム丘陵の三分の一が泥に変わる計算だ。
「このまま手をこまねいていれば、ただ後退を余儀なくされるのみ。この機に西海軍を叩くべきと考えます。加えてこの半月の間、ナジャルは姿を見せていません。今ならば脅威は半魚の海魔のみであり、あの歌を封じられれば勝利は見えてきましょう」
 他の二名の大将、第四大隊のホフマン、第六のグィードも、その表情の上にゲイツと同じ考えを見せている。
 ヴァン・グレッグの瞳にも彼等と同じ光があるが、その反面まだ決断に至るには決め手が足りなかった。
 戦略としては、このまま防衛線にのみ徹する事も、充分に考えられる。
 彼等西方軍八千が打ち破られない事――
 それもまた、国全体の先行きを考慮すれば重要な要素だった。
 だが、二カ月。
 これまで耐えて来た期間は十二分に長い。
 そしてまた、失った兵をいつまでも補充し続ける訳には行かない。
 それは消耗戦だ。
 ヴァン・グレッグはしばらく腕組みをしたまま、目を伏せていた。
 判断を待つ者達もまた、ヴァン・グレッグが何を秤にかけているか承知している。
 伏せられていた双眸が上がる。
「まずは術式を試したい。ワッツ」
 ワッツが右腕を胸に当てる。
「手筈を整え、騎兵千を率いて出ろ。初手は小手調べのみで構わん」
「は」
 ワッツは筋肉の塊のような上体を起こし、ヴァン・グレッグを見据えて応え、続く言葉を聞いた後、立ち上がった。






 翌十二日、太陽が西の地平に最後の光を投げかける、九刻。
 ワッツ率いる千騎は、西方軍法術士団長モウロー及び術士四名と共に本陣を発ち、深まり行く薄暮の中、サランセラム丘陵の西側を進んだ。
 丘陵にはほんの二カ月前までは小麦などの穀物や野菜を育てる農地が広がり、それらが美しい緑の絨毯を連ね穏やかで広大な風景を作り出していたが、今はその農地も放棄されて荒れた様相を見せている。
 この地で生活を営んでいた農民達の大半は、第六大隊の仮駐屯地バッセン砦へと戦火を逃れ移動していた。
(だが安住の地にゃなり得ねぇ)
 戻してやりたい。
 ワッツはすっかり夜に隠れたかつての農地と農民達を思い、手綱を握る手に力を込めた。
 西海軍を倒し、平穏を取り戻し、この地に彼等を戻すことこそが自身の責務だと、この光景を見る度に思う。
 だからこそ、今回は絶好の好機だと思える。
 幾ら海魔達に対応する術を得たとしても、戦火が長引けばいずれ西海は対策を講じてくるだろう。もしかしたら一度しか通用しないかもしれない。
 この機を掴みたかった。
(事は慎重に行け)
 焦るなと、自分にそう告げる。
 ワッツは辺りを見回し、片手を上げた。
「良し、止まれ」
 ゆっくりと、蹄の音を鳴らしながら千名の騎馬が停止する。止まったのは緩い丘陵の底に位置する場所だ。広いすり鉢状になったそこは、斜面が四方からの視線をまずは遮ってくれる。
 本陣を発って一刻を過ぎ、ボードヴィルまでの距離は残りおよそ一里の距離だった。騎馬であれば残りの距離を四半刻もなく一息に駆け抜けられる。
 そこでワッツは隊を分けた。
「スクード、百騎で俺と来い。クラン、ここで手筈通り待て」
 少将スクードとクランがそれぞれ頷く。ワッツはすぐに自らの騎馬を進め、スクードもまた、以前ボードヴィルに潜入した時の部下三名を含む百騎、そして法術士二名と共にワッツに続いた。
 静まり返った夜の中、騎馬を慎重に進める。
 気取られずに進まなくてはならない。
 彼等が今目指しているのは、シメノスに陣取る西海軍ではなく、『最後の』ボードヴィルへの道だ。
 全て泥海に埋もれたように見え、だが唯一残った道があった。


 半刻後、ワッツ達はボードヴィルを眼下に収める位置に立った。




 元は緑なす草原が広がっていたボードヴィル前面の平地は、今はすっかり黒い泥で覆われ、夜目にはそれは黒々と穴を開けた淵のように見える。
 街道の石畳は泥の中に埋もれてしまった。
 変わり果てた光景の中に変わらずに翻るのは、ボードヴィルの街と砦城に掲げられた旗のみだ。
 勿忘草ミオスティリヤの王太子旗――
(あれを見ると街を取り戻してやるって感覚が、どうにも遠いぜ)
 既にボードヴィルは明らかな離反者――あの旗は、ある意味そこに第三国があるようにすら思わせた。
 だが、街の住民達は別だろう。彼等は訳も分からず巻き込まれたに過ぎない。
 そして、まだそこにいるとしたら。
(ヴィルトール)
 王都とワッツとを繋ぐ伝令使は、ヴィルトールがそこを離れたとは言っていなかった。
 意識をひとまずこの場に戻す。
「よし、徒歩で五人来い。スクードは他と待機だ」
「は」
 ワッツは馬を降り、鞍に括り付けていた外套を頭から被った。暗い布地のそれがワッツの姿を一層夜の中に隠した。五人の兵も同様に外套を被る。
「静かに降れ。泥ん中に残った地面を渡るからな」
 目指す地面――ボードヴィルへの『最後の道』は、シメノスを背後にしたボードヴィルの西側に、一面の泥の中に忘れ去られたように残されていた。
 おそらく、他よりも硬い岩盤だった為に泥地化を免れたのだろう。騎馬が一体通れればいいほどの狭い地面が、丘陵からボードヴィルの北西の街壁付近まで、細長く緩い弧を描いて残されていた。
 確認したのは十日前、情報は斥候によって本陣にもたらされた。
 夜陰に紛れればボードヴィルへの潜入に使えると思えたが、敢えて気付かない振りをして手を付けず、利用の機を慎重に窺っていたものだ。
 そこを使う。
 草の斜面を音を立てないよう慎重に降り、泥の海の縁に出る。夜目にもぬらりと光る泥にワッツは太い眉をしかめた。
「俺から行こう。焦って泥に落ちるなよ」
 同じく暗い外套に身を隠した部下達の目を見回し、ワッツは言い含めた。
 ワッツは薄闇に紛れた前方を、注意深く睨んだ。
 ボードヴィル街壁までは、やや弧を描きながら、およそ七十間。
 そこを足元を確認しながら進む。
 次第にボードヴィル街壁が近付いてくる。
(このまま行けば――)
 ワッツの意識にちらりとその考えが浮かんだ、その時だ。
「ワッツ中将、右斜め前方、シメノス岸壁付近に動きがあります」
 兵の鋭く低い声に、ワッツは意識と視線を移した。
 言葉通りの方向に、闇に蠢くものが見えた。
 シメノスを抱く岸壁の縁から、あたかも大河の水が流れ出すように、夜目に白い波が泥地に広がって行く。
「来たか――」
 左右の泥の表面に、その底から昇ってきた気泡が弾けた。ぼこり、と音が立ち、泥に潜む海魔の目が闇に無数に光る。
 泥を鳴らす湿った重い音と共に、あの半人半漁の海魔――人頭姫ハゥフルの影が闇からぬっと現れた。
 先頭にいるワッツとは、二間の距離があるかないか。
 ゼーレィではない。その身体の大きさは人と同じほどだが、この海魔の脅威は変わらない。
 ワッツは剣の柄に手を添え、姿勢を低く身構えた。兵士達も緊張を漲らせる。
「何度見ても、そそられねぇな」
 ぼそりと呟いた言葉を解したか、美しい人魚は、その美しい声に嘲笑を乗せた。
「醜い人間め。夜陰に紛れてボードヴィルに侵入しようというのだろうが、我等がこの道を見落としていたとでも思うか」
 宝石のごとき双眸を残忍に歪め、人頭姫ハゥフルが優美に腕を広げる。
「貴様等を切り裂く為に残したのだ、愚か者め」
 その声が喉を震わせる。
 死の歌を、歌うのだ。
 ワッツはにやりと笑った。
 唯一の乾いた大地。
 それが正規軍を誘き寄せる餌である事は想定済みだ。
「撃て!」
 張り上げた声に合わせ、丘に伏せていた兵達が一斉に立ち上がり、同時に矢を放つ。
『伏兵か!』
 突き立つ音と共に、ワッツ達六人の身体が淡い白光に包まれた。
 周囲の泥が振動したと思うと泥の刃が立ち上がり、ワッツと兵士へと襲いかかる。
 刃がワッツ達を切り刻んだかと見え――だが間一髪か、六人の姿はそこに無かった。
 人頭姫ハゥフルの視線が追った先、丘の上に幾つかの人影が動く。馬の嘶きと、蹄の音。
『逃がすな!』
 使隷の波が怒涛となって丘陵へと雪崩れる。ワッツ達の姿が丘に隠れた直後、波は丘陵へと打ち寄せた。






 ワッツは騎馬に跨り自分と、そして五人の兵達の姿を見て笑った。
 冷や汗で全身冷たくなったが、それでもまずは五体無事だ。
(術が効いたのか、それとも転移が早かったのか――もう一度試すのはぞっとしねぇな)
 術が効いたと思いたい。
「中将」
 スクードが促す。
 歌が防げたかどうかはともかく、ここで考えている場合ではないのは確かだった。
 丘陵の下から湿った音が重なり合い、近付いてくる。当然追ってくるだろう。
 ワッツ達の目的はただ防御を確認する事だけではない。
 ゼーレィの戦力を削る。
 法術に気付かれ、対応される前にだ。
「行くぞ。奴等を本隊まで引っ張る」
 気取られないよう――それが重要だった。






 使隷の波に乗り、人頭姫ハゥフルが丘を登る。
 既にワッツ達の姿はそこには無く、人頭姫ハゥフルの目は撤退して行く西方軍の騎影を捉えた。
 およそ一小隊、百騎か。
『愚か者め、我等から逃れられると思うか。追え!』
 号令に使隷の波が動き出そうとした時、『お待ち』、と濡れた声がした。
 人頭姫ハゥフルが身を返し、その場に平伏する。
 泥混じりの使隷達が作る水面から、影が身をもたげる。
『ゼーレィ様』
 身を伏せた人頭姫ハゥフルとは比べ物にならない背丈――三階建ての塔ほどもある身を起こし、それ、人頭姫ハゥフル達の長、三の鉾ゼーレィはワッツ達の騎馬が走り去る方向を見つめた。
 口元をにぃ、と笑みに吊り上げ、銀の双眸を細める。
『あれは計略であろ。――出(い)でや』
 ゼーレィの後ろで水音を鳴らし、同じ人頭姫ハゥフル達が身を起こす。
 その数が十、百、二百、と増えて行く。
 更に後ろに続くのは、西海の兵達だ。泥が練り上げ形作るように、兵列は視界を埋めて行く。
『気付かれたからと、ただ撤退などするものか。あの百騎も囮――そもそも百騎程度で来るはずがない、大方あの先に伏兵でもいるのだろう。我等を引きずり出すつもりでいるか――』
 内陸ならば有利と考えているのだとすれば、それは大いなる間違いだと嗤う。
 使隷さえあれば、泥地でなくとも幾らでも刃を生み出せる。
『だが誘うなら乗ってやろう。いい加減時は充分費やした、今さら様子見もないであろ。いつまでも長引かせては、海皇様もお腹立ちになろうしの』
 舌舐めずりをするような響きが声を彩る。
『ナジャルは今おらぬ。この機に我等の手で戦果を挙げる』
 ただ好きに喰らっているだけのナジャルを出し抜き、レガージュごときに手間取っているガウスよりも、ゼーレィとその一族が確たる地位を築く。
 そしてもう一つ――、ゼーレィはこの戦場でのアレウス国の兵士との小競り合いではなく、ゼーレィの真の望み、四百年抱えに抱えた望みをこそ、果たしたくて堪らなかった。
 今、ボードヴィルに、目と鼻の先にいる、忌々しいあの女。
 この時にもあさましくも息をしているあの女。
 あれを切り裂くのだ。
 その時に得られるだろう快楽を思い浮かべ、ゼーレィは恍惚と笑った。
『行け。伏兵ごと、兵ども全て切り刻み、奴らの血肉で腹を満たせ』
 次々と、泥を引き摺りながら西海の兵士が列をなし歩を進め、丘陵を埋めて行く。
 その数は、ワッツが引き連れた兵士千を優に超え、二千、いや、泥の海から次々と、四千もの兵と使隷二千、合わせて六千が夜を駆けて行く百騎を追い、動き出した。









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2018.10.8
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