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王の剣士 七

<第三部>

第三章『西へ吹く風』


 ヒースウッドがメヘナを伴い退出すると、イリヤはようやく彼等が先ほどまでいた床へ降りた。
 僅か三段の段差――、そのたった三段を降りただけのイリヤの肩が、静かに一度、上下する。
 自分へと向けられているヴィルトールの上に浮かんだ表情を確認し、ヒースウッド達と入れ替わりに入って戸口に立った衛兵、准将フォルトンの姿を視界の端に捉え、イリヤは黙ったまま窓際に置かれている藤の椅子に身を下ろした。


 二か月前、西方軍が壊滅した。
 その報は、ボードヴィルにもまた大きな衝撃をもたらした。一時街は騒然となり、不足し始めていた食糧状況も重なって、混乱が人々の間に広がりかけていた。
 だがヒースウッドの呼び掛けにより、次第に周辺貴族がボードヴィルへと集い始めると、住民達の不安も薄れ、そしてもう一つのとても・・・大きな・・・要素・・が、住民達と、そしてボードヴィルの兵士達にも深い安堵をもたらした。
 イリヤは窓の外に視線を投げた。
 先ほど中庭に集まっていた人々も、今は去って静けさが戻っている。
 彼等が熱狂的に見上げていた大屋根――そこに翼を畳む風竜の姿は、中庭からだけではなく街のどこからでも目にする事ができた。
 住民と兵士達は日々その威容を見上げ、そこにその姿がある事を確認した。
 そしてその傍らの、美しい女の姿を。
 ボードヴィルの人々の心に深く根を下ろした、この辺境の砦の、守護。シメノスに西海軍がいたとしても、街の外に泥の海が広がっていたとしても、彼等の心に安堵をもたらすもの。
 先ほどの熱狂を、女は笑っていただろうか。
(――もしかしたら)
 イリヤはこう思っている。
 シメノスの西海軍と泥土に囲まれたこの状況は、住民や兵士達が風竜とルシファーに縋るよう作られたのかもしれない、と。
 そして、『ミオスティリヤ』――、自分に。
 いや、それはほぼ確信だ。
 窓の外、風竜の懐に抱かれるようにして座るルシファーは、ほとんどいつもその暁の瞳を空へ向けている。
 ルシファーはイリヤへの興味を失ったのか、あの初めの三日間以降イリヤの前に全くと言っていいほど姿を現さなくなったが、イリヤを解放する事もなかった。
(解放なんて、甘い考えか……)
 イリヤは両手を持ち上げ、その二つの手を握り込んだ。
(ここで、やれる事を、やるしかない)
 切っ掛けやその時の状況はどうあったとしても、イリヤはイリヤ自身の意志で、時には頼りないその力を用い、ボードヴィルへ関わってきてしまった。それを無かった事にはできないと、そう思う。
 そしてイリヤは、住民や兵士達が自分に向ける眼差しを知っている。熱狂の裏にある不安と、それ故に求める救いを。
 ボードヴィルの住民を、兵士達を、守らなくてはいけない。
 このボードヴィルにいる、今や六千人にも近い人々の命をイリヤは負っていた。ミオスティリヤとして自らの命を断つこともなくこの状況に甘んじた時点で、イリヤは彼等の命運を負ったのだ。
 だが、先ほどメヘナが言ったとおり――
 彼等を、この街を守るその為の戦力もまた、ここにあった。
 風竜。
 そして風の王、ルシファー。
(使ってやる)
 ルシファーがあくまでイリヤをここに縛り付けると言うのなら、ここにあるものを全て使ってやればいい。
 何度も迷いながら、イリヤは自分にその道しかない事が判っていた。今さら引き返しようがないのなら。
 手のひらに食い込む爪先の痛みを宥めるように、心の内に過る優しい面影が重なる。
(……ラナエ)
 彼女と離れ離れになってからもう四か月が過ぎた。
 ヒースウッドは伯爵家が保護しているから安心して欲しいと言うが、いくらボードヴィルへラナエの身を移して欲しいと頼んでも、イリヤの願いを叶えようとはしなかった。
 戦場となるボードヴィルよりもヒースウッド伯爵家が用意した場所の方が、ラナエを安全に守る事ができるから、と。
『大事なお身体のラナエ様を危険に晒すわけには、決して参りません』
 恐ろしい予感が胸を占める。
 ラナエの身に何かあったのではないか。
 もし、そうだったとしたら――
(大丈夫だ。きっと無事でいる)
 彼等が、スクード達がラナエを助けてくれたと信じようとし、けれど彼等を含む西方軍が壊滅したのだと、不安が希望を塗り潰す。
「殿下」
 ヴィルトールの呼びかけに、イリヤは息を吐き、握り締めていた拳を緩めた。手のひらに爪の跡が赤く浮かんでいる。
「お疲れですか」
「大丈夫」
 ふと窓の外へ顔を巡らせる。カタカタと窓の木枠が揺れたのだ。
 窓へと顔を巡らせ――それはこの二か月の間に習慣のような行為になっていた――硝子の向こうに渦巻く風を見る。
 カラカラと、澄んだ美しい音色が風に混じる。
 砦城の大屋根の上で、風竜が骨組みの翼を広げるその音だ。皮膜の無い白い骨の翼が風を煽る。
 風竜の巨体は風を纏わせ、重量を感じさせずふわりと空に浮かび上がると、大屋根から飛び立った。
 骨組みのちょうど胸の位置に、あたかもその心臓がごとく、巨大な肋骨に守られるようにして腰掛けるルシファーの姿がある。
 ルシファーはイリヤのいる窓を見る事もなく――どの窓にも、城の上にも視線を落とす事もなく、風竜の懐に抱かれその翼が飛ぶままに任せている。
 そう見える。
(……今日もか――)
 巡回するのだ。骨組みの躯で風を奏で、ボードヴィル周囲を巻き起こす風で吹き散らし、シメノスに居座る西海軍を威嚇する。
 風竜のその行動が始まったのは二か月前、西方軍が壊滅してからだった。
 その為か、以来西海軍は小手先程度の戦闘しか仕掛けては来なくなり、ナジャルはこの二か月姿を現わしてもいなかった。
 住民や兵士達を安堵させ、ボードヴィルの安全の象徴ともなっているもの――、それがこの風竜の滑空だった。
 風竜は空を覆うような翼を広げ、サランセラムの丘の上空へ飛んで行く。
 青い空の白い姿をじっと見つめているイリヤへ、ヴィルトールはもう一度声を掛けた。
「ミオスティリヤ殿下、しばらくお休みください。私はまた所用で少し出て参ります。何か御用はございますか」
「ああ、いつものだよね、私も行きたいところだけど」
「殿下は、その」
 戸口にいたフォルトンがやや慌てた顔をするのへ、イリヤは溜め息をついてみせた。
「自由に動けない事は判ってるよ」
「そのような……!」
「フォルトン准将を困らせるものではありませんよ、殿下。街でこっそり甘いものでも入手してきますので、それで我慢してください」
 ヴィルトールは朗らかに笑い一礼すると、フォルトンへ「あとは頼んだよ」と言って部屋を出ていった。
 扉が閉まる音を聞きつつ、イリヤが椅子の中で肩をすくめる。
「ヴィルトール中将は私を小さな子供だと思ってるよね、フォルトン准将」
「いえ、中将は殿下にできる限り寛いで頂きたいのです。殿下は重責を担っておいでなのですから」
 真面目だなぁ、とイリヤは笑った。フォルトンは黒地の軍服、つまりこのボードヴィルでイリヤの警護の任を追う衛兵としてヴィルトールの指揮を受ける立場だが、元々ヒースウッドの直属の部下で、大柄で実直そうな風貌をしていて、考えた方がヒースウッドに似ている。
 基本彼と彼の部下十名が交互に前室に詰め、ヴィルトールと共にイリヤの警護に当たっていた。
「さて、少し休ませてもらうから君も退がっていいよ、フォルトン准将。ヴィルトール中将が戻って来たら一緒に甘いものでも食べよう。そうしたら僕達は共犯だ」
 イリヤのいたずらめいた口調にフォルトンは照れ臭そうに相好を崩し、敬礼して部屋を出た。
 扉が閉まるのを確認し、イリヤはゆっくり、抑えた息を吐いた。












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2018.12.24
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