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王の剣士 七

<第三部>

第三章『西へ吹く風』

二十二

 高い天井近くに設けられた飾り硝子の窓からは、朝の光が淡く落ち、謁見の間を水底のように浮かび上がらせている。
 両開きの扉から伸びた深緑の絨毯の行き着く所は玉座へのきざはし、十五段のその階の中段よりやや上に一つ、踊り場が設けられ、そこに国王代理者の為の仮の玉座が置かれていた。
 壇上にある玉座には、この半年近く、触れる者は無い。
 ファルシオンは仮の玉座の横に立ち、居並ぶ諸侯と向かい合っていた。
 エスティアの騒動とそれに伴い城内に流れた噂、そして昨夜半の、東方軍によるヴィルヘルミナ強襲。
 その結果はここに立つ全員が既に知るところだ。
 ファルシオンの斜め後ろに立つスランザールと、後方に控える近衛師団第三大隊大将セルファン。
 階の下にベール、アスタロト。
 ヴェルナー、ゴドフリー、デ・ファールト、ランゲ等の十侯爵。
 正規軍タウゼンと参謀総長ハイマンス、各方面将軍に代わって第一大隊大将。近衛師団総将代理グランスレイと参謀長クーゲル、相談役ハリス。
 法術院長アルジマール。司法庁長官クロフォード。
 国の中枢にある主だった者達は全て顔を揃えていた。
 しんと静まり返った謁見の間は、黙してファルシオンの言葉を待っている。
 階の前に立つベールが一度列席者達の顔触れを見回し、壇上を振り仰いだ。
「国王代理、王太子ファルシオン殿下に、お言葉を賜る」
 ファルシオンは束の間、言葉を発さず、視線を階の上に落としていた。
「殿下――」
 斜め後ろに立つスランザールが思わし気に白い眉を寄せる。
 一連の事件について、ファルシオンには国王代理としての説明責任がある。しかし昨日の件を口にする事はまだ苦痛かもしれないと、スランザールが顔を階段の下に向けかけた時、ファルシオンは玉座の横に立ったまま、幾度か呼吸を繰り返した。その様子はスランザールにしか判らなかっただろう。
「――今回、私のせいで王城内をさわがせてしまった。そのことをまず、みなにわびたい」
 今回の件はファルシオンがエスティアに、レオアリスが怪我をして動けない状態である事を話してしまったから起こった事だ。
 その事実を知っていたのは国の中枢の、更にごく限られた者だけだった。ここにいる者達にさえ伏せていた――そう決めたのだ、あの時。
 レオアリスが負傷から回復するまで、対外的には近衛師団分裂と警護時の失態の二つの失態の責任を問う形にする事で、ファルシオンの赦免さえあればいつでも戻れると示す事が重要だった。王の不在に加え、王城が防御陣を失った事、アスタロトが炎を失った事、ボードヴィル、東方公の動向。そうした幾つもの不安要素を補う為の決定だった。
(殿下には苦しい思いをさせてしもうた)
 初めは近衛師団の失態に対し、レオアリスの官位剥奪と蟄居は妥当な措置と受け取られていたが、今は次第に赦免を望む声が高まってきている。
 戦況が膠着し――ゆっくりと悪化している中で、王城は、ファルシオンは、いつまで手を打たないつもりかと。
(それを揺さぶるのがベルゼビアの狙いじゃった)
 だが、それでも今もまだ、この姿勢を通さざるを得ない。
 ファルシオンは立ったまま階の下を見下ろし、幼い、だが明瞭な言葉を口にした。
「みなが赦免すべきと考えていることはわかる。でも」
 スランザールの立つ位置からは、ファルシオンの瞳の色は読み取れなかった。
「わたしはまだ、レオアリスを頼る気にはなれない」
 階の下で、数人が身体を揺らす。周りの反応を見るように首を巡らせ、噂と、ファルシオンが今言った言葉と、どちらを取るかを秤に載せる。
 その声には出されない流れの行くところを、スランザールはじっと見据えた。
(――今は、まだ)
 既に大半が意味の無い体裁であっても、もう一度取り繕う事が今は必要だ。
 階下のベールが列席者を見回し、一度ファルシオンを見上げると、続く動作で深く頭を下げた。
「王太子殿下。此度の騒動において、御身御無事であられた事こそ、我等にとって重要な事と存じます」
 そのままベールは身を起こす事なく続けた。
「そして御身を二度に渡り危険に晒した事は、我々臣下の落ち度であり、心胆よりお詫び申し上げると共に、今後一切と起こらぬよう再発防止を徹底せねばならないものです」
「そんなことは」
 ファルシオンは首を振り、一歩踏み出した。
「みな、全力を尽くしてくれている。じゅうぶんだ。いつも感謝しているし、助けてもらっている――でも」
 ファルシオンがその先を口にする前に、ベールは先んじて動いた。
 片膝をつき、その場の全員がそれに倣う。
「王太子殿下のお志、確かに受け賜わりました。我等一同、変わらず貴方をお支えして行く所存でおります」





 ファルシオンはセルファンとスランザール、二人のみを伴って薄暗い廊下を歩いた。王の執務室と謁見の間とを繋ぐ、窓の無い廊下だ。
 壁の蝋燭の灯りだけが、時折揺らめく影をファルシオン達の足元に投げる。ファルシオンは四方に揺れるその影をじっと見つめていた。
 ファルシオンの迂闊な対応が今回の出来事を招き、そしてその結果は、誰しもを落胆させるものだった。
 母である王妃も、姉エアリディアルも、ファルシオンの傍には戻って来なかった。
 東方軍の兵士達を、失ってしまった。
 あの場にいた人々は、こんな状況を、ファルシオンを、どう思っているのだろう。あの場にはいなかった王城の人々。
 それから、王都の住民達は。

『貴方には資格が無いのだ!』
『王たる資格、その能力、資質も無い!』

 あの時エスティアが言ったのと同じように思っているのではないか。
 そんなこと当然だ。
 ファルシオンはこれまで、何もやっていない。
 誰も、どこも救えていない。

『だからあの剣士も、目を覚まさないのだ――!』

『貴方に剣を捧げる価値が無いと』

 今は誰もがファルシオンの言葉を聞いてくれている。
 けれどそれは、ファルシオンが国王代理という立場にあるからだ。
 ファルシオン個人の言葉を聞いてくれている訳ではない。
(私が、父上の子だから)
 ふっと想いが過ぎる。
 レオアリスはどうだったのだろう。本当は。
 王子だったから――剣の主の子供だったから、かもしれない。
 ファルシオンはぎゅっと唇を引き結んだ。
 ベールが『臣下の落ち度』と言った時、ファルシオンはそれを否定したかった。今回の事は全て、自分の責任だ。決して彼等の落ち度ではないと。
 だがベールはファルシオンがその言葉を発する前に、謁見を打ち切った。
 ベールの言おうとしていることは、わかる。
 上手く言葉にはできないけれど。
 けれど、たぶん自分は、何かを――起きたことを、自分の責任だったと言うだけでは、だめなのだ。
 国王代理として、それではだめなのだ。
 ベールは言外に、それを伝えているのだと思う。
 そして、臣下と言ってくれる彼等のその言葉とその示すものを、ただ受け止めるだけではだめなのだ。
 同じぶん――それ以上に、返せるものがなくては。
 ファルシオンはまだ小さい手をぐっと握りしめた。







 謁見の間を出て、アスタロトはタウゼン達と共に歩き出した。
 先ほどのファルシオンの姿と、彼がその小さい肩に負っているだろうものの事を、アスタロトはずっと考えていた。
 自分がもしあそこに立たなくてはならないとしたら。
 いや。
 アスタロトは自分自身の、その責務を果たさなくてはならない場所に既に立っている。
 歩きながら襟元から、革紐に下げていた絹の小袋を取り出す。
 アスタロトは両手でそれを握りしめた。
 中に入っているのは、子供の手のひらほどもある鱗。紅玉のように艶やかで、とろりとした深い真紅。
 とても硬くて、本当は鱗に細い鎖を通そうとしたが、専門の職人が手を掛けても尚、錐をまるで受け付けなかった。
 これが何の鱗なのか、何故カラヴィアスがアスタロトへこれを差し出したのか、アスタロトにはまだ判っていない。
『これは加護だ』
 カラヴィアスはそう言った。
 一度だけならば窮地を救う事もあるだろう、と。
(私の――?)
 ならば望むものは、ただ一つだ。
 今。
 炎を戻す。
 自分の責務を果たす為、アスタロトが戦場に送り出した兵士達を助け、西海を退ける為に。
 その為に必要なのは何より、炎帝公としてのアスタロトであり、炎だった。
(私が、何もできていないから)
 炎さえ失っていなければ――
 西方軍は。
 王は。
 けれどいくらこれに願いを掛け続けても、炎の戻る気配すら無かった。




 タウゼンは歩きながら、数歩前を行くアスタロトの姿を見つめた。
 その姿は何かに祈るようだ。
 最近では真実は知らないまでも、アスタロトついても憶測が出始めており、タウゼンの耳にも届いていた。
 それは正規軍の中においてさえもだ。噂は厳しく禁じているが、それでも兵達の間でひっそりと交わされた。それは即ち、兵達の不安の表れでもある。
(噂は無くす事はできん――)
 事実西海の侵攻より半年、アスタロトは一度も戦場へ出ていないのだ。
 『炎帝公』は兵隊の希望だが、このままアスタロトが戦場に出なければ希望は疑問に、いずれ落胆に変わる。
 次に西海が侵攻を始めれば、ますます声高に、いずれ抑えきれなくなるとタウゼンは懸念していた。
 そうなる前にアスタロトの炎が戻って欲しいと――
 そう望みながらも片や、果たしてそれはアスタロトを幸福にするのだろうかと、そんな想いもまたタウゼンの中にあった。








「聞いたか、剣士の噂」
 王城内には、ごく声を抑えた囁きが、ところどころで交わされていた。
「この国、大丈夫なのか、このままで――西海がまた侵攻して来たら」
「ファルシオン殿下は、まだ御年五歳の幼さであられる。国を担うのは重責過ぎる」
 本当にごく小さな囁きだ。そう囁き交わす彼ら自身、自分の言葉を懼れている程の。
「やはり王妃殿下や、王女殿下に国王代理に着いていただくのが妥当なのではないか」
「何を言っている。では東方公が正しいとでも?」
「い、いや――さすがにそこまでは」
「国王陛下が王太子殿下を代理と指名なさったのだ」
「しかし、国王陛下は、ここまでの事態は想像なさっておられなかったのでは。もしこの事態が判っていれば、王妃殿下なりを指名されるのではないか」
「結果論だ。第一、王妃殿下は王位継承権をお持ちにならない」
「エアリディアル王女はどうだ?」
「あの方は、聡明であらせられるが――王子であれば――」
 ふと、それまで以上に抑えた声が呟く。
「西の――」
 低い、だがどこか力強い響きだった。
「ボードヴィルには、シーリィア妃殿下の遺児がおられるとか」
「騙りだろう、それは」
「しかし真実なら、長子という事になるのか」
「生きておられれば今、御年十九におなりだろう。もし――」
 彼等はお互いの顔を見つめ、それ以上は恐ろしくなったのか、首を振って別の話題に移った。













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2018.5.19
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