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王の剣士 七

<第三部>

第三章『西へ吹く風』

二十

 深夜、月は濃紺の天空に湾刀のような細い光を浮かべていた。
 鋭利な月には夜を照らすほどの輝きは無く、ヴィルヘルミナの街壁の外は、街の灯りも外壁に掲げられた篝火の光も、すぐに飲み込んでしまうほどの闇が迫っている。
 東に面した街壁の上で、張り巡らせた通路のへりに背を預け、見張りの青年兵は時折闇に目を凝らしていた。広い水路が街壁の足元にあるが、夜だと篝火の灯りを水面に映すのみで、他と変わらず黒い。
「そんなに目をひんむいて、何かおもしろいモンでも見えるのか?」
 隣で壁に寄りかかっている年配の兵士があくびを噛み殺しつつ、のんびりとくぐもった声を出す。槍を持った腕ごと伸びをして、喉の奥を鳴らしている。
「――こういう時こそ、気を引き締めなきゃいけませんよ」
 今は任務中なのだ。青年兵は年配の同僚の場違いな態度に内心眉をしかめつつ、視線を前方の闇――草原があるはずだ――へ向けたままそう返したが、年配の兵士には響いた様子も無い。緊張感が全くなく笑っている。
「大丈夫だって、街の北西にゃ第三大隊が五千、陣を張ってるんだから俺達にまでお鉢なんて回ってこないんだよ。お前は余計な気を張り過ぎなんだよなぁ。ま経験が浅いからしょうがないが」
 そういう自分は実戦経験がどれほどあるのだと、青年兵は心の中でぼやいた。彼等はこの街の警備兵で、東方公に下った東方第三大隊とはまた違う。これまで訓練の為以外に剣を握ったのはたまに周辺の街道に出没する盗賊の捕り物の時ぐらいで、軍を相手の戦闘など東方軍と対峙するまで誰も経験は無かったのだ。
 そう、これは戦争だ。
 そう思うと胃の底がぐっと縮み、酸っぱい胃液が喉元まで込み上げる。
「いつでも動けるように、少しぐらい気を張っておかなきゃ。いつ東方軍が攻めて来るかわかんないですよ。北西に陣を張ってても前の陣を迂回されたら、第三大隊が駆けつけて来るまで俺達がこの街を守らなきゃ」
 王妃と、何と言っても王女エアリディアルがこの街にはいるのだと、青年兵は手にした槍を握る力を強めた。
 だが年配の兵士は青年兵の言葉をまた笑い飛ばす。
「やり合ったのなんて最初だけだっただろ。あとは国ン中も他がごたついてて、たまに講和の使者を送ってくる程度でこっちと本気でやろうなんて思ってないんだし、東方軍だって夜は寝てるさ。それにいざとなりゃ橋を全部跳ね上げちまえばいいんだよ」
「そんな」
「ああ、家帰って酒飲みてぇなぁ。さすがに夜は冷えてしょうがねぇ」
 年配の兵士はぼやきながら篝火の前に移動し、炎に手をかざしている。
 青年兵は溜息をつき、暗い草原へ目を凝らし、かけた。
 何かがすぐ顔の横を過り、鞭のような風を感じた。
 呻き声に振り返る。
 矢が年配の兵士の胸に突き立っている。
「……ト、トーリさん!?」
 立て続けに矢羽根が風を切る音。
 篝火に矢が二本、突き立つと同時に、支えていた角棒の柱ごとぐらりと傾ぎ青年兵の足元に倒れる。
 一瞬、ぱっと篝火の火が勢いを増した。
 その刹那、街壁前の暗闇に、幾つもの銀色の光を弾く。浮かび上がる人馬の影。軍旗。
「き……、奇襲――!」
 青年兵は慌てて声を張り上げた。
「東方軍だ!」
 俄かにヴィルヘルミナの街壁は騒がしさを増した。




 スキアはヒュッと息を呑み、寝室の扉を背に声の方を振り返った。
 ユング達も四肢を張りつめ、身構える。
 四人の視線の先に、廊下への扉の前を塞ぐ十数名の衛兵、その奥に立つ男の姿は、昼に中庭で話をしたブラフォードだ。
「ブラフォード……!」
 ブレイクが短剣を掴む。ユングは短剣をアルマに渡し、自分は空手のまま腰を落とし構えた。
 緊張が満ちる室内で、ブラフォードは一人悠然と薄い笑みを浮かべ、衛兵の間を半ばまで進み出た。
「ファルシオン暗殺は防げたか」
「!」
 ブレイクが一歩、前へ出る。
「やはり、罠か……」
「当然だろう。お前達は理解していたはずだ。罠だろうという事をな。我等も王都の手を失い、そしてお前達も目的は果たせない。まあ痛み分けとして良い落とし所か?」
「――公爵は」
 ブラフォードはまた笑った。
「当然ここにはいない」
 スキアはアルマとユング、ブレイクと、素早く視線を交わした。
 目的を切り替える。
 王妃とエアリディアルの、転位に。
「ならブラフォード、貴方にだけは死んでもらう!」
 身を低く落とし、四人同時にブラフォードへと床を蹴る。衛兵達がブラフォードの前に広がる。その数はおよそ、二十。
 ユングは空の手で一人、衛兵を引き倒し、腹に拳を叩き込むと同時に衛兵が腰に帯びていた剣を引き抜いた。そのまま正面の衛兵を斬り、右斜めから振り下ろされた剣を弾いて胸を突き、その向こうのブラフォードを視界に収める。
 ブレイクもユングと同様、素早く踏み込み、斬りかかってきた衛兵の剣を躱し手首を短剣の柄で跳ね上げた。その肘を相手のこめかみに打ち付けつつ、衛兵が取り落とした剣を宙で掴む。
 右手の短剣を投げる。斬り掛かりかけていた衛兵が短剣を胸に受け倒れる。
 スキアとアルマの足元に一人ずつ、衛兵が呻きを上げて倒れた。
 囲もうとしていた衛兵の輪が、やや後退る。
「さすがに潜入させるだけはある」
 衛兵の後ろへと下がりつつもブラフォードの笑みが余裕を崩さないのは、衛兵がすぐに駆けつけるからだろう。
 これで七人――だが衛兵はまだここに残っている者で十名を超える。更に応援が駆けつければ、スキア達四人では到底切り抜ける事はできない。
 だが、それでいい。
(そう――)
 ここに騒ぎを集中させれば、ゲルド達が王妃達を転位陣で救出する時間をより稼ぐ事ができる。
 そして、二人を無事王都に――
 ファルシオンの元へ。
 ファルシオンを称える詩を歌ったあの時、王妃の瞳に湧き上がった光と喜びを、スキアは胸の中に想い起こした。
 今は何より、王妃が、王太子と再び会う事ができれば。
 廊下に叫び交わす声が上がる。慌ただしく近付く複数の足音が、次第に増え、高まる。
 スキアは剣を構え直した。
 ブラフォードが薄く笑う。
「時間を稼ぐつもりか?」
 全てが見抜かれているように思え、鼓動が跳ねる。それを飲み込みスキアは踏み込んだ。
 その時、遠く、空気が震え空に喚声が広がった。
 夜風に乗って騒めきが流れて来る。
 ブラフォードが窓の外に視線を投げる。
 南側の窓の端から、街の外れに赤い光が見えた。
 炎――スキアは頬に笑みを閃かせた。
 東方軍による強襲だ。
「何だ――」
「街壁辺りに」
 衛兵達の間に動揺が広がり、意識は半ばスキア達から逸れている。
 スキアは衛兵の剣を潜り抜け、ブラフォードへ迫った。
 暗器を衛兵の腕に突き立て、その手から長剣を奪う。
 右から切りかかる衛兵の腹部を斬り裂き、更に踏み込む。
 間にはあと二人。
 一人。
「――ブラフォード!」
「目的は果たせないと言ったろう。お前達の部屋は既に押さえている」
 スキアは思わず息を止め――、次の瞬間、背後から自らの腹部に冷たい鉄が突き立つのを感じた。
 喉が呼吸を失い、引き攣る。
「スキア!」
 駆け寄ろうとしたユングの前に扉から新たな衛兵の一団が足音を立てて雪崩れ込む。ユングは奥歯を軋ませ衛兵達へ剣を向けた。
「スキア――、そいつを!」
 ユングの声と激しい剣戟とが重なる。
 スキアは背後の音を背に歯を噛み締め、血に濡れた手を床につき、正面に立つブラフォードへとにじり寄った。手のひらほどの距離を進む為に何度も荒い呼吸を繰り返す。
 背後の音。
 僅か三人で、この人数は無理だ。
(私が、ブラフォードを――)
 肩に硬い靴底が当たる。
 踏み付けた衛兵はスキアの背から剣を引き抜いた。
 冷たい感触の代わりに生暖かいものが溢れ出し、腿と膝を伝って床へ零れる。
 広がっていく血溜りに膝を付き、剣で身体を支える。
 背後の音が、もう余り聞こえない。
「お前達には礼を言おう。お陰で確認できた事がある」
 スキアはブラフォードを見上げた。
「何、の、話……」
 腹部に広がる熱、痛み。
 目が霞む。
(せめて――)
 目の前の。
「近衛師団の剣士の動向は、警戒要素の一つだった。だが今回の事で明らかになった。王都守護どころか、ファルシオン守護の役割もろくに果たせない事をな」
 あと一歩――前に出て剣を振れば、ブラフォードに届く。
 そのあと一歩が、果てしなく遠かった。
「この情報を一番喜ぶのはどこだか、言わずとも判るだろう」
「――」
 意識は薄れ、スキアは自分の血溜りの上に倒れた。
















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2018.5.12
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