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王の剣士 七

<第三部>

第三章『西へ吹く風』

十七

「殿下」
 エスティアは膝を付き腹の前に手を組んで、挨拶もそこそこ自分の目線よりもやや低いところにあるファルシオンの瞳を見つめた。
「わたくしは考えたのです。昨日、殿下のお話をお聞きして、どれほど殿下が御心を痛められている事か――ああ、いえ、違うのです。御心を痛められておられる殿下を、どうお支えすれば良いか、その事を一晩ずっと考えておりました」
 エスティアがそっと声を潜める。もうほとんど太陽の沈んだ暗い硝子戸を背に、黒い瞳がやや熱を帯び、ファルシオンの瞳から離れない。
 その瞳の色を見つめ返していると、次第にその黒が、記憶の中の漆黒と重なる。
 あの瞳がいつも、どう、ファルシオンへ向けられていたか――
 いつも飾りなく、時折可笑しそうな色を含んで。
 でも、最後に見た瞳の色を覚えていない。
 あの夜?
 それとも、夜が明け、彼がファルシオンから遠く膝をついていたときに
「殿下。わたくしと共にレオアリス殿の所へ参りましょう」
 はっとして心を戻し、エスティアの言葉を反芻して、ファルシオンは二つの瞳を見開いた。
 レオアリスの。
「殿下が呼び掛ければ必ず、彼は目を覚ますはずです」
 動揺と、迷いと、微かな期待――混じり合い、瞳の金色が揺れる。
「でも……」
 ファルシオンの視線を追って扉の脇に立つハンプトンの姿を見つけ、エスティアは大きく頷いた。
「ハンプトン殿にはわたくしから、上手くお伝えします」
「そうじゃ……」
 そうではない。ハンプトンが許す、許さないではなく――
 小さな手が胸元を抑える。指が生地の上を探り、その下にある何かをぎゅっと握りしめる。
「でも、レオアリスは、ずっと眠ってて、目を覚まさない――きっと」
 今まで何度も扉の前に立った。その内の何回かは、横たわる姿に触れるほどの傍にいたけれど。
 目を開けない。
 反応もない。
 だからファルシオンはあの瞳を最後にいつ見たか、覚えていない。
「いいえ。諦めてはいけません。殿下の仰るとおり、怪我を負って眠っているという事ならば、何度でも、何度でも呼びかける事が、回復につながるのではありませんか」
 何度でも、と、エスティアは声に力を込めた。
 ファルシオンは唇を噛み締め、手の中に掴んだそれの、布越しに伝わる存在を確かめる。
 アスタロトから贈られた護符――レオアリスの首にかけたのと同じものと、そしてレオアリスが首にかけていた青い石だ。
 不可侵条約再締結のあの日、謁見の間で血を吐いた時にちぎれてファルシオンがずっと持ったまま、以前は青く澄んでいたその石は、この半年くすんだままだった。
 例えば、この石が元の澄んだ色に戻ってくれれば。
 そうなれば、目を覚ますのかもしれない。
「何度でも――殿下」
 何度でも。
 ファルシオンも、ずっとそう思ってきた。ずっとそう思いながら今まできた。
 けれどまだ足りないだけで、今日あの場所に行く事で、もしかしたら今日、変わるかもしれない。
「――わか」
「お待ちください、ファルシオン殿下」
 遮ったのはハンプトンではなく――枯れた、だが威厳ある声だ。
 厳しく、咎めるような響きを持ったそれに、エスティアが驚いて振り向き――それから一瞬顔を歪めた。
 スランザールが開いた戸口に立っている。そしてそのすぐ後ろにはセルファンが、スランザールよりも尚険しい面持ちで控えていた。
 ハンプトンが決まり悪げに、ただほっと頰を緩める。先ほど侍従に呼びに行かせたのだ。
 ファルシオンは瞳を瞬かせた。
「スランザール、セルファンも、どうしたのだ――」
「殿下、お話し中失礼ながら――、その者を、捕縛させていただきます」
「な――」
 エスティアは身をひねって腰を浮かせた。その額には脂汗が滲み、引き攣った笑いが浮かんでいる。
「何を仰るのです、スランザール様。わたくしが一体」
 スランザールがファルシオンへ近寄り、間に立ちはだかるようにその傍らに立った。
「そなたは甘言を弄し王太子殿下の御心に付け込み、更には殿下から聞いた話をばら撒いた。覚えがあろう」
「何の事を……わ、私には、何がなんだか」
「殿下」
 蒼褪めるエスティアに構わず、スランザールはファルシオンへ視線を転じた。白い眉の下の眼差しは普段になく厳しい。
 それはファルシオンに対する厳しさではなかったが、ファルシオンは思わず身を縮めた。
「城内で、噂が広がっておるのです」
「うわさ……?」
 どくりと鼓動が鳴る。スランザールが何の事を言っているのか、聞かなくてもファルシオンには判る気がした。
 いや、判っている。何故ならファルシオンが話してしまったから。
 スランザールがゆったりとした裾を揺らしてエスティアと向き合い、その厳しい眼差しを本来向けるべき相手に向けた。
「レオアリスは蟄居ではなく、負傷により動けないのだと、そうした噂です」
 鼓動が鳴り、足元がふらついた。
 駈け寄ったハンプトンの腕が身体を包む。「殿下、こちらへ――」
 セルファンは逆に一歩踏み出し、腰に帯びた剣の柄に手を当てた。
「エスティア伯爵、ご同行頂こう。話を詳しくお聞きしたい」
「何を言う、セルファン大将! たかだか噂がなんなのだ――私がそんなものにどうかかわっていると言うのだ!」
「噂だけではない。東方軍からも一つ情報が入っている。こちらの方が重要なのだ」
「重要? 何を」
「ベルゼビア公爵と、その指示に関するものと言えば、お判りになるか――?」
「ベルゼビア――? そ」
 そんな馬鹿な、と小さな呟きが漏れる。
 ファルシオンはぎゅっと、胸元に隠した青い石の飾りを握り締め、見開いた瞳をエスティアへ向けた。
「エスティア」
「殿下はもう少々お下がりください」
 セルファンがエスティアへと近づく。エスティアは立ち上がり、庭園への硝子戸へとにじり寄った。
 エスティアの視線が忙しなく室内を動く。ファルシオンと、スランザールと、セルファン――剣の柄に当てられたセルファンの左手、三つある部屋の扉と、背後の硝子戸。
「いや、何の事だか――わ、私は、何も……」
「エスティア、そなたは――」
 ファルシオンは狼狽えているエスティアの顔をじっと見つめた。
「レオアリスの話を聞きたいと言ったのは、嘘だったのか――?」
 ファルシオンの視線を躱すように、エスティアはくるりと身を返した。懐に手を突っ込み、折りたたんだ紙を掴み出す。庭園への硝子戸を押し開け、だがその肩をセルファンが捉え、床に引き倒した。
 同時に庭園に伏せていた隊士が硝子戸から雪崩れ込む。
「離せ! ――ッ」
 うつ伏せに取り押さえられ、左腕を背中に捩じり上げられる痛みに呻きつつエスティアがもがく。
 あっという間の出来事に茫然としていたファルシオンは、ハンプトンの腕から抜け出し、エスティアを見つめた。その手は石を生地ごと掴んだままだ。
「エスティア……私に、嘘をついていたのか」
 床に頬を落としたまま、エスティアはちらりと上げた視線をすぐに逸らした。
「なぜ」
「殿下、この者と直接お話になる必要はございません」
 スランザールがファルシオンの肩にそっと手を置く。だがファルシオンは首を振った。
「エスティア。何故だ」
 エスティアは束の間口を引き結んでいたが、その口元を歪めた。
「――何故と問う前に、貴方は国王代理の役割を果たしましたか」
「引き立てろ」
 セルファンの指示に隊士が二人、エスティアの肩を掴んで引き起こす。両手を後ろに回されながら、エスティアは首を捻り、ファルシオンを見た。エスティアの拳の中で、握った紙が微かな音を鳴らす。
「王の役割は何ですか? 我々に必要なのは我々を安堵させてくれる王だ。我々に平和と豊かさをもたらす王――だが貴方はそれができていないのです、殿下。今のこの混乱を、半年経っても抑えきれない」
「――」
「殿下、もう良いでしょう。この者は然るべき処罰を与えます」
「正当な裁判を要求する!」
 エスティアは身体を激しく捻り、だが隊士達が押さえる手から抜け出せず、辺りに噛みつくように顔を突き出した。
「確かに私のやろうとした事は結果的にその王子を害すものだったかもしれない。だがその王子はそこにそうしているだけで何もせず、多くの国民を害しているではないか!」
「いい加減にせぇ」
 スランザールを睨む。
「貴方も同じだ、スランザール公! 子供を祭り上げ、権力を握っているだけだ!」
 隊士はセルファンの視線に、エスティアの腕を後ろ手に掴んだまま扉へと引き立てた。
「離せ! 私の行為は称賛されるべきものだ! 私に賛同する者はいるぞ! 幼いから何もしない事が許されるとでも?」
「早く! 早く外に連れ出してください! 何という――」
 ハンプトンはファルシオンを抱き締め、その耳を塞ぐように頭を胸に抱え込んだ。
「殿下、お聞きになることなど」
「貴方には資格が無いのだ! 王たる資格、その能力、資質も無い! だからあの剣士も、目を覚まさないのだ――! 貴方に剣を捧げる価値が無いと」
 勢いよく伸びたセルファンの手に襟首を掴まれ、エスティアは口を噤んだ。
「妄言はその辺にしておけ。何を言おうと言い逃れはできない」
「――ッ」
 エスティアは顔を歪めて俯いた。
「来い」
 隊士に引き立てられて半ば足を引き摺るように歩きながら、エスティアは辺りに目を配り、それから、それまで右手に掴んでいた紙を、大理石の床に落とした。
「何だ? 何を落とした――」
 気付いた一人の隊士が、紙を拾おうと屈んで手を伸ばす。
 四つに折りたたまれていた紙がひとりでに開き――、
 そこに一瞬、小さな法陣円が輝いたかと思うと、紙ごと燃え上がった。
 紙はあっという間に燃え尽きた。
 一瞬、辺りがしんと静まり返る。
「――何をした」
 セルファンはエスティアを睨み、辺りを見回した。兵士も、スランザールも、ファルシオンも。
 エスティア自身も。


 それは、一つでは用を為さないものだ。
 散りばめられた全ての術式が揃って初めて、発動の条件を満たす。
 そのままでは髪の毛一筋ほどの影響も他に及ぼさない代わりに、気付かれる事もない。
 今、エスティアによって持ち込まれた術式の発動をきっかけに、ばらばらにただ存在していた術式の欠片――
 いわゆる符印は紡ぎ合わされた。
 ハンプトンはエスティアから贈られた七冊の書物を、書斎の棚に収めていた。ファルシオン達が今いる部屋の隣室だ。
 左の書棚の高い段に並べられた七冊の書物は、閉じた紙の隙間からじわりと光を零した。
 光は書を溶かし、蕩けた光が書棚から床へと滴り落ちる。七冊分の液体が床の上で一つに混じり合い、水溜りを作った。
 どろりと重く、虹色に輝きながら表面を泡立たせるそれは、あたかも影の中に横たわる毒の沼のようだった。
 地の底から怨嗟を吐き出す様に似て、それは煙を吐き出し始めた。
 ぱちりと弾けた泡から紫の煙が湧き上がる。
 ぱちり、ぱちりと弾け、その都度床の上に煙が重なる。
 途絶える事なく湧き上がる煙は、するすると床を伸び、扉へと向かった。
 壁際の花台に飾られていた花が、煙に触れて瞬く間に枯れて落ちる。
 生き物のように這い進む煙は、扉の下の隙間を潜り、ファルシオン達のいる部屋へと滲み出した。















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2018.4.30
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