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王の剣士 七

<第三部>

第三章『西へ吹く風』

十三

 赤い液体の面に、淡い光が宿っている。
「公爵閣下」
 冷えた大広間に膝をつき、ベルゼビア公爵家に仕える法術士長オブリースは身を伏せた。
「オブリース殿、ご報告を」
 そう告げたのはベルゼビアの傍らに立つ公爵家家令だ。
 オブリースは頷き、自分の懐に納めた手のひらほどの水晶球を取り出した。そこにこれまで彼の術が捉えた光景が、一つ一つ映っている。
「これで六つ――あと一つで満たします」
 オブリースと長い卓を挟んだ対角にはたった一つだけ椅子が置かれ、東方公ベルゼビアが悠然と腰掛けている。
 卓の上に載せられていたベルゼビアの指先が、手元の玻璃の杯の表面に触れる。乳白色の水晶は薄く削り磨き上げられ、中の赤く澄んだ液体を透かしていた。
 触れた指先から伝う僅かな振動が、液体の表面に波紋を揺らす。広く天井の高い部屋の北面に並ぶ窓からは、淡い午後の光が差し込み、玻璃の中の液体に沈んだ光を含ませている。
「それで」
 ベルゼビアの眼差しを感じ、オブリースは緊張に身を固めた。
「探っておりますが、いまだ状況は掴めておらず――しかし城内でも蟄居に対して疑問視する声は聞こえています」
 ファルシオンの意思一つで、必要となればいつでも赦免することができる。
『必要となれば』――つまりはその戦力を必要とする状況になれば、という事だ。そしてそう見えてこそ、国内が混乱した現状の抑止になる。
 あの一連の事案に対する処分と、必要な戦力との均衡を保つ手段として、誰もが蟄居は形式的なものと捉えていた。
 だが、この段に至っても蟄居が赦免される気配が無いのは、それが可能な状況では無いからではないか。
 五か月目の十月に入り、そんな囁きも生まれ始めていた。
「今ならば、疑念と不安を、一気に内外へ拡散させられましょう」
 オブリースはそう言いつつ、ベルゼビアの反応を窺った。出過ぎた事を口にしなかったかどうか――
 ベルゼビアの二つの指が動き、玻璃の杯を倒す。
 艶やかな大理石の卓の上に倒れた玻璃の杯は砕け、液体が紅い花弁のように滑った。
 オブリースは密かに息を殺し――
「では揺さ振れ。あの鬱陶しい東方軍が慌てふためき退いていく程度にな」
 そしてそれを極力抑えつつ吐き出した。
「承知致しました」
「王妃殿下の様子はどうだ」
「はい。あの旅芸人一座が殊のほかお気に召したご様子。本日も」
 これで九日、毎日必ず彼等を呼び、ファルシオンが生まれた時の詩に耳を傾けている。
「あれ以来、御加減も少しずつ良くなられているようにお見受け致します」
「良い事だ」
 オブリースは灰色の法衣にすっぽりと包んだ頭を深く下げた。
 ベルゼビアが王妃の体調を気遣う理由が思い遣りからではない事は、充分承知している。
 あの夜、混乱に乗じてオブリースは居城から王妃とエアリディアルを連れ去った。
 最上の結果はファルシオンを連れて来る事だったが、それが叶わなかった事をベルゼビアは咎めはしなかった。
 それもまた、オブリースへの温情からでは無い。
 手元に来なかった時点で、自らの使う駒ではないと、そう考えたに過ぎない。
 ただし――
 自らの駒にならないのであれば不要だと。
 オブリースは己が主人の性質を良く理解していた。
「では、近日中に良い結果をお届けいたします」








 ハンプトンは控えの廊下まで自ら出向き、そこで待っていたスランザールへと深々と頭を下げた。
「スランザール様。わざわざお運びいただいたところを誠に申し訳ございません。ただ今ファルシオン殿下は、お部屋においでにならず――」
「こんな時間にかの? 王城での協議もないのじゃが」
 もう夕刻の六刻になろうとしている。次第に日が暮れるのは早くなってきていた。王都の頂きの、更に高所に位置する居城でさえ、そろそろ西の名残の陽も届かなくなる時間帯だ。垂れ下がる白い眉の奥の瞳が、思わしげにハンプトンを見つめる。
「また、あの場所へ行かれたのかの」
 ハンプトンはもう一度頭を下げた。
「以前は月に数回程度でございましたが、最近は頻繁になられて……せめて私もお傍におりたいのですが、殿下は随行をお許しになられませんので」
「御身への危険を心配する必要はないじゃろう、今のあの場ならば」
 そう言いつつも、スランザールはやや足を早め、ファルシオンの居る居城へと白い廊下を歩き出した。




 深い地下から続く階段を登り切り、扉を外へと押し開ける。
 暗い通路に、扉が切り取った灯りの痕がくっきりと落ちた。外灯の置かれた外は眩しさを覚えるほどだ。
 緑の枝葉の間に埋もれたその扉は、王の居城の温室の一角の、樹木の重なる噴水の裏手にひっそりと隠されていた。
 夕闇に塗り込められた天井の硝子を見上げ、ファルシオンは肩をゆっくりと持ち上げ、一つ、息を吐いた。
 今回もまた、何も変わらない。
 今日はと思って扉を開けて、何も変わらない事に込み上げる想いを抑える。
 今日こそは、きっと、と――そして今日こそは、何か自分にできるのではないかと、思いを新たにするけれども、感じるのはその前よりも深い落胆だ。
 胸に溜まった重さをここで落としてしまおうというように、ファルシオンはもう一度、深く息を吐いた。
 それは五歳の少年にはまるで相応しくない。
「きっと、明日は――」
 ぽつりと呟いたのは何度目だろう。
 でもきっと、いつまでもは続かない。
 きっともうすぐ目を覚ましてくれる。
 そのはずだ。
 十月も明日で十日を過ぎようとしていて大気は冷えてきていたが、温室内は地下への通路よりもずっと温かく、重なる枝葉を潜って開けた場所へ出ると緑よりも花の香りが漂った。
 部屋へ向かおうとして、室内への扉の前に佇む姿に気付き、ファルシオンははっとして立ち止まった。
 スランザールがファルシオンを見つめ、ゆるゆると頭を下げる。
「……あまり何度もお一人で地下へ行かれるのは、侍従達に心配されますぞ。陛下の防御陣が生きているとはいえ――頻繁にとなれば周りは不安になりましょう」
「――ごめんなさい。でも」
 ファルシオンは開きかけた唇を止め、代わりに呼吸だけがふっと零れた。自分でも、その次に何を言おうとしていたのか――何を伝えればいいのか、とっさに判らなかったからだ。
「気を付ける」
「――殿下、重ねての忠告を煩わしいと思われるかもしれませぬが」
 ファルシオンは立ち止まったまま、スランザールと向かい合っている。
 温室の周りはすっかり夕闇が取り囲み、淡い紫と微かに混じる橙の光が、薄く脆い硝子にどうにか押し止められているように感じられた。
 硝子が無ければとっくに落ちてきて、ファルシオンの全身を包んでしまう。
「最近殿下は様々な者とお顔を合わせる機会が増えておられる。それは御身にとってとても良い関わりとご経験になりましょうが、しかし一方で、気を付けていただかねばならぬ事もございます」
 スランザールが何を言わんとしているのか判らない。ただ自分の行いでどこかいけないところがあったのだ。
「どういうこと?」
「恐れながら――中には殿下を惑わす者もおりましょう」
「まどわす……」
 スランザールはじっとファルシオンの瞳を見た。
「イラー伯やエスティア伯などは、最近頻繁に面会を求めているとか――居城で、あまり特定の者と面会を重ねられるのは、避けた方がよろしいでしょう」
「でも」
 彼等もまた同じくこの国に仕える者だ。それに、特にエスティアは、レオアリスの話をしてくれる。
 いや、ファルシオンに、レオアリスの話をさせてくれる。
「――話を、聞きたいんだ。いろんな者から」
「居城以外の、他の者がいる場所であれば、問題は無いでしょう」
「――」
 でもそれでは、きっとファルシオンの望む話はできないだろう。
「……考える」
 ファルシオンはそう言と、極力スランザールの顔を見ないように、横を抜けて部屋に入った。

















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2018.3.17
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