Novels


王の剣士 七

<第三部>

第三章『西へ吹く風』


 ざあざあと雨が叩き付け、樹々の葉に、草に、石畳に弾かれ音を立てる。
 夕方には一旦止んだ雨雲が再び空を覆い、城壁や庇の下に掲げられた篝火を笑うように、夜の闇が立ち込めていた。
 王城の北西の区画、城からも城壁からも離れてぽつりと建つのは、一級監獄塔――通称『赤の塔』。
 五階層のその塔は、通常の牢獄とは異なり政治犯や身分の高い者を収監する為に用いられている。赤の塔と呼ばれる所以は、塔の外壁を覆う紅煉瓦の色からだ。
 もう一つの別名である『嘆きの塔』という言葉を彷彿とさせるように、赤い煉瓦の壁はしっとりと濡れ煉瓦の隙間に水の流れを作っていた。
 壁の開口部は時折思い出したようにある小さな窓のみ、それも鉄格子が嵌め込まれ、地階にあるただ一つの扉は重量を感じさせる分厚い石でできている。
 今、そこに収監されている者があるのかは、外から見上げただけでは判らず、また明らかにされてもいなかった。
 ただ扉の前には近衛師団隊士が三人、常時立ち目を光らせている。
 塔の周囲は低い植え込みの庭園になっていて、無機質な塔に僅かばかりの潤いを与えていた。庭園の一角に煉瓦造りの水場があり、細い樋からはちろちろと水が流れ落ち、 下の水盆の水面に波紋を揺らしている。
 水は水盆から、大人の手のひらほどの幅と指の関節二つ分ほどの深さの水路へ流れ、そして水路は庭園を抜けて一つは赤の塔の足元に続いていた。
 耳に馴染む水音。
 絶え間なく流れている。
 夜の闇の中、その水の流れが、まるで凍り付いたかのように一瞬、動きを止めた。


 水は再び流れる。
 だが水路を赤の塔へと至り――塔の下へと潜る手前で、その透明な流れを蛇のごとき動きでもたげた。
 それは人型に――、あの、既に見知った使隷の姿を現わす。
 夜のとばりに紛れ、使隷はぶるりと身を震わせると、透ける身体で塔の壁に張り付くように立った。
 ふいに風がどっと流れ、辺りの植え込みが葉の擦れる音を散らす。
 だがそれはこの王城中心部への侵入者に対する警報たり得ず、飛び出す兵もなく、使隷は水を滴らせのっぺりとした顔を持ち上げた。
 赤の塔の煉瓦壁が使隷の前にそそり立つ。
 使隷は耳をそばだてているのか、じっと動かない。
 さざ波のように揺れる表面から、生まれた雫がしたたり落ちる。
 ぴちゃり。
 だが雨音に紛れたそれは、隊士達に届く事もない。
 水面から伸びた手が壁に取り付き、そのままずるりと引き抜かれるように身体を持ち上げる。使隷は半透明の手足を粘っこく伸ばしては縮め、雨の流れ落ちる、煉瓦の浅い凹凸程度しかない垂直の壁を、みるみる登っていく。
 目指しているのは窓だ。
 一つ目の小さな窓は、地上からおよそ三間ほどの位置、そこへ這い登る。
 鉄格子の嵌ったその小窓は、縦は大人の手のひらを広げたほどしかなく、横幅も二の腕の長さ程度で、明り取りの役にしか立たないものだ。
 使隷は小窓を覗き込み、雨の吹き込む中、眼球の無い目をじっとその奥の暗がりに凝らした。
 窓は高い位置にあり、部屋を見下ろしている。
 灯りのない部屋――牢獄――は小ぢんまりとし、雨と秋の夜気に冷え込んでいる。
 寝具の無い木の寝台と卓と椅子、壁に使われていない申し訳程度の暖炉が一つ。
 人の気配は無い。
 使隷は首をもたげ、壁を横へ這う。
 次の窓へ。
 探しているのだ。
 その主人が指示した者の姿が、 本当に・・・ そこに・・・ あるのか・・・・を。
 二つ目、三つ目の小窓にも、収監者らしき姿は見えない。
 水の塊の身体がさざ波を打つ。
 赤の塔内部の牢獄は、全部で九つあった。
 三階部分に五つ、四階部分に三つ、五階に二つ。二階までは螺旋階段のみの構造だ。
 三階の全ての窓を覗き、使隷は再び壁を登った。
 四階の三つの窓――


 ――イナ、イ


 五階。
 初めの小窓の窪みに指先が掛かる。
 使隷は身体を引き上げ、覗き込んだ。


 ――


 壁際に寝台がある。
 その暗がりは、他の牢獄と異なった。
 使隷が鉄格子の間にその身を滑り込ませようとした時だ。
 不意に、鉄格子が淡い光を滲ませたかと思うと、壁に張り付いていた使隷の身体がその光を吸い上げ――弾けた。
 地上の植え込みへ降り注いだそれは、強い雨足に紛れても、異質に音を散らした。
「何だ――?」
 隊士達が辺りを見回す。
 二人が扉の前を離れ、雨の幕に目を凝らした。
 塔の周り、植え込み。
 十間ほど先にある城壁の物見にも警護の隊士が配置されているが、彼等が何かを気にする様子は見当たらない。
「気のせいか?」
「ああ――だが注意しておこう」
 三人は口を閉ざし、雨の音の響く庭園へ耳を傾けた。




「先客か――」
 雨の中に小さな呟きが滲む。
 城壁に近い木陰に立ち遠間に赤の塔を見上げていたのは、昨日王都に入ったプラドというあの男だ。
「斥候のようだが、ここまで容易く入り込めるとはな」
 先ほどのあの生物らしきものにしても、自分にしても。
 仕掛けはあるようだが、警備はそれほど厳密ではない。
「――無駄足だったか」
 プラドはもう一度塔を見上げ、その場を離れた。
 赤の塔にいるのであれば、無理に破ってもいい。
 しかしその必要が無いのは判った。
(気配は無い――)
 赤の塔にも。
 王城にも。
(どこに隠す――?)








 向けられる視線の存在を感じると同時に、すぐ横で声がした。
『ヴェルナー侯爵』
 振り向いた正面に、視線だけがある。
『一つ。いつも通りに対処しております』
 たったそれだけの報告だ。
 ロットバルトは頷いた。













Novels



2018.2.17
当サイト内の文章・画像の無断転載・使用を禁止します。
◆FakeStar◆