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王の剣士 七

<第三部>

第四章『空の玉座』


 翌、早朝。
 ヒースウッドは鳴り渡る鐘の音で飛び起きた。
 窓から見える空は開け始める気配を漂わせながら、藍色に沈んでいる。
 その空に、幾つもの鐘の音が重なりながら、街の眠りを引き裂き響いていた。
 露台へと走り出たヒースウッドの目に映ったのは、ボードヴィルの街の正面、まだ暗い丘を蠢く黒い影だ。
 何かの群れ。
 自然、呻く。
「何という事だ――」
 次第に目が慣れ、響き続ける警戒の鐘の音とともに、何が起きているかをヒースウッドは理解した。
「西海軍……」
 シメノスから岸壁を登り這い出た西海軍が、サランセラムの丘を西へ、進んで行く。その黒い列。
 その数はシメノスにいた兵だけではない。恐らく、今回の進軍に合わせてシメノスを迂回して来た、新たな西海の部隊だ。
 ざっと見て取っただけでも、一万五千を超える。
 鐘は街壁の上や街の鐘楼、そして城壁の上、物見塔から鳴り響き、街全体を覆っている。人々が窓から顔を出し、或いは通りに出ているのが見える。
 鐘の響きの中、ヒースウッドは驚愕と憤りで掴んだ石の手摺を砕かんばかりに立ち尽くした。
 ボードヴィルの目と鼻の先を西海の兵列が、まるでボードヴィルを嘲笑うかのように、続々と進軍しているのだ。
 ボードヴィルを一顧だにせず。
 ヒースウッドは大屋根を見上げた。
 短く呻いたのは、そこに風竜の姿が無かったからだ。空のどこにもそれらしき姿は見当たらない。
「どこへ――い、いや」
 今はそれを考えている暇はない。兵士達が街壁や城壁の上で慌ただしく行き来している。
「指揮を執らなくては」
 視線を転じ、一つ上の階のイリヤの居室にも灯りが灯っているのに気付いた。露台に、ヴィルトールの姿がある。ヴィルトールはヒースウッドの居る露台を見たようだった。
「……ミオスティリヤ殿下!」
 まずはイリヤの無事を確認し、そして状況を伝える為に、ヒースウッドは慌てて踵を返した。




「打って出るべきだ!」
 ヒースウッドの声は昨日に増して議場に響いたが、議場は白々とした顔のままだ。
「西海軍は我等を無い者のように、悠然とサランセラムへ侵入した。これほど我等を軽視されるのは、このボードヴィルと、そして国の誇りに掛けても見過ごす訳にはいかない! 異なる王太子旗を掲げるとは言え、国の誇りは変わらないのだ!」
 ヒースウッドの声には憤りが押さえようもなく滲んでいる。ヴィルトールは昨日と同じ席で、同じく自分の前のヒースウッドの赤らんだ顔を見た。
 今は卓の正面奥には、イリヤが座っている。
 もう一つの席は相変わらず空席だ。
「いや、少し落ち着いてもらいたい、ヒースウッド殿」
 昨日と同様、メヘナがまずそう言い、そして他の貴族達の賛同を得るように卓をぐるりと見回した。
 その自信に満ち溢れた様子の上に、ヴィルトールはこの協議の結末を既に見るように感じた。
「西海軍がこのボードヴィルへ攻撃を加えなかったのは、幸いではありませんか。我々はミオスティリヤ殿下をお守りしているのですぞ。それをお忘れではありませんか、ヒースウッド殿」
 ヒースウッドが憤りを含んだ眦を上げてメヘナを見据える。
「殿下の御志は、御自身の身の安全ではない」
「何と」
 メヘナは大仰に首を振った、
「ヒースウッド殿、それは余りに……殿下の身に何かあっても良いと仰るので?」
「そ、そうは言っておりません! そのような事は断じて無い! 殿下の尊き御意志と御身をお守りする事と、これは別の話です」
 ヒースウッドは雷に打たれたように直立し、蒼白な面をイリヤへ向けた。
「判っている」
 イリヤが頷くと、ヒースウッドは見ていて痛ましいほど安堵を昇らせる。
 ヒースウッドは改めて姿勢を正し、出席者達に向き直った。
「危険は承知している――けれど、国の為なのです。一万を超える兵がサランセラムを抜け、北方軍へ背後から攻撃しようとしているのだ。いかにランドリー将軍といえど、あの数に挟撃されてはひとたまりもないだろう」
 今サランセラムを行く兵数だけでも、ランドリーの軍を超えるのだ。
「ボードヴィルとして志を示す為にも、西海軍を追撃すべきだ。賛同する者は挙手して欲しい」
 出席者を一人一人見回す。
 一人、手が挙がる。ドミトリ。昨日と変わらない意志が面にある。
「ドミトリ子爵」
「私の意志は元よりヒースウッド伯爵の呼び掛けに応じたもの、即ち国の為です」
「感謝する」
 ヒースウッドは力を得て頷いた。
「他には」
 ところが他には手を挙げる者がない。
「シュトレン男爵、貴方は」
「いや……」
 昨日はヒースウッドに賛同したはずのシュトレンも、ただ気まずそうに視線を逸らしている。
「その」
 斜め前のメヘナが目を細める。シュトレンは下を向いたまま、早口に言った。
「私も、ヒースウッド殿のお考えは今は早計だと――もう少し状況を見てからでも良いのでは」
 ヒースウッドは信じられない顔で彼等を見回した。
「一体、どうしてしまったのです! あなた方は私の呼び掛けに応じ、この国の為に立ち上がったのではありませんか! その志をお忘れですか!」
 ヴィルトールはメヘナが満足気な笑みを浮かべているのを、ちらりと確認した。恐らく昨夜の内に、メヘナは根回しをしたのだろう。
(そうだろうな。そしてヒースウッドは根回しなど思い付く性格じゃない)
「これを見過ごせば、我等への逆賊のそしりは正道になってしまいますぞ!」
 ヒースウッドの憤りも、メヘナは痛痒を感じていないようだ。
「いやいや、ヒースウッド殿。先ほども申し上げた通り、シメノスの西海軍がいなくなるのは好都合ではないですか。何故わざわざ呼び戻すにも等しい事をしなくてはならないのです」
「その通り。街に被害があったら大問題ですよ」
 ジェットが頷く。まだ四十代半ばの壮健な体躯をした男爵で、ヒースウッドは彼には期待していただろう。
「第一、王太子殿下に万が一の事があったら、どう責任を取るおつもりです」
 ヒースウッドはなおも語気を強めた。
「ボードヴィルには西方公と、そして守護竜がいる。今この国で、このボードヴィルほど安全な街はありません。だからこそ、我々は国の為に」
「いやいや」
 メヘナがもっともらしい表情で顔を横に振る。
「だからこそ、ですよ」
「それは、どういう……」
「お判りになりませんか? いいですか、もし国土が戦火に覆われたとしたら、このボードヴィルが近隣の、この国の、救いの場とならねばいけないのではありませんか。その為にはボードヴィルの戦力は維持しておかなくてはいけません」
 ヒースウッドはようやく、口を噤んだ。沈黙が流れる。
 長いその沈黙の後、ヒースウッドは呻くように声を押し出した。
「皆、同じお考えなのか……」
 議場に気まずい空気が広がる。
 だが、それを拭おうとする者がない。
 ヒースウッドは縋るような目をイリヤへ向けた。
「――ミオスティリヤ殿下、お考えを……」
 イリヤがほんの僅か、息を吸う。ヴィルトールはイリヤが口を開く前に自分が代わって答えようとしたが、それよりも早くヒースウッドは首を振った。
「いえ、お聞き流しください。殿下にこのような判断を求める訳にはまいりません」
 イリヤはヴィルトールの意見を窺うように視線を一度向けたが、息を吐いた。
「それでは、結論はこのまま街の守備を固め、西海軍の状況を見るという事でよろしいですな」
 メヘナの様子は既に、自らがこの砦城の責任者であるかのようだ。
「ミオスティリヤ殿下、何かございましたら、どうぞわたくしにもお命じくださいますよう」
 そう言うとメヘナは席を立ち、イリヤへ深々と礼を向け、卓を離れた。
 他の者達もメヘナに倣い、次々と辞して行く。
 憤慨したドミトリが首を振りつつ、ヒースウッドに近付いた。
「何という――情けない限りです。ヒースウッド伯爵、私は貴方に賛同致します。何なりとご相談ください」
「――有難う、ドミトリ子爵。心強い」
 そう言ったが、ヒースウッドは明らかに落胆を隠せず、イリヤとヴィルトールが議場を出る時にもまだ、椅子に腰を落としたまま俯いていた。




 夕刻、ヴィルトールはヒースウッドから内密の話をしたいと使者を受け、ヒースウッドが指定した北の塔の三階へ向かった。
 まだ空には陽の名残が残り、白く輝いている。
 ヒースウッドは先に着いていて、窓の外を眺めていた。
「――ヒースウッド大将」
 声をかけるとヒースウッドはヴィルトールへ顔を向け、だがその顔をすぐに伏せる。
「ヴィルトール中将、私は情け無い……国を憂い、志高く集まった者達のはずが、あのように保身ばかりを考えるなど」
 ヒースウッドは芯から打ちひしがれたように俯いている。
「しかしヒースウッド大将。メヘナ子爵の意見ももっともではある。今、少ない兵で西海を追撃しても、どれほどの効果があるか判らないからね」
「貴方まで、そのような――」
「現実の話だよ。メヘナ子爵達の協力が得られないのならば、動かせる戦力は第七大隊の僅か千名ほどに過ぎない。その千を動かせばボードヴィルは無防備になってしまう。そもそも貴方がここを出て、誰がボードヴィルの指揮を執るというんだ?」
 ヒースウッドもそれは判っているのだろう、苦悩に顔を歪めている。
「私が言うのもなんだが、君はメヘナ子爵をもっと警戒すべきだよ。彼のようにまずは周りをもっと取り込まなくては。まあ貴族達をどこまで信頼できるか、それは難しいところだけどね。正規軍でもう少し、信頼に足る者がいればいいんだが」
 中将エメルがいるが、あの男はヴィルトールから見れば、余り信頼できる相手ではない。今日のあの場でも、エメルは様子を窺っているのか一言も発しなかった。
(厄介だな)
「――頼れる指揮官は、いるのです、まだ」
 ヒースウッドの絞り出す声は、辛うじてヴィルトールの耳に届いた。
「指揮官?」
 改めて見たヒースウッドは、ヴィルトールから視線を逸らしている。
「貴方に、その話をしたかった。まずは、ミオスティリヤ殿下にお伝えする前に――だからお呼びしたのです」
「――」
「――こちらへ」
 ヒースウッドは口元をきつく引き結び、ヴィルトールを招くと先に歩き出した。
「ヒースウッド殿?」
 呼び掛けても振り返らない。それは礼儀を重んじるヒースウッドにしては、やや意外に思える。
 どこへ案内するつもりなのか、ヴィルトールの前を重い足取りで歩いて行く。
 塔の階段を地下一階まで降りると、その先は幅も狭く天井も低い廊下が真っ直ぐ続いていた。ヴィルトールは初めて通る場所だ。
 窓も扉もないそこを進み、ほどなく一つ、小窓に鉄格子の嵌った厚い木の扉が行く手を阻んでいるのが見えた。扉の前に兵が二人。監視だろう。
(なるほど、地下牢だな)
 ヒースウッドは兵に声を掛け、兵が開いた扉をくぐり、そこで一旦立ち止まってヴィルトールを振り返った。その先はまた階段になって降っている。
「こちらへ」
「――」
 暗い階段の前に立ったヒースウッドの瞳には、何とは言い難い光が浮かんでいる。
(私に対してか?)
 地下牢という場所柄、当然警戒心を抱かせる。ヴィルトールを今になって拘束しようとしているか。
(違うかな)
 そうではなく、どうもヒースウッドは。
 ヴィルトールは敢えて、扉を潜った。ヒースウッドはもう階段を降りて行っている。
 背後の扉が閉まり、兵達の耳が遠のいたところで、ヴィルトールは足を止めた。
「ヒースウッド大将。教えてほしい。貴方は何を恐れているのか」
「――」
 ヒースウッドは階段の下へ面を向け俯いていたが、束の間の沈黙の後、振り返った。
 その目に、やはり、と思う。
 ヒースウッドは、恐れている――というより、そう、恥じ入っているのだ。
 ヴィルトールは黙ってヒースウッドが口を開くのを待った。
「ヴィルトール中将、私は。兵達に――ミオスティリヤ殿下に本来なら、顔向けできないのだ」
 ヒースウッドは再び俯いた。
「私は、殿下の支えとなる大切な人材を――」
 両拳を握り締める。
「いや、見て頂いた方が早い」
 ヒースウッドは身を返し、階段を降りて行く。
「――」
 ヴィルトールには、ヒースウッドの言わんとしている事が何か、分かる気がした。
 それと共に、じわりと、鳩尾の辺りに熱が灯る。
 ヒースウッドが案内しようとしている場所、そこが――そこにいる人物が、ヴィルトールの想像通りならば。
 あの戦いから、中将エメルは戻った。
 階段を降りきり、停滞した湿った空気の満ちた暗い廊下を歩く。左右には牢が並んでいるが、鉄格子で仕切られたその奥はどれも無人だ。
(懲罰房は別にあるからか)
 硬い石の寝台、用を足す為の場所も仕切りすらない。
 黴臭く、窓は高い位置に空気孔程度のものが辛うじてあるが、それも左側の牢だけで、お世辞にも環境がいいとは言えない場所だ。
(ここに、三か月――)
 そんな事を考えた時、ヒースウッドは一番奥の左側の鉄格子の前に立ち止まった。
 牢の中で、人が動く気配が空気を揺らす。
 それから、声が聞こえた。
「何だ。随分久し振りだな」
 野太く、だがどこか飄々とした声だ。
 ヴィルトールは鉄格子の中が見える手前で、足を止めた。
「ここんとこ全然来ねぇから、暇で暇で頭のてっぺんに苔が生えて来たぜ。で、何だ、そろそろ処刑でもする事になったか?」
 ヒースウッドがちらりとヴィルトールへ視線を送る。
「ん? 誰か他にいんのか?」
 ヴィルトールは息を抑え、足早に鉄格子の前に立った。
 鼓動と共に、ゆっくりと息を吐く。
「――ワッツ」
 檻の中の男は、寝台にごろりと横たえていた大柄な身体を跳ね起こした。
「おおあ! ヴィルトールじゃねぇか! お前無事だったのか! 一体今までどうしてた! レオアリスが心配して探してたんだぜ、連絡とか、いや、それよかまず何でここにいんだ? いつから」
「ワッツ、ワッツ!」
「あ?」
 矢継ぎ早なワッツの問い掛けにヴィルトールは漸く、割り込んだ。安堵と苦笑が同時に胸の奥を上がって来る。
「それは全部、私が君に問いたい事だ」
「ああ。そりゃそうか」
 ワッツは身体を強張らせて立っているヒースウッドへ、顔を巡らせた。
「そいつに聞け」
「――同じく、だね」
















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2019.6.9
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