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王の剣士 七

<第三部>

第四章『空の玉座』


 
 西海軍は平地に泥を流すように、ゆっくりと進軍した。
 その速度には、アレウス国軍を上回る大軍である自負と自信が滲み出ているのだろう。
 北方軍の予測よりもやや遅く、進軍開始から一日を掛け、陣を張る北方軍の前方に西海軍先陣が現れたのは、十月十九日、午後一刻。
「来た――」
 監視の兵は崖の上に身を置き、西の平原の先に一筋、水が染み出すように影が滲んだのを遠見筒の中に捉えた。
 使隷の作る銀の波が、強い陽射しを砕き、弾いている。
 監視の兵が出した合図は次々と陣内を駆け、陣内は肌をこする緊張が支配した。





『全軍、停止させよ』
 総指揮を担う将軍フォルカロルは、眼前に布陣するアレウス軍を見渡し、悠然と号令した。
 ゆっくり、潮が引く音を立て、西海軍が前方の兵列から動きを止めていく。河面のように流れていた銀の波が、次々と起き上がり数千の使隷の形を取った。
 後方からはまだ残り九割以上の兵がこの地に向かって進軍を続けており、河口に砂州が造られていくように兵の塊は次第に密度を増していく。
 前衛に並ぶ使隷、そしてプーケール率いる第四軍の、全身を固い鱗に覆われ太く短い四肢を持つ原種や、歪に突き出た頭を持つ変異種からなる兵、それらが身を揺すり前方のアレウス軍兵を威嚇する。
 アレウス軍との距離はほぼ四半里、互いの前衛の列が親指の第一関節ほどに視認できる程度だ。
 先に放った斥候の報告通り、アレウス軍はおおよそ一万の兵が見渡す限りのなだらかな草原を背に、前面を広げた台形の方形陣を取っている。
 見るからに厚みが無い。
『何と弱々しい』
 今、フォルカロルが率いる十万の兵に抗するに、余りに薄く脆弱な布陣だ。
 フォルカロルは兵士達の前に両手を広げた。
『見よ、たかだかあの程度の兵で我等を阻もうと考えているとは、アレウスの将は碌な戦術も立てられぬほど窮地に追い込まれていると見える』
 フォルカロルの嘲笑に、周囲の兵の間に追従の笑い声が広がる。
『兵力を分散するなど愚の骨頂。各個撃破してくださいと言っているようなものだ。途中の土地など打ち棄て、国土奥深くに退いて兵力を結集する事だけが、アレウスの生き残る唯一の道であった』
(得意げに演説をぶちおる)
 遠くボソリと呟いたのは前衛に騎馬を置くプーケールだ。黒い鱗に覆われた蜥蜴にも似たその身体は同様の兵達の中でも一回り大きい。
 ただフォルカロルの言葉そのものに反論がある訳ではない。
 プーケールから見ても、この見渡す限り広い丘陵の地形と十万の大軍の前には、僅か一万の兵など半日どころか一刻でさえ抗し得ないだろう。
(フォルカロルの手柄になるのは業腹だが、アレウス軍はあれでは保つまい)
『この程度の相手を三百年にも渡り警戒してきたとは、どうにも情けない事ではないか。三の鉾の方々も、もっと早い段階で海皇陛下へ進軍を進言するべきだったのだ』
 フォルカロルは手にした三叉鉾を握る力を強めた。
 今、ナジャルはまだイスを動いていない。
 これはフォルカロルが武勲を立てるまたとない好機だった。

 ゆっくりと進んで来る兵の群れを吸収し続け更に二刻、十万の全ての兵はフォルカロルの前に揃った。
 見渡す限りの兵と陽の光を弾く槍や鎧、使隷が造る銀の波とのまだらの群れ。
 視界を埋め尽くす兵が自らの指揮の元に動くと思うと、ナジャルを上回るという考えはより現実味を帯び、誇りが足の先から湧き上がった。
 アレウス軍は声もなくこの大軍を見つめ、恐れ慄いているに違いない。
 十万対一万、緒戦で方が付くのは誰の目にも明らかだ。
 兵達の疲労はまださほど溜まってはいないが、フォルカロルはすぐに動かず、待った。
 開戦の刻を長引かせれば、よりアレウス軍へ恐怖を植え付ける事ができるからだ。
 四刻――陽が傾き、辺りが暮れ始める。
(美しいものだ――)
 フォルカロルは暮れ行く淡い光と色彩の入り混じる空を、悦に入った面持ちで眺めた。
(我等が、積年の望み)
 地上への復権。
 それは海皇の望みであり、自らの望みでもある。
 フォルカロルが支配するに相応しい場所。
 西海で生を受けたフォルカロルはかつての地上を知らないが、本来ならばここは、彼等の土地だったのだ。
 フォルカロルは湧き上がる鼓動を抑え、息を吐いた。
 西陽は自軍の背後から差している。
 低く差す光を受け、前方、アレウス軍が布陣する前方の風景がゆらりと揺れた。
 その揺らぎが西海の、海面から落ちてくる陽光を、一瞬、思い起こさせた。
 フォルカロルは高々と、手にした三叉鉾を掲げた。
 視線がフォルカロルに集中する。
『今――、この時がアレウスの終焉の始まりとなろう!』
 息を深く吸い、号令を吐き出す。
『開戦を告げよ! 我等を謀り、不当に蔓延る者共を、この地上から追い打とうではないか!』





 束の間の静寂の後――
 地響きを立て、西海軍が前進する。
 使隷は再び河面に姿を変え、兵達を海上にあるかの如く運んだ。
 先陣がアレウス軍の陣へ到達するのに四半刻も無い。
 みるみる距離は埋まり、岸に寄せた波が砕けるように、西海軍の前衛はアレウス軍へ襲い掛かった。圧倒的な物量、黒い波だ。
「押し返せ――!」
 第四大隊大将エンリケの張り上げる声に、アレウス軍前衛の兵士達が盾を地面に突き立て、剣を構え打ち掛かる西海軍兵士と切り結ぶ。アレウス軍後列から放たれた矢が、押し寄せる西海軍の上に降り注ぎ、頭、胸、手足、所構わず貫く。
 バタバタと倒れる仲間の躰を踏み越え、飲み込み、西海軍は勢いを落とす事無く次々押し寄せた。
 埃が舞い上がり、金属の打ち合う音や騎馬の蹄、叫び声や喚き声が反響する。
 アレウス軍は押され、陣形を保ち切れず中央から水が流れ出すように崩れた。
「陣形を保て! 退かず、前へ出よ!」
 エンリケは自らの騎馬を操りながら、周囲へ首を巡らせ檄を飛ばした。
 だが兵達を押し止めるには足りず、エンリケ自身の騎馬すら初めに陣取っていた場所よりも、十間も後方に押しやられている。
「怯むな! ここを保たねば、西海の蹂躙を許すのみだぞ!」
 第五大隊大将カッツェ、第六大隊大将ブラン、第七大隊大将マイヨールも、ずるずると押される陣の中ほどで剣を振るいつつ声を張り上げた。
「前へ出よ! 今――アレウス軍兵の勇を見せよ!」
 だが叱咤の声は虚しく響き、兵達は西海軍の勢いを受け止める事すらできずに、ついには陣形すらなく一斉に敗走を始めた。




 フォルカロルの視線の先で、アレウス軍の陣形が面白いように崩れ、統率すらなく退いて行く。
 敗走の報が届く前に、フォルカロルは更に三叉鉾を掲げた。
『追え――! 追って殲滅せよ!』
 込み上げる笑みを抑えず、フォルカロルはその面に残忍な笑みを刷いた。
『飲み込み、押し潰し、奴らの屍をこの地に晒せ!』
 前衛、およそ六千の兵が勢いを得て速度を上げる。
 この後に残るのは西海軍による蹂躙のみだ。
 だが――
 そう思ったフォルカロルの視線の先で、アレウス軍を追走する自軍の姿が、不意に消えた。
『何――?』
 続く兵列が驚きに足を止める。
 自軍の姿は拭い去られたように無く、フォルカロル達の目の前には、ただなだらかな丘陵だけが広がっていた。














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2019.6.2
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