二十八
『ベンダバールはお前の、もう一つの氏族だ』
氏族。
ベンダバール。
ルフト?
『お前の母の――』
初めに、自分を包み込んだあの感覚。
ジンの――、父の、剣の光と、もう一つの温もり。
とても暖かい。
母の。
(母さん……)
目の前に差し伸べられた手。
『俺と来い』
『レオアリス』
丸い光がある。
そこに視線を転じた。
金色の光が揺れていて、冷えていた身体がふわりとあたたかくなった。
あの光は。
――王
違う。
王のそれよりも、ずっと、不安定な。
目の前の手と、金色の光。
どちらに手を伸ばせばいい。
「外傷はまるで見えません。本来の治癒力が働いているものと考えます」
意識が、水の底から太陽へ向かうように浮上する。
少し前から耳が拾っていた音が、意味のある言葉として、意識に届く。
「しかしながら、内障の点はまた別途、アルジマール院長の所見を得たいところです」
うっすらと、辺りの景色が像を結ぶ。
やや薄い影の中、白髪の男が立ち上がり、傍らに立っていたもう一人が向き合う。そのもう一人は良く知っている人物だ。
(グランスレイ――)
どこかの部屋――、の、寝台、のようだ。
光を感じて視線だけを動かす。寝台の右側に少し離れて広い窓がある。窓の外は白い陽光に溢れていた。
(朝――?)
「半年も眠っておられたのです。通常の医学の見地では判断が難しい――状態が明確に判るまでは、なるべく安静を保っていた方が良いでしょう。私も御報告しますが、内政官房へそうお伝え頂くよう、貴方からも」
「感謝します、ブルム医師」
グランスレイは医師を見送る為、扉へと共に歩いていく。
床を鳴らす静かな足音を耳で追う。
世界の外にあるような、そんな感覚がまだ残っている。
(半年――)
半年の間眠っていた、と。
それならば今は秋だ。
窓の外に見える空は、確かに透明に高く澄んでいるように見える。
視線を転じれば、すぐ上には寝台の天蓋が掲げられ、天頂には布を垂らすための楕円の台飾りに、精緻な彫刻が刻まれている。寝台の四隅の柱にたわめてまとめられている布は金糸の刺繍を散らした、深く光沢を帯びた青。
明らかに士官棟や、軍士官の館とは違う。
(それは、そうか)
今の自分の立場では、前に貸与されていた士官用の館を使う訳にもいかない。
けれどそうすると、ここはどこだろう。
寝台の他にも青を基調とした落ち着いた内装だが、一つひとつの材質や装飾は少し見ただけでも手が込んでいるのが判る。
(ずいぶん、過度な待遇だな……師団の医務室でもいいのに)
それとも、近衛師団に戻せない立場だから、だろうか。
もしかしたら自分は今、ものすごく、微妙な立場なのかも――しれない。
(――)
何だろう。思考がとりとめない。
考えなくてはいけないのは、もっと別の事だ。
そう――
(あれから、半年だって――)
半年?
そう聞いても、すぐには飲み込めない。
レオアリスが記憶しているのは眠る前のものだ。
夜。
風の音がうねるような夜と、闇。
王城の謁見の間の、高い天窓から降り注いでいた、淡い午後の光。
全て、まるで昨日の事のように。
トゥレスの起こした混乱も、ナジャルの出現も、不可侵条約の破棄も。
それから――
「――ッ」
鳩尾に突き立つような痛みが走り、レオアリスは思わず寝台の上で身を縮めた。
剣が折れた時の、引き裂き突き立つ、その痛み――
腹に手を当てたが、その痛みは捉えどころが無い。
かつて失ったものの、影か残滓。
硬く瞑った瞳の奥で光がけたたましく瞬く。
「――上将!」
声がして、手が肩を掴んだ。
手のひらの温度が、意識に流れ込む。
それが、本物だ。
痛みはどこか遠くなった。
「医師を――」
「よ――呼ばなくていい……、平気だ」
目を開けると、グランスレイが眉根をしかめて見下ろしている。
「上将、無理は」
「大丈夫だ。それにグランスレイ――じゃない、グランスレイ殿か、俺はもう、その立場じゃない」
「いいえ。我々はそうは思っておりません」
きっぱりと返る言葉が早すぎて、つい苦笑が零れた。
「そんな事言っても――」
もう痛みは形もなく消えている。
レオアリスは息を吐いた。もう一度仰向けに姿勢を直してみたが、特に鳩尾に違和感はない。
(厄介かもな……)
「――詳しく教えて欲しい。半年の間に何があって、西海軍が王都に侵入したのがどんな経緯か」
自分が何を見ずに来て、何ができなかったのか。
グランスレイはやや躊躇う様子を見せたが、しばらく考えた後、椅子を引いてきて傍らに座った。
グランスレイの語ってくれた内容は、レオアリスが想定していた以上に、半年という長い時間を表わしていた。
西海との開戦、ルシファーに続く東方公の離反、西方軍の壊滅。
そして、王都侵攻。
何故自分はそこにいなかったのか、その想いが意識の奥を何度となく巡る。
何の役割も果たさずに、自分だけの想いに沈んでいた。
「貴方には眠りが必要だった。それだけの事です」
瞳を向けると、グランスレイは真剣な面持ちでレオアリスを見ていた。
「――」
「とにかく、まだ体調は完全ではないのです。しばらくはここで休養を。明日、十四侯の協議があり、アルジマール院長はその為にサランセリアから戻ると……その前に一度、こちらへお寄りいただく予定です。まだ内傷があるようであれば、措置を」
「大丈夫だと思う――多分」
自分自身の状態は自分で大体判る。砕けた剣が切り裂いた傷は、探る限りではもう癒えている。
ただ少し――いや、それなりに、身体が重い。
「動いてなかったから、ちょっと体力が落ちただけで」
グランスレイは疑わしそうに眉を寄せ、それから今度は、やや慎重な口ぶりで言った。
「明日の十四侯の協議には、貴方も出席を求められております」
薄い緑の瞳が、室内の光に透けさらに淡い。
レオアリスは柔らかな枕の上で首を僅かに傾けた。
「――まあ、そうだよな」
説明は求められるだろう。
そして明日の、という事は、おそらく今日も十四侯ないしいずれかの協議があり、その議題の中には処遇も含まれているのだろう。
グランスレイは立ち上がり、壁に立てかけてあった剣を手に取った。
「……私はこれで師団に戻ります。明日、協議の前に迎えに参りますので」
「大丈夫だって、一人で行ける――、そういやここ、どこだ?」
グランスレイも今思い当ったのか、「ああ」と言った。
「ここは王城です。ヴェルナー侯爵が使用する部屋の」
「ヴェルナー……」
「今は」
扉が小さく、三度鳴った。
グランスレイは「少し」と断り、手にしたばかりの剣を再び置くと、扉へ向かった。
扉側はちょうど天蓋から流れる青い布に遮られていて見えないが、扉を開いたグランスレイが驚いた様子が判る。
「これは――」
何より、伝わった気配が明瞭に、レオアリスに来訪者の存在を知らせた。
寝台に手をつき、身を起こす。
姿を捉える前に弾む声がした。
「レオアリス――!」
室内が、陽光が射したように光を含む。
グランスレイの身体の影から、その光はぱっと飛び出した。
レオアリスは寝台から降り、その場に片膝をついた。
「ファルシオン殿下」
光は一度立ち止まり、それからファルシオンの姿に戻る。金色の瞳を見開きながら、首を傾けた。
「動いちゃ――」
「もう問題はございません」
自分の言葉がやや硬く響いたように思え、レオアリスは顔を伏せたまま付け加えた。
「半年前の負傷はもう、ほとんど癒えておりますから」
「何言ってるんだ、だって昨日」
「あれは――」
ファルシオンが正面に立つ。
再び意識に差すような光を感じ、レオアリスは顔を上げ、その姿を見つめた。
「殿下――」
無事だ、と。
初めに湧き上がったのは、その想いだ。
ファルシオンは無事だ。
この半年の間、無事だった。
「――感謝を」
「え?」
ファルシオンが黄金の瞳を瞬かせる。
「いえ。半年もの間、何の役割も果たせず、申し訳ありません」
「そんなこと」
「本来ならば私は、ここに、殿下の御前に出る事のできる立場ではありません。昨日の事も、赦しも無く」
ファルシオンは両手を握りしめ、足を開いて、真っ直ぐに立った。
「レオアリス! そんなこと、今言う必要はない!」
顔を上げた視界に飛び込んできたのは、陽の光よりも輝く、金色の瞳だ。
「今だけじゃなくてこれからも、そんなこと言う必要なんてない!」
「――殿下」
「私は、そんなことを聞きにここにきたんじゃないんだから」
小さな体が一歩、近寄る。
「お礼を言いにきたんだ。助けてくれてありがとうって。それから」
唇をきゅっと引き結ぶ。
「もどってくれて、ありがとうって――」
レオアリスはファルシオンを見つめ――この半年で、ほんの少し背が伸びたように思う――、自分でも意識せず、口元に微かな笑みを浮かべた。
「――はい。有難うございます」
ファルシオンの瞳がぱっと輝く。
「私がいるから、ゆっくり休んで――あっ」
慌てた顔で首を振る。
「でも、もうずっと眠ったりしちゃだめだ」
「はい」
頷くと金色の瞳が瞬き、足元の大理石に逆様に映る姿へ、落ちる。
そのままファルシオンは、彫像のように固まってじっと、俯いていた。
「――殿下」
しばらくそのまま、ファルシオンは顔を伏せていた。
扉の横に控えていたハンプトンは、それまでファルシオンとレオアリスを静かに見つめていたが、グランスレイを小さく呼んで、扉を出た。グランスレイもハンプトンに続き、部屋を出る。
扉が閉まる音がそっと届く。
静かになった部屋に、鳥の囀りが窓から滲む。
「レオアリス、その」
空を流れる雲が室内を照らす光の密度を変えて行く。
「お願いが、あるんだけど」
「何でしょう」
「ええと――」
俯きためらっていたファルシオンは、それでも思い切ったように顔を上げた。
「……ぎゅって、してもらって、いい?」
レオアリスは目を瞠り、それから両手を広げた。
ファルシオンがそろそろと身体を寄せる。
小さな身体は、簡単に包み込める。
「――」
ファルシオンは膝を付いているレオアリスの肩に頬を乗せ、静かに息を吐いた。その微かな音が耳を打つ。
レオアリスが驚き、そして痛ましく思ったのは、そうしながらもファルシオンが泣かなかった事だ。
小さな身体に、感情を全て押し込めているように思えた。
少なくともこの半年、ファルシオンはそうして我慢をしてきたのだろう。
まだたった五歳の、幼い、それでありながら、国王代理という重責を担う立場で。
今もまだ、それらが消えたわけではない。
母である王妃も、エアリディアルも、大切な存在はファルシオンの傍に戻っていない。
(俺にできる事は、何がある?)
ファルシオンが――この国が、平穏を取り戻すまで。
ややあって、ファルシオンはもう一度、小さく息を零した。
「――ありがとう。もう、へいきだ」
腕を解くと、ファルシオンは少し恥ずかしそうにレオアリスを見上げた。
瞳が合う。
今度は喜びを顔一面に広げ、にこりと笑った。
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