十九
空に。
ファルシオンは、空にいた。
立ち込める濃い夕闇の中、その身の周りを金色の光が覆っている。
街壁から響く金属音と叫び、喧騒。
ファルシオンの足元の通りも、広場も、銀色の使隷の群れと西海兵の姿があった。
住民達が逃げ惑い助けを求める声。子供の泣き声、母の懇願。悲鳴。
血を流している。倒れて動かない人がいる。
――まもらなきゃ
ファルシオンは両腕を広げた。
黄金の光が手のひらから零れる。
今まさに西海兵が鉾を突き立てようとした母子が、淡い光に包まれたかと思うと、その場から掻き消える。鉾の切っ先はただ石畳を噛んだ。
「エマ?! エイミー!」
突然消えた妻と娘に駆け寄りかけていた男は、何が起こったかわからないまま辺りを見回した。
金色の光が通りに揺らいでいる。
使隷に足を取られていた若い夫婦が、揺れる波紋を残して消える。その隣で倒れていた老人、子供、中年の女性――金色の光が彼等を包み、西海兵の前から消える。
茫然と消えて行く人々を見つめていた男自身の身体もまた、気付けば淡い光に包まれていた。
ふと感じた温かさ。
迫る西海兵の姿に目を閉じ、そしてもう一度開けた時には、そこはそれまでのエリゼ地区の運河通りではなかった。
王都の高台――振り返って見えたのは、王城の門だ。
辺りを見回せば、少し先で自分の妻と娘が座り込み、抱き合っている。
「エマ――!」
南方第一大隊フェルディ隊は、新兵達を引き連れ『門』を使いながら通りを駆け下った。
路地の先にはこの南カラマ地区を横切る環状運河がある。
運河から西海軍が侵入しているとの情報だったが、路地の先は静かだった。
出現地区はここではないのかもしれない。
運河通りへ、路地の角を曲がりかけ――先頭を走っていた小隊長フェルディは咄嗟に身を戻した。後ろから駆けて来た兵の肩がぶつかる。
「小隊長?」
「待て――」
フェルディは腕を伸ばし部下達を留めた。
身を戻したのは、角を曲がった先の状況が目に飛び込んだからだ。
もう一度、慎重に顔を覗かせ、跳ね上がる息を抑える。
運河の両側は通りが併設され、他の通りよりも広々としている。
だが今は運河から水が溢れ出たように、銀の波を作る使隷と西海兵達が運河と通りを埋めていた。
「百以上いるぞ……ああ、くそ」
先に着いていただろう兵達が、銀の波の中に重なり合い血を流して倒れている。
残っているのは僅か四、五人。しかし彼等も西海兵に囲まれていた。
「どこの隊だ――しかも何だ、あれは――」
西海兵は全身が黒い鱗に覆われ、頑強な体躯と長い尾、爬虫類を思わせる口元にはずらりと並ぶ鋭い歯を覗かせている。
その異形にフェルディは判断と決意を揺さぶられた。
生き残っていた兵が逃げようと身を返した先を、西海兵が阻む。
振りかぶった剣は、西海兵の鱗に小枝のように弾かれた。
よろめいた兵の上に鉾が突き下ろされる。
「やめ――!」
鉾の刃が兵の胸を鋼の胸当てごと貫く。
短い悲鳴は、引き抜かれ再び突き下された鉾の刃が喉にめり込み、止んだ。
フェルディは奥歯に呻きを噛み締めた。迷う肩を部下の手が掴む。
「隊長、いくらなんでも数が多すぎる。今行っても俺達も二の舞だ、一旦離れて、増援を待つべきじゃ」
古参の兵の言葉はフェルディの考えと同じだ。ただすぐに頷けなかった。
「まだ、橋の上に住民がいる」
運河に架かる橋には三十名近い住民達が、逃げ遅れたのか蒼褪め怯えた様子で身を寄せている。小さな子供達の姿も見えた。
「増援まで保たない。彼等を救出しなくちゃならん。せめて、こちらに引き付けて――」
「じょ、冗談じゃない」
「あんな化け物、俺達じゃ無理だ――見つかったら俺達も殺される」
怯えた声を出したのは新兵だ。新兵達はもう路地を後退りしている。
「俺は嫌だ、俺は死にたくない」
「おい、待て」
フェルディの制止を振り切り、一人、新兵が駆け出す。それにつられて、二十人いた新兵の大半が身を翻した。
「待て!」
フェルディの声も虚しく、今降って来た路地を駆けて行く。残ったのは元からの兵十名と、新兵はベイルを含めた五人だけだ。
「どうするよ、こんな状況じゃさすがに――」
振り返ったベイルの横を、プラドが通り抜ける。運河の方へ。
「戦功を立てれば王太子に会える、だったか?」
「えぇ?」
ベイルは面食らって眉を歪めた。食堂を出る時に自分が口にしたのだと思い出す。
「いや、そりゃまそう言ったが、ありゃ物の例えで……」
「西海軍を倒し、住民を救う。まあ多い方がいいだろう」
「あんた何言って――ちょ、」
プラドが無造作に、路地を出る。
ギョッとして右腕を掴みかけ、ベイルはその手を咄嗟に引っ込めた。そのまま掴んでいたら、指が断たれていたのではないかと――背筋が凍る。
「な――何だ、それ……」
目はプラドの腕に釘付けになったまま、上擦った声を零し、ベイルは後退った。
「何だ、どうした!? お前何をやっている、戻れ――」
フェルディや兵達がプラドを追おうとし、つんのめるように足を止める。
通りへ出たプラドの右腕には、いつの間にか白々とした鋭い白刃が、前腕に沿うように顕れている。伸びた切っ先はプラドの膝の辺りへ届く。
ゆらりと一度、プラドの姿は陽炎に包まれたように揺らめいた。
「……け――、剣――?」
プラドは石畳を歩き、西海兵へと近付いて行く。
気付いた西海兵達が一斉にプラドへと向きを変える。
西海兵達が上げる唸りと咆哮の中で、白刃が風を纏った。
プラドは西海兵の群れへ、踏み込んだ。四方から突き出される鉾に構わず、身を捻る。
ひと薙ぎで円状に使隷が搔き消える。その様は蒸発に近い。
円上にいた西海兵が、胴を断たれ崩れ落ちる。
押し包み、襲い掛かる西海兵の硬い鱗をプラドの剣が鎧ごと、まるで紙のように切り裂いた。
「――殿下だ!」
閉じこもっていた家の窓にファルシオンの姿を見つけ、幼い少年は窓に駆け寄った。
「窓から離れて!」
「おうたいし殿下だよ、おかあさん!」
追い縋り我が子を抱き抱えた母親は、空にファルシオンの姿が浮いているのを見て驚き、瞳を見開いた。
同じように気付いた住民達が通りや窓から声を上げる。
「ファルシオン様が――」
通りにいた人々の姿は、金色の光に包まれる度に消えて行く。
「王太子殿下が、我々を」
「で、でもお一人だ。護衛の兵がいないぞ」
「西海兵にもし捕まったら」
「けどすごい――」
「やっぱり、陛下のお子だ」
少年を抱えた母親は、思わず首を振った。
今腕の中に抱えている子供と、ファルシオンは同じ年頃だ。
「あんなに、小さな子が――」
ファルシオンは地上へ両手を伸ばした。まだ、たくさんの人達が通りにいる。
建物の中にも。
くらりと目が回る。
いつの間にか頭は割れるように痛み、手足の関節が軋んでいる。
よろめきかけた身体を起こす。
心臓は早鐘を打っていて、全身が重い。
ただそれは、ファルシオンの意識の上には無かった。
ファルシオンには今自分が行なっている事がどんな力なのかも分からず、それが父王が時折見せたものと同じだとも気付かず、ただ想いだけがある。
(まもらなきゃ、わたしが。もっと――)
もっと多く。
今のやり方では全ての住民を助ける事はできない。
西海軍は王都のあちこちに侵入している。もっと多く、もっと早く助けなくては間に合わない。
(もっと)
全身を伝い、手のひらから溢れた金色の光が、一筋の柱になって空に立ち上がり、花が開くように広がった。
王都の街全体へ、雨のように降り注ぐ。
光は大通りや路地、広場の住民達の上に注ぎ、彼等を柔らかな金色に包んだ。
王都の、西海兵の侵入した至る所で、逃げ遅れていた住民達がファルシオンの手のひらから降り注いだ光に包まれ、その場から姿を消していく。
まだ無事な上層へ。王城の庭へ。
それは途方もない業だ。
そして瞳を奪われる、美しい光景だった。
ひととき、それを目にした住民達は状況を忘れ、空へ開いた黄金の花弁を見つめた。
「ファルシオン様――!」
住民達の間に悲鳴が上がる。
鉾の切っ先が、ファルシオンの目の前にあった。
身体を覆う金色の光が輝きを増す。
切っ先は、光の膜に阻まれ、あとほんの僅か――手のひら一枚の薄さでぎりぎり止まっている。
ファルシオンは鉾の飛来した方向を見た。
足元の広場の、影――以前見た、ビュルゲルやヴェパールと同じ姿――レイモアだ。
ぞくりと肌が粟立った。
(生きてない――)
あれは骸で、だが身体の奥底に黒々とした塊が蠢いていた。
もう一振り、鉾を手にしている。
握る腕が筋肉を盛り上がらせる。鉾全体に力が渦巻いているのが判った。
(よけなくちゃ)
ファルシオンは手をかざした。
鉾が打ち出される。
手のひらが金色の光を増しかけ
「!」
熱いと、そう感じたのは一瞬後だ。
鉾はファルシオンの胴へ、金色の膜へ突き立っていた。
衝撃に、身体ごと吹き飛ばされる。
後方の屋根に叩き付けられ、ファルシオンはそのまま広場へと落下した。
「――」
視界が霞み、暗くなり、意識が薄れて行く。
ファルシオンの身体を取り巻いていた金色の光は、淡い陽炎のように揺れ、消えた。
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