十六
死者達の群れは灰色の雲が空を流れるように、じわりと丘を広がり、近付いた。
声もなく見つめる正規軍の兵士達へ。
西海の兵だったもの、アレウス国正規軍の兵だったもの、皮膚は半ば崩れ、或いは骨を剥き出しにしている。
呪縛のような沈黙――
それを破ったのは咆哮だった。
死者の軍の後方から上がった咆哮が、大気を震わせ、丘に轟く。
「――ッ、剣を構えよ!」
第四大隊大将エンリケが我に返って叱咤の声を上げる。
咆哮は巨大な黒い影から響いていた。
それが西海の人頭姫の長、かつての三の鉾ゼーレィだと知る者は、向き合う正規軍兵達の中には誰もいない。
その歌声がかつては、死を招く恐ろしいものながらも、心を奪われる美しさを持っていた事も。
今はただ、獣の咆哮だ。
崩れ去り地に染み込みかけていた使隷の名残が、咆哮に震え、そして鋭い刃となって屹立する。
刃に触れた騎馬、そして兵が容赦なく切り裂かれる。一瞬にして前列百近い騎馬と兵が身体をばらばらに裂かれ、血溜まりに落ちた。
ランドリーはあれが半年前、王都の北中層に現れた海魔だと、その瞬間に理解した。
住民や兵を水と血の刃で容赦なく切り裂いた、恐るべき歌声。
巨体の海魔だけではなく、その周囲に同じ海魔の姿がおよそ五十は見える。
再び獣の咆哮が震える。
「法術士団、あの歌を阻害しろ! 弓兵は反復射撃により法術士団を援護!」
血溜まりから刃が立ち上がる。
切り裂かれた兵達の苦鳴、馬の嘶き、重い水音。
この戦場で使隷達が撒き散らした水はどこにでもあり、新たに撒き散らされた血は、新たな刃を作る。
数百の矢が人頭姫達目掛け放たれるごとに幾体かの海魔が倒れ、その間も歌は途切れず刃は兵士達を切り裂き、倒れた兵達の上を死者の軍は進軍した。
正規軍の前線を飲み込む。海魔の刃は正規軍兵も死者の群れも構わず切り裂く。
この僅かな間にも、既に千を超える兵が切り裂かれ倒れていた。密集陣形が仇となり、だが『壁』を背後にした地形に退く余地は無い。
「法術士団!」
「今――」
応えと共に、法陣円が夜空に浮かぶ。
「音を、断ちます」
「構わん」
法陣が明滅する。
唐突に、辺りを震わせていた咆哮は拭い去られるように消えた。
悲鳴も苦鳴も矢羽が風を切る音も。
法術の光に照らされた丘で、戦いの最中にある兵達の動きは無音劇のようにぎこちない。
ランドリーは剣を頭上にかざし、無音の中振り下ろした。
同時に手綱を繰り、死者の軍へと突進する。
騎馬隊がランドリーに続く。
もとは同僚として笑い合う事もあっただろう、死者の群へ。
騎馬の蹄が音もなく分け入り、剣が打ち合い、切り裂かれ、首が飛び、地に倒れる。
生あるものも、死にあるものも。
高揚も恐れも不安も怒りも無い。
この戦場にあるのは悲嘆だけだ。
「――ヴァン・グレッグ!」
声は吸い込まれ、届かない。
他には一切構わず、ランドリーは死者の群れの中央に馬を置くヴァン・グレッグへと、騎馬を駆った。
ヴァン・グレッグだった身体が剣撃を繰り出す。
馬体ごとぶつかり合うように二つの剣は一度噛み合い、その瞬間にランドリーは呻いた。
何の手応えも無い。
衝撃と込められた力は以前よりも強い。
だが、ただ振っただけの力任せの斬撃だ。
悲嘆の中に怒りが、怒りの中に悲嘆が、渦になり激しく混ざる。
(あれほど、互いに研鑽した剣を)
数合剣を打ち合い、だがそれ以上は渦巻く感情に耐え切れず、ランドリーはヴァン・グレッグの剣を弾き、斜めから肩、そして胴を斬り下ろした。
斜めに割られたヴァン・グレッグの身体が、馬上から地面に転げ落ちる。
ランドリーはそれを見下ろし、束の間、言葉にはならない言葉を呑み込み――、騎馬を返した。
まだ戦場は音もなく、激しい戦いが続いている。
(海魔を――)
「ッ」
ランドリーは歯を噛みしめ、右脇腹を見た。
脇腹を剣が掠めている。
ランドリーは振り返り、身体半分を垂らしながら立ち上がっているヴァン・グレッグの姿を捉えた。
壊れた人形のようだ。
先ほどよりも激しい怒りが込み上げる。
「――許さん」
ランドリーの剣が閃き、ヴァン・グレッグの首を刎ねた。
だが身体は尚も動いている。
兵達が倒したはずのものも。
腕を飛ばされても、脚を断たれても、首を跳ねられても、動いている。
動くだけだ。
ランドリーは石を噛み砕くように奥歯を噛み締め、振り下ろした剣でヴァン・グレッグだった身体を真っ二つに断った。
レガージュ港沖に現われた西海軍の増援は、五千近くに膨れ上がり、戦鼓を鳴り響かせながら容赦なくレガージュ港へと進み始めた。
既に混戦状態となっている港の広場へ、黒い泥のように迫る。
ファルカンは西海兵を斬り倒し、同じく二体切り裂いたユージュと背中を合わせた。
「ユージュ、悪いな。お前を休ませてやりたいところだが、そうも行かなくなっちまった」
「平気」
「けどすぐ、ザインが来るさ」
「うん」
ユージュとファルカンが西海軍の群れへと地面を蹴ろうとした、その時――
もう一つ、新たな轟音が耳を打った。
破裂のような轟音はレガージュの街の両側に聳える高い崖に反響し、街に落ちる。
「くそッまだ増えやがんのか――!」
足元から湧き上がる絶望と共に沖合を睨んだファルカンは、半ばでその瞳を予想外の驚きに見開いた。
船団の男達も、船乗り達も、南方軍の兵士達も、束の間動きを止めている。
西海軍さえも。
「――信じられん」
「ファルカン団長、あれ――!」
ユージュもまた、驚きに瞳を見開いて沖を指差した。
そこに光が輝き、轟音が再び、放たれる。
それは沖合に浮かんだ船からだった。
沈み行く夕日に赤く浮かび上がる水平線を背に、横一列に船が並んでいる。
風になびく旗。
三十隻を超える船団。
「……マリ、海軍――」
轟く音は、マリ海軍の誇る火球砲だ。
それを理解した時、初めに喜びを爆発させたのは、レガージュに取り残され共に戦ってきたマリの船乗り達だった。
『マリ海軍だ! 俺達の国だ!』
『全くもって遅くなったが、ぎりぎり間に合ったようだな』
海軍提督メネゼスは、船首に立ち、遠見筒から目を離すと隻眼の面をしかめた。
その片手を上げる。
火球砲の砲門が次々開かれる。
ずらりと横一列に展開した船団の半数、砲門はそれぞれ船首二門及び左右船腹に五門。
以前レガージュに向けた砲門の数を遥かに上回る。
レガージュ港へ進軍しかけていた西海軍が、予想外の敵に慌てふためきながらも、新たに現われた船団へと転回していく。
メネゼスは上げた手を下ろした。
『以前の借りを、ここで返せ』
砲音が轟き、船首から放たれた十数条の光条が、西海軍へと突き刺さった。
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