十五
ボードヴィル砦城の大屋根の上で、ルシファーは風竜の白い骸に身を寄せ、西を見つめていた。
骸の竜が長い首を巡らせる。骨と骨がぶつかる音が、木琴を叩くような美しい音を立てる。
ルシファーは風竜が首を巡らせた方へ問うた。
「誰」
「御方」
暁の瞳が僅かに見開かれる。
「レイラジェ将軍……」
何故貴方が――と呟き、だがすぐに瞳に冷えた色が戻る。
「そう、貴方も今、あの戦場に出ているのだったわね」
「御挨拶に参りました、御方。三百年、無沙汰をしておりました。ご無礼をお許しください」
「別に何一つ、構わないわ」
その言葉の響きを表わすように、白い躯に背を預ける。
「何度来ても、誰が来ても同じこと。私はもう貴方達にも、あの海にも興味はない。好きに戦乱を広げ、好きに食らうといい」
「彼の方の意志は既に彼の方だけの意志ではなくなりました。そこに光と安らぎを見るのもまた」
レイラジェは大屋根の上に、躯の竜の背を見る位置で立っている。
「――好きにすればいいわ。私は関わらない」
ルシファーは風竜の白い骨に凭れたまま、そのまま瞳を閉じる。
「――今は。ですが我々は、いずれ我々の得る海を、貴方にも見ていただきたいと望んでおります。あの方もそれをお望みでしょう」
ルシファーの瞼は動かない。
レイラジェはしばらくその姿を見つめ、背を向けた。大屋根からシメノス側の回廊へ、降りる。
それも追う事はなく、ルシファーは目を閉じていた。
全てはどうでもいい。
この身ならば揺らぎ、溶けてしまえばいい。
大気にか。
海にか。
(――)
骸の竜が背中を揺する。
揺り籠のように。
かつて、遙か遠く、まだそこでただ世界を見つめていた頃の、絶えず響いていた風の音。
レイラジェは大屋根から砦城外周を巡る回廊に降り、もう一度だけ空を見上げた。
白い躯の竜の姿は、夜に発光するようにぼんやりと浮かび上がっている。
『――レイラジェ将軍』
回廊の暗がりに二名、第二軍大将ミュイルとその部下が身を潜めてレイラジェを待っている。
『御方は』
『現状は仕方あるまい。我等はまだ何も変えてはいない』
ミュイルが頭を垂れる。
『今は戻る。そろそろ戦況も動こう』
レイラジェは回廊に張り出した露台へ立った。眼下でシメノスが轟き流れている。空へ足を踏み出そうとした時、ミュイルが誰何する声が聞こえた。
『誰だ』
レイラジェは振り返り、ミュイル達の向こう、回廊の奥に立つ二つの人影を見た。
一人は大柄の、巌のような体躯をした男だ。身に纏っているのはレイラジェにも見覚えのある濃紺の軍服だ。
(ここの正規軍兵か)
もう一人の男は灰銀の髪を後ろに結わえ、黒い軍服に身を包んでいる。
巌のような男が一歩近寄る。その腰には今は抜かれていないまでも、剣を帯びている。
「多分、誰だってな事を今聞いたんだろうな? まあそれを問いたいのは本来俺達の方なんだが」
「西海軍の侵入――というよりは、ルシファーに用があるみたいだね。前にも来ていたのを見た」
レイラジェは剣の柄に手を掛けた。
ミュイル達二人に緊張が走る。
対する二人――、ワッツとヴィルトールもだ。
ヴィルトールはだが、剣を抜く気はない事を示すように両の掌を上に向け、そのまま数歩彼等に歩み寄った。
「以前来た時、君たちは確かルシファーに、『誰かの意志を実現する』、というような話をしていた。その話を私はもう少し、聞きたいと思っている」
「申し上げます! 北西方面より西海軍が進軍しています。兵数はおよそ四万――!」
ランドリーの元に舞い降りた飛竜から伝令が駆け下り、息を切らし北西の方角を指差した。
アスタロトはぐっと唇を噛んだ。
西海軍の本隊から、もう一つ挟撃に回された部隊だ。
参謀長コーエンスがランドリーを見る。
「囲まれれば我等に退路はありません。今の内に薄い南東を叩き、道を確保すべきかと」
ランドリーが頷く。
「法術士団から五十名を北面に回せ。まずは法術で足止めする。マイヨール、第七大隊から二百、大型弩砲を用い足止めに加われ。その間、残り全軍を以って南東を潰す」
「僕も北面へ行こう。法術士団からは三十でいい」
アルジマールへランドリーは目礼で応えた。
アルジマールはすっと空へと浮かび、すぐに北西へ、淡い光を纏いながら飛翔する。三十名の法術士がアルジマールの後を追って騎馬を駆った。
ランドリーはその姿を見送り、顔を戻した。
「――行くぞ。まずは南東の敵だ」
伝令が四方へ走り、待機していた兵列が、蹄の音を立てて動き始める。
自らも隊に戻りかけていた第四大隊大将エンリケが、前方へふと目を止め、鋭い声を上げた。
「閣下! 新手が――」
「新手だと? 北西の軍ではなくか」
「南東です。あれは――」
エンリケの差し示す先に、灰色の靄に包まれたような一団がある。
コーエンスの合図で法術士達が再び、光球を空へと放った。
月のように輝いた光球の明かりが、丘の上を照らす。
兵達の間に、抑えた呻き声が広がった。
「――あれは」
宵闇の中にも黒々とした一団は不自然によろめき、身体を引き摺りながら、ゆっくりと丘陵を近付いて来る。
「何てことだ……」
死者の群れ。
群れの中に揺れるのは、擦り切れ、血に塗れた正規軍の軍旗だ。
それは、七月にこの地で戦死した、西方軍の兵士達の群れだった。
手渡された遠見筒の中に、一つの姿を捉える。
ランドリーは拳を握り締め、声を押し出した。
「――ヴァン・グレッグ……」
かつての盟友、共に将軍アスタロトを支え、正規軍を支え、国を支えると自負を同じくした男の変わり果てた姿に、ランドリーは腹の奥底から立ち昇る怒りを、剣を握る拳に込めた。
「――迎撃の準備をしろ。今はあれらを、敵と思え」
エンリケ、カッツェ、ブラン、マイヨール。
増援の第二大隊大将ハーネス、第三大隊大将ゴルドー。南方軍第二大隊左軍中将ランスと、東方軍第二大隊左軍中将カーヴ。
それぞれが右腕を胸に当て、自らの預かる隊へと馬首を巡らせる。
その蹄の音の中、ランドリーは近付いて来る死者の軍の、一点を真っ直ぐに見据えた。
「奴は私が、正しく送る」
「――」
ランドリーの横顔を一度見つめ、アスタロトは手の中の鱗をぐっと握った。
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