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王の剣士 七

<第三部>

第四章『空の玉座』

十四

「竜騎兵は退かせろ、これ以上は危険だ! 法術士団! 灯を絶やさず掲げろ!」
 既に夕闇は辺り全体をすっかり覆っている。
 ランドリーは背後の転位陣が放つ光と法術士団が打ち上げる光球の明かりを頼りに、戦況を見回した。
 もはやあと数呼吸で西海軍は北方軍の陣を破ると、その確信がランドリーの中にある。
(止めるか)
 今ならば、転位を止める事はできるだろう。
 二つの思考が激しく鬩ぎ合う。
 転位を止めるという事は、この戦場にある兵達の生き残る道を閉ざすという事だ。
 だがこのまま二千五百名の兵が戦場の真っ只中に現れても、今の状況では彼等の命がただ失われるだけでしかない。
 判断は、もう今しかない。
 手の中の剣を、ぐっと握る。
(――許せ)
 ランドリーは法陣円の法術士達を振り返った。
「転位を、中止――」
 ランドリーが声を張り上げるより早く、中央の転位陣の一つが唐突に光を吹き上げた。
 大気が激しく一度、肌を打つ。
 辺りは一瞬、日中よりも白々と照らし出された。
(判断が遅かった――)
 膨れ上がった白い光が、炎が枯れ草の上を走るように瞬く間に地を走った。
 白い光は地に犇く使隷を捉え、その瞬間に砕き、西方軍兵士を捉え、糸が切れた人形のように地面へ倒す。
 兵の転位、ではない。
「――何が」
 束の間、戦場はそれまでの喧騒が幻だったかのように静まり返った。
 痛いほどの静寂が耳を叩く。
「……法陣は、どうなった!」
 兵達は。
 はっとして振り返ったランドリーの視線が捉えたのは、二千五百の兵列ではなかった。
 たった一人。
 法陣円の中心に立っていたのは、灰色の法衣をまとった小柄な人物だ。
 それが誰かは、すぐに思い至った。
「――アルジマール殿!」
 安堵が腹の底から立ち昇る。
「貴方が初めに来てくださるとは――有り難い!」
 アルジマールを送ると、王都からの通達にはあった。
 アルジマールの到来がこの段階である事、兵達を無駄に投入せずに済んだ事そのものが、ランドリーの胸を撫で下ろさせる。
「色々準備してたら遅れてしまった、すまない」
「いや、充分だ、アルジマール殿」
 五つの法陣円の一帯、光が拡散した後に立っているのは正規軍の兵士のみだ。
 西海軍は唐突に自軍の兵を倒した白い光に警戒し、距離を取り状況を窺っている。
 だが、今だけだろう。
 西海軍の数が未だ十万を超えている事に変わりはない。
 アルジマールは近寄るランドリーへ片手を上げた。
「転位陣に手を入れる。少し待ってて」
「待てとは――」
 ランドリーは一瞬面食らったものの、すぐに兵達を振り返った。
「陣形を立て直し、前へ出よ! 近付く敵があれば押し留める!」
 アルジマールの詠唱が、陣形を立て直す兵の足音や騎馬の蹄の音に混ざり、流れる。
 それまで個々に光を放っていた転位陣はすぐに、同じ一つの巨大な円を描いた。
 法陣円の円周に、淡い光の壁が立ち上がった。防御壁だ。
「法術士団は支援に徹するといい。あとは僕がやる」
 法術士団の術士百名が担っていたものを、アルジマール一人でやると――
 呆気に取られたランドリーの視線の先で、法陣円の中が陽炎のように揺らぎ始める。
 転位が始まった。
 陽炎は次第に、その中に数千の兵と騎馬の形を明らかにしていく。
 西海の兵が狼狽えたように、じりじりと後退する。
 それは時間にして数呼吸の間だ。
 転位陣は二千五百の兵を、一度にこの地へと送り込んだ。
 光と共に現われた騎馬隊の中から、先頭の一騎が進み出て、ランドリーの前に騎馬を止める。北方軍第二大隊大将、ハーネスは馬上で右腕を胸に当てた。
「閣下。まずは第二大隊二千五百、この場に揃ってございます」







 王都外周の演習場に敷いた五つの転位陣は、四度目、最期の増援を送る為にその光を増していく。
 既に七千五百を送り込み、残り二千五百。
 ハイマンスは演習場の物見台に立ち、ゆるゆると息を吐いた。
「これで最後の部隊です。サランセリアは現在、西海軍が後退し、一時的な戦闘中断が生じているとのこと」
「すぐに進撃が始まるだろうが、体勢を立て直すには十分だ」
 自らもまた法陣円へ踏み出したい想いを堪え、タウゼンは光る円を見据えた。
 増援を合わせて二万弱。アルジマールも戦場へ出ている。
 地の利を活かす事で西海軍を後退させる事、まずはそれを第一の目標としていた。
(それからだ――)
「アスタロト様!」
 ハイマンスの唐突な、驚愕の叫びが耳を打った。振り返ろうとしたタウゼンの横を、小柄な影が擦り抜ける。
「何――!?」
 タウゼンが咄嗟に伸ばした手は空を切り、アスタロトは物見台から飛び降りると、今まさに転位しようとしている法陣円へ、駆け込んだ。
「公ッ!」







 全ての兵を送り終えた転位陣の光が、輝きを沈めて行く。
 夜の落ちた丘を染めるその白々とした光の中、兵達と共に立つアスタロトの姿を目にし、アルジマールとランドリーは驚きと共にその姿を見つめた。
「アスタロト公?! 君、何で――ああ、もう、何て事だ、全く」
 アルジマールが息を吐き、ただそれ以上は言わずに肩を竦める。
「公――」
 ランドリーは首を振り、アスタロトの前に立った。
 アスタロトの炎が失われた事を、ランドリーは彼女自身の口から聞いて知っている。
「ランドリー、私は兵士達と共にありたい」
「なりません。公、今すぐ、王都へ」
 だがそう言う間もなく、アスタロトの姿に気付いた兵達の間から、どっと歓声が沸き起こった。
「炎帝公――!」
「アスタロト様だ!」
「アスタロト様がこの戦場に、来てくださった!」
 歓声は正規軍兵士達の間に波のように広がっていく。
「――」
 ランドリーは口元を引き結び、アスタロトを見つめた。
 アスタロトは真っ直ぐに、その瞳を見つめ返す。
「ランドリー、私に帰れと言うな」
 アスタロトの決意は――想いは、ランドリーにも良く解る。
 そして今アスタロトを帰してしまえば、兵士達の歓喜は取り返しのつかない落胆に変わるだろうとも。
 ランドリーは息を吐いた。
 今は兵士達の士気が上がる事が何より有難い。
 それは彼等自身を救うだろう。
「――仕方ありません。ですが、貴方をここで失う訳にはいかない事をご承知おきください。万が一となれば貴方の意志には関係なく、王都へお戻り頂きます」
「わかっている。勝手を言ってすまない」
 疲労を見せていた北方軍兵士達は、俄かに活気を取り戻している。
 ランドリーは兵達を見回した。
 ランドリーが当初から率いていた九千の兵の中で今動ける兵は、負傷者及び、竜騎兵が夜間の戦闘飛行を避ける事を考慮に入れ、五千弱。
 新たに転位した一万の兵を加え、結局は二万にも満たない。
 だが法術士団は転位陣の任を終え、これ以降は攻撃にも防御にも動ける。
 法術院長アルジマールの法術は一個大隊にも匹敵する。
 そして、アスタロトの存在。
 勝たねばならない。
「『壁』が本隊を遮っていられるのも時間の問題だ。故に挟撃の部隊をまずは潰す! だが、明日の朝を迎える前には、我々は勝鬨を上げているだろう!」
 兵達の呼応の声が湧き起こる。
(――私も、戦いたい)
 その声を聴きながら、手のひらにある硬い感触をアスタロトは握り締めた。
 カラヴィアスが窮地を救うだろうと、アスタロトに手渡した真紅の鱗。
(ここで戦えないのなら、私は――)
 顔を上げ、アスタロトは背後の崖の向こうに広がる西海軍本隊を見渡し、ふっと眉を潜めた。
 空に浮かんだ法術の光球が落とす、薄白い光とその影の描き出す西海兵の列。
 十万もの。
(――十万?)
「公は私の側へ――アスタロト様?」
 ランドリーの声を背に、アスタロトは『壁』の方へ、数歩、近寄った。
「ランドリー。西海軍の陣が、薄すぎる」





 フォルカロルは束の間剣撃の音の収まった崖の上を、悠然と見上げた。
 プーケールの急使は先ほどの白い強烈な光によって、前線の兵が四割方損害を被ったと伝えて来た。
 ただそれも、当初の予想の範囲内だ。
 アレウス国正規軍の総数は八万四千。国内の各地に隊を散らしている今の現状では、最大限の援軍を送ったとしても恐らく二万程度であり、その最大限二万をこの地に送れば国内の治安維持はほぼ不可能になる。
 だから、援軍は一万前後のはずだ。
『その程度――だがその程度でも、ただ黙って数が揃うのを眺めているほど、私は愚かではないぞ』
 プーケールの挟撃部隊とは別に、フォルカロルはもう一つ、後衛の陣を分けていた。第三軍、将軍ヴォダの軍だ。
 本隊には五万を残し、第三軍四万の兵は、北西から『壁』を迂回しながら今、アレウス軍を包み込むように近付いている。
 今『壁』の上にあるプーケール軍一万弱と合わせれば五万、アレウス軍は南西に伸びる『壁』に退路を断たれ、増援も虚しく完全に袋の鼠になる。
 そして、プーケールがシメノスから引き連れた五千の兵。
 そのほとんどは、アレウス軍にとってこそ、馴染みのあるものだ。
 七月のサランセラム丘陵の戦いでナジャルが喰らい、吐き出した死者の軍――
『再会を喜ぶといい。そして共に滅びるのだ』
















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2019.6.30
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