十
前室へ出てイリヤのいる部屋の扉を閉ざし、ヒースウッドは扉の前で立ち止まると先に出たワッツへ真っ直ぐに身体を向けた。
「ワッツ中将」
ワッツもまた、ヒースウッドへ向き直る。
「……私は様々な事を間違ってきたのだろう。このボードヴィルに対しても、ミオスティリヤ殿下に対しても」
「――」
「改めてお願いする。貴方の力を貸して欲しい。今、このボードヴィルには一人でも多く、国の為に力を尽くす志を示せる者が必要なのだ」
巌のような顔の、緑の瞳が細められる。そこにあるのは鋭い光だ。
「俺ァ今でも、ルシファーに与するのは良しと思ってないんだがな」
「これはあのお方の為ではない」
ヒースウッドは素早くそう言った。その視線は窓へは向けられない。
「今、西海軍が再び上陸し、北方軍が僅か一万の兵でそれに抗しようとしている」
早朝に見た進軍の光景を、ヒースウッドは再び思い起こしているのだろう、二つの拳を固く握った。
「恥ずかしながら、今このボードヴィルに集った者達は、半数が西海との戦いを恐れ保身に走っている。今こそ我等は王太子殿下の御旗のもと、国の為に働かねばならないのに、彼等は壁の中に篭って安心してしまっている。情け無い――だが一番情け無いのは、彼等を説得できない自分自身なのだ……」
ヒースウッドが芯から忸怩たる想いを抱えている事は、ヴィルトールの目にも明らかだった。
「この戦いに負ければ、このボードヴィルですら安全ではないと言うのに」
唇を噛み、ワッツへ、真摯な瞳を向ける。
「ワッツ殿。貴方は黒竜からこの国を救った英雄だ。そして七月のサランセラムの激戦を生き抜いた、尊敬すべき軍人だ。ミオスティリヤ殿下の為、西海軍と戦う正規軍兵士達を助ける為――この国の為に、どうか、協力していただけまいか」
熱を押し殺したヒースウッドの言葉に対して、返るワッツの声はヒースウッドを突き放す。
「英雄だ何だと相手に理想の役割を求めてる限り、お前の言葉は薄っぺらい。だから響かねぇ」
ヒースウッドは奥歯を噛み締め、顔を伏せた。
「――仰る通りかも、しれません」
「だがまあ、信念は本物なんだろう。単純過ぎるがな」
ワッツは組んでいた腕を解いた。
俯いていたヒースウッドが肩を揺らし、顔を上げる。
「――ワッツ中将……」
「いいだろう。言った通り、俺はこの国の兵士だ。国を守る事においては、ボードヴィルに協力しよう」
「あ――、有難うございます!」
ヒースウッドは勢いよく上体を折った。
「んじゃあもう一つ」
「何か必要なものがあれば、何なりと」
「俺の部下達だ。どうしてる? あの時、十はいたはずだ。まさかしょうもない事ァしてねぇだろうな」
「ちょ、懲罰房にいる。牢ほど過酷ではないはずです」
「良し」
ワッツはごきりと首を鳴らし、ついでに肩を回した。
ヒースウッドはワッツの前に伏せた頭を、更に低く落とした。
「――お詫びと、御礼を、申し上げます! 心から」
ワッツが鼻先に皺を刻む。
「今のお前は上級大将ってんだろう。胸を張れ。これを始めたお前が、最後まで責任を取るんだ」
顔を上げ、ワッツの双眸をじっと見つめ、ヒースウッドは右腕を胸に当てると、その口元をぐっと引き結んだ。
既に西海軍とランドリーの部隊との第二戦には間に合いようが無いが、このまま保身を決め込んでいる訳にはいかない。
まずは一刻後の夜八刻に再度メヘナ達を招集する事を決め、ヒースウッドは力を取り戻した足取りで部屋を出て行った。
(これで、ボードヴィルがどう動くか――)
ボードヴィルの見え方と、ヴィルトール達自身と。
ヴィルトールはこの先の事に思考を巡らせつつ、確認しておきたい事がありワッツを振り返った。
「ワッツ、さっきの話、一応確認だが、ラナエを保護しているのは誰なんだ?」
ヒースウッドの前では、敢えて出さなかっただろう名だ。
予想はしている。
ワッツはあっさりと口にした。
「ヴェルナーだよ。こんな危なっかしいモンに手ェ出すのも手ェ出せるのも奴しかいねぇ」
「まあそうだねぇ」
イリヤの事はレオアリスがずっと気にかけていた。だから今の状況であっても、ロットバルトはそうするだろう。
ヴィルトール、とワッツは改めてヴィルトールの名を呼んだ。
「お前、王都と今どれだけ繋がってる」
「ここに来てからは断絶してるよ。このひと月でようやく、一方的に手紙を送れる程度にはめどが立ったけど、返事が戻ったとしても私と同じ方法ならあと半月はかかる。向こうからの連絡手段はまだ無いみたいだな」
「俺もここに入れられてから、さっぱりヴェルナーの伝令使が来なくなった」
「ルシファーが何かしら、接触を遮断しているんだろうね」
「なるほど」
丸太のような腕を組むと、ぎしりと軍服が軋む。
「てことは、ヒースウッドの考えとは別に、俺は俺なりにボードヴィルの外に出る必要があるわけだ」
ルシファーの監視の外へ。
「よし、ヴィルトール。まず外と連絡を取りてぇな」
遡る事半日。
ボードヴィルを背にシメノスを這い出た西海軍は、サランセラム丘陵を北西へと進軍した。
将軍プーケールが率いる一万と、シメノスに陣を置いていたおよそ五千。
兵を運ぶのは使隷の波、進軍の音は騎馬の蹄の轟きのそれではなく、水袋を落とすような不気味な響きだ。
海馬に跨った三千の騎兵、九千の歩兵。
そして三千もの死者の軍。陰鬱な影を纏うその中に一際大きな身を揺らすのは、かつては三の鉾にすら上り詰めた海魔ゼーレィの亡骸だった。
七月にヴァン・グレッグの西方軍を壊滅させた丘を越え、五月にワッツが村人達を避難させて以来住人が戻らないままの村や畑を、使隷の作り出す銀の波が呑み込んで進む。
『急ぐ必要は無い』
プーケールは海馬の上から前方を見据えた。
進軍の速度を上げる事もできたが、プーケールはそうはしなかった。
挟撃を阻むほどの兵をアレウス軍は持たず、プーケールの軍が戦場に着けば、その時点で最早アレウスの敗北は決したようなものだ。
崩壊の時が早いか遅いか、それだけの違いでしかない。
ならば確実なる敗北と死が迫り来る恐怖を、充分に味わわせればいい。
『ゆるゆると進め』
敢えて迎撃を整える時間を与える。その間にアレウス軍は、動ける兵をこの地へ掻き集めるはずだ。
兵力差を考えれば無駄な話だが、アレウス軍はそうせざるを得ないだろう。
まずは勝利を。
『フォルカロルに武勲をくれてやるのは癪だが』
本当の狙いはこの地での勝利ではなく、別の所にあった。
ランドリーが陣を張っているのは、近隣住民の間で『壁』と呼ばれている谷間の地の崖の上だった。
緒戦において幻術を用い、西海軍の先陣を『壁』の中に引き込み勝利したが、二度もその戦術が使えるとはランドリーも考えてはいなかった。
そしてまた、今のこの陣が、いわゆる背水の陣である事も承知の上だ。
西海軍は昨日よりも先陣を退いて配置し、そのまま半日、動く気配が無かった。
「西海軍が次に取る手は挟撃だろう。我々は正面の西海軍にこそ優位な場にいるが、背後から攻められればこの地形は我々の枷となる」
待ち構える正面の西海軍の大軍に向け、転がり落ちるしかない。
ただ、ランドリーもただ指を咥えて待っていた訳ではなかった。
この早朝には北方軍第三、第二大隊の飛竜部隊各千騎が到着している。
そして法術士団の術士達は、丘陵の上に巨大な法陣円を組んでいるところだ。寝る間を惜しんで敷設に当たり、当初四日を見込んでいた転位陣は、今日の夕刻には転移を開始できると報告があった。
第三、第二本隊各二千、東方、南方軍各三千、合わせて一万が既に各地で兵列を整え、転移の準備を終えている。
ランドリーが率いた九千と、全て合わせれば、二万一千名に上る。
方面軍一つは二万四千名の兵で構成される事を考えれば、一つの戦場に対して破格の配備と言えた。
それでさえ、西海軍総数十万余には程遠い。
ただ絶望ばかりでは無い。
王都がもう一人、この戦場へ助勢を送ると通達して来ている。
ランドリーは瞼を落とし、束の間周囲の音に耳を傾けた。
天幕の厚い布が騒めきをその向こうに止めている。
天幕の入口の布が上がる。
「失礼いたします、閣下」
一歩踏み込んだ第五大隊大将カッツェの面に浮かんだ色を見て取り、ランドリーは聞かずとも理解した。
「来たか」
「後方、東南方面より西海軍が進軍、その数は一万を超えております。現在の速度から考えると、一刻ほどで到達するでしょう」
想定通り、挟撃の軍だ。
ランドリーは頷いて立ち上がり、天幕を出た。
途端に天幕内にあった仮の静けさは一片も残さず消え失せ、兵士達が行き来する騒めきがランドリーを包む。昨日の勝利は兵士達の上には無く、肌に迫る緊張が満ちていた。
既に陽は傾き、黄色味を帯びた陽射しが浮かぶまばらな雲と丘陵を淡く染め始めている。
ランドリーは一つ背後の丘陵へ視線を巡らせた。
そこに敷かれた法陣円の光が、暮れて行く空と対比するように、次第に白く輝きを増しているところだ。
「およそ一刻と言っていたな」
あと一刻ほどで法陣円は完着し、完着すればすぐに援軍を運び始める手筈だった。後方から迫る西海軍とどちらが早いか――
ランドリーは視線を戻し、剣の柄に左手を置いた。
「閣下」
第四大隊大将エンリケが、草を踏み、厳しい面持ちでランドリーへ歩み寄って来る。ランドリーの前で両脚の踵を揃え、右腕を胸に当てた。
「西海軍本隊が、動き始めました」
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