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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』




 王の手が伸びる。
 伸ばされた手はレオアリスの髪に触れ、その頭を一度、撫ぜた。
 レオアリスは涙が零れるままの瞳を見開いた。
 目の前の姿が揺らぎ、あの夜の庭園が脳裏に浮かぶ。
 半年前、王が不可侵条約再締結の為にイスへ向かう、その前夜。春の祝祭を締めくくる夜に、同じように王の手がレオアリスの頭を撫ぜた。
 それはレオアリスが最後に、この存在の前に、その剣士として在れた時間だった。


 涙が、止めどなく落ちる。
 この手は、過去のものだ。今、レオアリスの前に在るこの存在は。
(そうか)
 結局自分にとって、この主の為に剣を顕す機会は、もうあのイスしかなかったのだ。
 主がそれを、是としなかった。
 もう、そこに戻ることはできない。


 俯き、目を強く瞑る。
 押し出された涙が頬を伝い、雫を落とす。雫は僅かに黄金の光を帯び、足元の草の上に砕けた。


『――ス』

『レオアリス』


 遠く、微かに名前を呼ぶ声が掠める。


 剣を呼ぶ。
 自らの内にあるそれ。未だ主を持たない剣。
 砕けた剣。
 鳩尾が熱を持つ。
 力なく下げていた右手が、ゆるく持ち上がり、鳩尾に触れた。


 ふと――
 レオアリスは自分の剣に、誰かの指先が触れたように感じて、鳩尾に視線を落とした。
 剣を顕してはいない。
 けれど微かに――、あの時・・・、確かに、そこに触れた。
 そこから零れた金色の光が、刀身を波紋のように広がった。温かく。
 剣を、レオアリスの腕を伝い、胸の奥に落ちていった。


 声が甦る。
 それは本当・・の、王の声だ。
 余りにも懐かしく、指先すら触れることも叶わず遠く、胸を締め付ける。


『――その刀身を曇らせる事無く、自ら光を纏うつるぎのようであれと願った』


 王都の、庭園で。
 レオアリスに名前を与えたことを語った、王の声。


『強く、清澄な光を纏う剣のようであれと――』


 喉を塞ぐ塊の奥から、声を押し出す。
「――陛下……」


 考える。
 もうずっと、何度も、何度も、何度も――
 あの時の王の言葉を。
 その意味を。


『剣とは敵を切り裂くのみに非ず、そなたら剣士がこれまで心を以って示してきたように、誰かを、何かを護るものでもあろう。そしてまた、そなたが自らそうしてきたように、未来を切り拓くものでもある』


 あの日、自分がイスに、王の傍に居られなかったことを。


 考える。
 かつて、その時、選択した全ての場面にもっと、より良い選択肢があったのではないか。
 違う手段、違う意思、違う選択、違う道を選んでいれば、状況は違うものに、もっと良いものになっていたのではないか。
 考える。
 もし自分が。
 もしあの時。


 考える。


 けれどそれは全て、終わったことだ。
 通り過ぎてしまった。
 どれほど悔やんでも時は巻き戻せず、選んだ道は戻れない。


『そなたは自ら切り拓き、ここに立った。この先迷う事もあろう。その時は、答えは常にそなた自身の中にあるのだと、思い出すと良い』


 そうだ。
 どれほど道を迷っても、違う道を辿っても、自分がきっと、必ず、あの存在の前に立ったように。


 だから、今するべきは、新たな道を――何を今なすべきか考えた上で選ぶこと――
 できるのはそれだけだ。


(――俺は)


『レオアリス』


 王の声――
 違う。
 ファルシオンの声だ。
 剣に触れる黄金の光は、僅かにその光を変えた。
 まだ幼い、けれど、強く輝き始めた光。
 向かう先を照らす、柔らかな澄んだ光――


「――殿下」


 この戦いで、自らも戦場に行くと、ファルシオンはそう言った。
『自分だけ王都にいて――そんなの、総大将なんかじゃない。みなの力になれないのだ。私は、みなの力になりたい』
 反対するレオアリスへ、ファルシオンはその幼い首をきっぱりと振った。
『私は、そなた達と共に行く。それが私の願いで、誇りなのだ』
 黄金の瞳が内側から光を滲ませていた。
『私を認めてほしい』
 輝く光。そこに宿る意志。
 幼い身で重責を背負い、王の――父のいない国を背負い、悲しみと苦しみを心の中に抑え、それでも瞳を前へ向けようとしていた。
 だからレオアリスは、約束したのだ。
 戦場で、万が一、危険が迫った場合は、自分を呼んで欲しいと。
 必ず行くと、そう誓った。



 レオアリスの前に立つ王の姿が、二重にずれる。
 その黄金の瞳は、レオアリスへと向けられている。
 黄金の光だけを残し、姿を変える。
 幼く、まだ頼りなく、それでも凛とした姿へ。


「レオアリス――」


 呼ぶ声が聞こえる。
 王の静謐さと深い智慧を湛えた確固たる光とは異なる、どこか不安定な光。
 追い求める光ではなく、消えないように守らなければならないもの。


 身体の中で温かい光が広がる。
 それはファルシオンが放った金色の光だと解る。


「――ボードヴィルへ」
 ナジャルの吐き出した影――海皇はファルシオンを取り込み、自らの形を、欲望を、取り戻そうとしている。
 それだけはさせられない。もう二度と、同じ後悔をするつもりはない。
 身体の奥底で、砕けて散っていた剣の欠片が、熱を帯びた。
 身体を裂く痛みを伴い、一つに寄り集まっていく。鳩尾へ。


 目の前で、幼い王子の姿は再び形を変え、王のそれへと戻った。
 それでも、もう解っている。
 静かに、言葉を落とす。
「――貴方・・は、俺の剣の主じゃない――」
 ただの影だ。もう王はいない。それをレオアリスは理解していた。
 半年前、王がイスに赴いた日、右の剣が砕けた時から――
 もう、王はいないことを。その前に立つことは、叶わないことを。それは、王自身の意志によるものだと。


『そなたの剣の一振りが、ファルシオンの為にあれば良いが――』


 理解していた。ずっと。
 左手を、鳩尾に当てる。
 ずぶりと沈み、その手がつるぎを引き抜く。
 青白い光を纏う、月の光に浸したような剣――。ゆっくりと息を吐く。
 更に、右手を当てる。
 沈めた指先が、それに触れた。
 剣――王に捧げた、砕けた剣。
 再び形を成したそれを掴み、引き抜く。溢れ出した青白い光が辺りを、夜に落ちる月の光に似て煌々と染めた。
 新たなその剣は、たった今鍛え上げたかのような澄んだ光を帯びていた。
 剣身に、青い光が爆ぜる。
 二振りの剣が青く輝く。


 剣は青白い光の筋を引き、流れた。束の間、無音がそこに生じる。
 二つの光が、王の身体を断つ。


 一度震え、断たれた身体は青い光の中に溶けるように消えた。
 それだけだ。


 ただ、それだけで、そこに既に王の姿は無く、辺りには静寂だけが満ちた。


 両手の剣を下げ、ゆっくりと息を吐く。
 膝を落とし、俯いた。二つの剣は青く、澄んで、輝いている。
 食い縛った歯の奥から、堪え切れず呻きが洩れる。
「――ッ、う……」
 嵐のような感情が渦を巻き、吹き上がる。
 レオアリスは喉を反らし、肺の奥から迸り出るような、嗚咽に似た叫び声を上げた。









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2021.2.14
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