八
王の手が伸びる。
伸ばされた手はレオアリスの髪に触れ、その頭を一度、撫ぜた。
レオアリスは涙が零れるままの瞳を見開いた。
目の前の姿が揺らぎ、あの夜の庭園が脳裏に浮かぶ。
半年前、王が不可侵条約再締結の為にイスへ向かう、その前夜。春の祝祭を締めくくる夜に、同じように王の手がレオアリスの頭を撫ぜた。
それはレオアリスが最後に、この存在の前に、その剣士として在れた時間だった。
涙が、止めどなく落ちる。
この手は、過去のものだ。今、レオアリスの前に在るこの存在は。
(そうか)
結局自分にとって、この主の為に剣を顕す機会は、もうあのイスしかなかったのだ。
主がそれを、是としなかった。
もう、そこに戻ることはできない。
俯き、目を強く瞑る。
押し出された涙が頬を伝い、雫を落とす。雫は僅かに黄金の光を帯び、足元の草の上に砕けた。
『――ス』
『レオアリス』
遠く、微かに名前を呼ぶ声が掠める。
剣を呼ぶ。
自らの内にあるそれ。未だ主を持たない剣。
砕けた剣。
鳩尾が熱を持つ。
力なく下げていた右手が、ゆるく持ち上がり、鳩尾に触れた。
ふと――
レオアリスは自分の剣に、誰かの指先が触れたように感じて、鳩尾に視線を落とした。
剣を顕してはいない。
けれど微かに――、あの時、確かに、そこに触れた。
そこから零れた金色の光が、刀身を波紋のように広がった。温かく。
剣を、レオアリスの腕を伝い、胸の奥に落ちていった。
声が甦る。
それは本当の、王の声だ。
余りにも懐かしく、指先すら触れることも叶わず遠く、胸を締め付ける。
『――その刀身を曇らせる事無く、自ら光を纏う剣のようであれと願った』
王都の、庭園で。
レオアリスに名前を与えたことを語った、王の声。
『強く、清澄な光を纏う剣のようであれと――』
喉を塞ぐ塊の奥から、声を押し出す。
「――陛下……」
考える。
もうずっと、何度も、何度も、何度も――
あの時の王の言葉を。
その意味を。
『剣とは敵を切り裂くのみに非ず、そなたら剣士がこれまで心を以って示してきたように、誰かを、何かを護るものでもあろう。そしてまた、そなたが自らそうしてきたように、未来を切り拓くものでもある』
あの日、自分がイスに、王の傍に居られなかったことを。
考える。
かつて、その時、選択した全ての場面にもっと、より良い選択肢があったのではないか。
違う手段、違う意思、違う選択、違う道を選んでいれば、状況は違うものに、もっと良いものになっていたのではないか。
考える。
もし自分が。
もしあの時。
考える。
けれどそれは全て、終わったことだ。
通り過ぎてしまった。
どれほど悔やんでも時は巻き戻せず、選んだ道は戻れない。
『そなたは自ら切り拓き、ここに立った。この先迷う事もあろう。その時は、答えは常にそなた自身の中にあるのだと、思い出すと良い』
そうだ。
どれほど道を迷っても、違う道を辿っても、自分がきっと、必ず、あの存在の前に立ったように。
だから、今するべきは、新たな道を――何を今なすべきか考えた上で選ぶこと――
できるのはそれだけだ。
(――俺は)
『レオアリス』
王の声――
違う。
ファルシオンの声だ。
剣に触れる黄金の光は、僅かにその光を変えた。
まだ幼い、けれど、強く輝き始めた光。
向かう先を照らす、柔らかな澄んだ光――
「――殿下」
この戦いで、自らも戦場に行くと、ファルシオンはそう言った。
『自分だけ王都にいて――そんなの、総大将なんかじゃない。みなの力になれないのだ。私は、みなの力になりたい』
反対するレオアリスへ、ファルシオンはその幼い首をきっぱりと振った。
『私は、そなた達と共に行く。それが私の願いで、誇りなのだ』
黄金の瞳が内側から光を滲ませていた。
『私を認めてほしい』
輝く光。そこに宿る意志。
幼い身で重責を背負い、王の――父のいない国を背負い、悲しみと苦しみを心の中に抑え、それでも瞳を前へ向けようとしていた。
だからレオアリスは、約束したのだ。
戦場で、万が一、危険が迫った場合は、自分を呼んで欲しいと。
必ず行くと、そう誓った。
レオアリスの前に立つ王の姿が、二重にずれる。
その黄金の瞳は、レオアリスへと向けられている。
黄金の光だけを残し、姿を変える。
幼く、まだ頼りなく、それでも凛とした姿へ。
「レオアリス――」
呼ぶ声が聞こえる。
王の静謐さと深い智慧を湛えた確固たる光とは異なる、どこか不安定な光。
追い求める光ではなく、消えないように守らなければならないもの。
身体の中で温かい光が広がる。
それはファルシオンが放った金色の光だと解る。
「――ボードヴィルへ」
ナジャルの吐き出した影――海皇はファルシオンを取り込み、自らの形を、欲望を、取り戻そうとしている。
それだけはさせられない。もう二度と、同じ後悔をするつもりはない。
身体の奥底で、砕けて散っていた剣の欠片が、熱を帯びた。
身体を裂く痛みを伴い、一つに寄り集まっていく。鳩尾へ。
目の前で、幼い王子の姿は再び形を変え、王のそれへと戻った。
それでも、もう解っている。
静かに、言葉を落とす。
「――貴方は、俺の剣の主じゃない――」
ただの影だ。もう王はいない。それをレオアリスは理解していた。
半年前、王がイスに赴いた日、右の剣が砕けた時から――
もう、王はいないことを。その前に立つことは、叶わないことを。それは、王自身の意志によるものだと。
『そなたの剣の一振りが、ファルシオンの為にあれば良いが――』
理解していた。ずっと。
左手を、鳩尾に当てる。
ずぶりと沈み、その手が剣を引き抜く。
青白い光を纏う、月の光に浸したような剣――。ゆっくりと息を吐く。
更に、右手を当てる。
沈めた指先が、それに触れた。
剣――王に捧げた、砕けた剣。
再び形を成したそれを掴み、引き抜く。溢れ出した青白い光が辺りを、夜に落ちる月の光に似て煌々と染めた。
新たなその剣は、たった今鍛え上げたかのような澄んだ光を帯びていた。
剣身に、青い光が爆ぜる。
二振りの剣が青く輝く。
剣は青白い光の筋を引き、流れた。束の間、無音がそこに生じる。
二つの光が、王の身体を断つ。
一度震え、断たれた身体は青い光の中に溶けるように消えた。
それだけだ。
ただ、それだけで、そこに既に王の姿は無く、辺りには静寂だけが満ちた。
両手の剣を下げ、ゆっくりと息を吐く。
膝を落とし、俯いた。二つの剣は青く、澄んで、輝いている。
食い縛った歯の奥から、堪え切れず呻きが洩れる。
「――ッ、う……」
嵐のような感情が渦を巻き、吹き上がる。
レオアリスは喉を反らし、肺の奥から迸り出るような、嗚咽に似た叫び声を上げた。
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