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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

六十四


 ゆっくりと、海の中を落ちていく。
 深く。


(戻る――)
 そうだ。ファルシオンのもとへ、戻らなくては。
 近衛師団へ。またあの場所へ。隊士達。グランスレイと、フレイザー、クライフ、ヴィルトール、ロットバルト。
 アスタロトも心配している。怒るのかもしれない。
 北の辺境の、小さな村へは、もうずいぶん戻っていない。祖父達はどうしているだろう。
 まだこれから、やらなくてはならないことは、たくさんある。
(――殿下)
 ファルシオンを、支えたい。
 幼いあの存在を。まだ支えが必要だ。
 それでももう身体が動かない。感覚もなく、指を動かすのすら困難だった。
 導く剣もない。


 戻りたいと願い――、それを為せないことは、もどかしく、ただ、これまで積み重ねたことに後悔はなかった。
 自分が今できることを全て、やったのだから。
 ナジャルを倒せた。戦いは終わりだ。終わらせることができた。
(なら、いい――)
 感覚は薄れていく。意識も。



 ゆっくりと、身体は落ちていく。
 その先、深い深いそこに、黄金の光があった。
 輝く光は、黄金の球体を中心にどこまでも広がり、澄んで、この深く暗い世界を煌々と照らすようだ。
 光の中に立ち――王は、落ちてくるレオアリスの姿を見上げた。
 両腕を広げ、その身体を受け止める。
 黄金の光がレオアリスの身体を包む。頬に落ちかかるその光に、レオアリスはうっすらと目蓋を上げた。
 驚きが黒い瞳を彩る。
 そして、喜びと。
「陛、下――」
「仕方のない奴だ」
 王は微かに笑みを刷いた。
 深く、温かな笑みだ。
「そなたがここへ来ることのないようにと、願っていたのだが――」
 レオアリスは口を開き、けれど一言も言葉を見つけられず、瞳を閉じた。
 暖かな金色の光が身を包み込むのを感じる。
 失ったはずの剣が確かに、震え、喜びを伝えた。
 レオアリスは静かに、緩やかに、息を吐いた。






 黒く深い森は、冬へ向かう季節の中、いく種類かの木々の枝が葉を散らし始めていた。
 空気は冷え始め、もう数日もすれば雪が降るのだろう。
 黒森の入り口付近の村の、茅葺の小さな家の囲炉裏に座り、カイルは灰の中に赤く筋を浮かべた墨をただ見つめていた。
 外に音はなく、梟の声ももう止んでいる。そろそろ夜が明ける。
 ふと、カイルは顔を上げた。小さな声が聞こえたからだ。
 胡座をかいた膝の上へ、黒い鳥が降りた。彼等の養い子に、もう五年も前に託した伝令使――
「カイ――」
 黒い羽毛に埋もれた目を見開く。
 カイが伝言を持ってきたのではないのだと、漠然と解った。
 戻って来たのだ。独りで。
「レオアリスはどうしたのだ、カイ。あの子は――」
 何かを訴えるようにカイルの手へ頭を擦り寄せ、黒い鳥は小さな声で鳴いた。
 カイルは震える手でその羽根に触れ、喉に詰まった声を、呻くように押し出した。
「あの子は」






 地平から、空へと太陽が昇っていく。
 東の果て、ミストラ山脈の影を越え、世界に新たな光が差す。
 王都を照らし、大地を蛇行するシメノスの河面を東から輝かせながら、サランセラム丘陵を、ボードヴィルを染め、そして南西フィオリ・アル・レガージュに至る。
 暗い海面を揺蕩わせていた海は、最初の一筋の陽の光を受けて青く、濃く、輝き始めた。
 その上で空は青く澄み渡り、深い海の中さえも、輝きで満たしていく。
 長い夜が明ける。
 世界は新たな、そして昨日から今日へと連綿と続く営みを、変わらず巡らせていく。














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2021.8.29
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