六十三
ファルシオンは椅子に腰掛け、じっと息を詰めるように窓の外を見つめていた。
西の空を。
室内にはタウゼンとセルファン、そしてランドリー、ミラーの方面将軍の内の二人が控えている。
フィオリ・アル・レガージュの戦いがどうなっているのか、ファルシオンには追うことはできなかった。
願うだけ。
勝って戻ってきて欲しいと、願うだけだ。
ふと、瞳を瞬かせた。
身体の周りが温かい。
蝋燭の明かりが僅かに揺れる暗い室内に座っていたはずが、いつの間にか、辺りは白く染まっていた。
夜が明けたのかと思ったが、違う。
白い光と、それから揺らぐ金の光彩が混じる空間――どこまでも広く、何も無い、境いすら無い空間にファルシオンはいた。
彷徨わせた瞳にただ一つ、人影が映る。
身体が――震えた。
束の間思考さえ白く染まり、それから押し出すような呟きが零れた。
「――父、上……」
父王の姿だ。紛れもなく。七か月前、あの王城の朝、別れた懐かしい父の姿。
駆け寄りたい。
けれど、身体が動かない。
ファルシオンの焦れる心を読み取ったかのように、王はゆっくりと、ファルシオンの前へと歩み寄った。
伸ばされた手がファルシオンの頭に触れる。息を詰める。
その手のひらの温かさ。大きさ。
「父上……」
穏やかな眼差しと、父の膝の上から見上げるファルシオンにしか映らない笑み。
もう一度、その膝の上に乗せて欲しい。
手のひらは温かく、そしてファルシオンからは掴めなかった。それでも何度も実態のないその手を掴む。何度も。
「は、母上と、姉上が、お待ちです――帰ってきてください」
鼻の奥がつんとして、涙がぼろぼろと零れる。
「父上――どうか、帰ってきてください」
掴めない。
掴みたいのに。
「父上、どうか」
「ファルシオン」
はっきりと、声は耳に届いた。まるで本当に父がそこに居るかのように。
「そなたは成長した。そしてこれからも一歩ずつ、成長していく」
「父上」
「そなたを誇りに思う」
首を振る。
父の元、父の前で成長したかった。
一つ一つ、いろんなことを教えて欲しかった。
「その姿を見られないことだけが、残念だ」
父王の姿はそこにあるのに、ひどく遠く感じた。
もう消えてしまう。
ファルシオンの前から。
本当にこれで、最後なのだ。
言葉を発したくても、喉の奥に熱い塊がつまって、声が出なかった。
懸命に、握れない手を握る。
伝えなくては。
「わ、わたしは、父上の子だから――」
だから、安心してくれるだろうか。
見守っていてくれるだろうか。
ずっと。
もう一つ、言わなくてはならないと、そんな想いがふいに湧き上がる。
その言葉も掴めないままに、ただ紡ぐ。
「父上、レオアリスを――」
何を言おうとしたのか、その先の言葉は出てこなかった。
レオアリスについて、何が言いたかったのか、それも判らない。
ただ、最後に見た、父の瞳、その笑みが。
「殿下」
はっと顔を上げる。ファルシオンは瞳を瞬かせた。涙が零れ、頬を雫が転がる。
セルファンが覗き込んでいる。
「どこか、お辛いところが」
もとの部屋だ。セルファンがいて、タウゼンがいて、それからランドリー、ミラーがいる。
涙は流れたまま、それでも父王の姿はどこにもなかった。
「だいじょうぶ」
手の甲で涙を拭い、ファルシオンは首を振った。
羽ばたきの音が室内を叩く。
タウゼンの前の小さな卓に降り立ったのは、白頭鷲の伝令使だ。フィオリ・アル・レガージュから戻った――。室内の視線が集まる。空気が張り詰めた。
白頭鷲は嘴を開き、やや軋んだ声で一言、告げた。
『倒した』
声にはアスタロトのそれの響きがある。
ランドリーとミラーが思わず踏み出し、数歩近寄って足を止める。
ファルシオンは椅子から跳ねるように立ち上がり、顔をさっと輝かせた。
「倒した……」
言葉を探し、それからもう一度、繰り返す。
「倒したのだな、ナジャルを――」
その報せをただずっと待っていて、それでもその報せを現実に聞くと、まるで夢を見ているように思えた。
それでも、だからこそ、たった今父王が、ファルシオンの前に現われたのだと。
間違いなく、勝ったのだ――
戦いは終わった。
ようやく。
「城内と、王都に、報せを」
震える声で言い、だが伝令使の続く言葉が無いことに気づき、ファルシオンはもう一度白頭鷲を見つめた。
アスタロトの声は、その次を告げなかった。伝令使は黙している。
“倒した”
耳に引っかかるような、硬い声だった。
ファルシオンは急に不安を覚え、タウゼンを見上げた。
タウゼンが伝令使の嘴に指先を当てる。
「公――」
ファルシオンは無意識に、首から掛けていた青い石を掴んだ。
「詳細を、お教え願います」
届いた勝利の報せは伝令の兵により砦城内を次々と伝わり、満ちる騒めきは次第に大きくなった。喜びが沸き起こる。
室内も、中庭も、そして城壁の上も。
クライフとワッツが肩を並べ、城壁から身を乗り出すように西を見つめる。
眠るレーヴァレインの傍らで、ティルファングは重い身を起こした。
中庭でプラドと、寄り添ったティエラが空を見上げる。
王都、十四侯の協議の場にも報せは届いた。
この上ない喜び、安堵と――そこに落ちた影も。
硬い木の背凭れが床にぶつかる音は、楕円の卓を置いた広い謁見の間の、静まり返った空気を更に張り詰めさせた。
スランザールが重い視線を上げる。
この戦いの為に用意し、組み上げた一つ一つの手、そしてそれらを切る手順は、予定していた流れを踏んでいた。そして、そのほとんどが予定していた通りに展開、機能した。
だからこそ、この戦いに勝てた――
スランザールは卓に視線を落とし、零れようとする息を肺の奥に押し込んだ。
ロットバルトは椅子を倒したことにも気付かず、蒼い双眸を見開き、立ち尽くしていた。
ボードヴィル砦城に立ち昇る歓声が、窓の外に満ちている。
ファルシオンは手のひらに、冷たい、色褪せた青い石を固く、いつまでも握りしめていた。
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