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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

六十二


 水都バージェス前面の沖に、小山のような黒い影が浮かんでいる。
 西海の皇都イス――七か月前、海を割り浮上したその都は、アレウス国王都アル・ディ・シウムをそのまま写し取ったかのような姿で、まだ暗い海と空をその一角だけ更に黒く染めていた。
 街には窓の灯りも住民の影一つもなく、空気が張りつくように澱み、生気がまるで感じられず廃墟に見えた。
 虚ろな影のような。



 山頂に聳える城の内部もまた、灯り一つなく、地上と同じ空気に満ちていながら重く澱んでいる。
 城門、庭、城の大扉と広間。広い階段。城内を巡る廊下。
 謁見の間――
 泥の中で泡が弾けるような、そして泥を引き摺るような、湿った音が謁見の間にこごった空気を揺らした。
 ずるりと音を引いて這う。
 高い窓だけが、遠い空の星と月の、微かな光源にぼんやりと照らされ、謁見の間は夜よりも暗い。
 その床を、ずるりと這う。
 黒い塊があった。蠢いている。
 大きさは大人が両手を伸ばしたほど――良く見れば人に似た形をしている。湿った音を立てて這う度に、黒い粘り気のある欠片が後に残され、そしてまた寄り集まる。ぶつぶつと、小さな音を立てている。
 焦ったいほどの動きで、扉から最奥のきざはしまで、真っ直ぐに敷かれた黒い絨毯の上を進んで行く。
 その先にあるのは玉座だ。海皇が座し、そして海皇の影が座していた。
 近付くごとに、黒い塊はそれでも少しずつ、その形を増した。
 ぶつぶつと、泡が弾ける音か、それとも呟きか――呪詛か。塊が増すにつれ、絶えず流れるそれも次第に明瞭になった。
『――へ』
『ゆ……ぬ』
『贄……』
『認めぬ』
『贄を』
『許さぬ』
『地上へ』
『糧を』
『生命を』
『死を』
『贄を』『命を』
『死を』『糧を』『生命を』『死を』『贄を』『命を』
『死を』『糧を』『生を』『死を』『贄を』『生命を』『死を』『糧を』『命を』『死を』『糧を』『生命を』『死を』『贄を』『命を』
『戻る――』


『浅ましいことだ』
 きざはしの上、それまで闇に沈んでいた玉座から、低く掠れた声と共に影が一つ、ゆるりと身を起こした。
『待っていたぞ――海皇。貴様はここへ戻るだろうと、そう踏んでいた』
 身を起こしたのは西海第三軍将軍、ヴォダだ。
 全身傷を負い、左肘から先を失った。血は流れ過ぎた。
 シメノスの流れに飲まれた身体は、とっくに限界を迎えているはずだった。
 だがこのイスへ戻った。
『俺も貴様も、いい加減、互いの役割を果たすべきだ』
 ヴォダは肘置きに手をつき、身を押し上げるように立ち上がった。その手に剣を抜く。
 階を降りる。
 黒い塊は階を這い上がる。
 二人の距離はゆっくりと近付いた。
 一間。
 黒い塊が身を震わせ、その背から数十の触手が突き出す。
 ヴォダが手にした剣が閃く。
 紙の如く触手が散る。
 黒い塊の首らしき位置を断ち、返す一振りで胴を縦に割った。
 ヴォダは踏み出しながら剣を逆手に取り、一息に、塊の頭蓋に切先を突き立てた。




 レイラジェは黒い絨毯を踏み、謁見の間を歩いた。
 視線を上げ、ぼんやりと浮かぶ玉座と、きざはしの半ばに墓標の如く突き立っている、一本の長剣を捉える。
 剣の立つ床には黒い染みが滲み、だが空気に晒されて解けるように消えて行く。
 剣の前に足を止め、レイラジェは階の上を見上げた。
『玉座は要らぬのか』
 影になった階の上段、玉座まであと二段のところに、ヴォダが腰掛けている。
 右腕は膝に置き身体を支え、首だけを起こし、ヴォダはくぐもった声で嗤った。
『玉座だと?』
 辛うじて首を動かし、ヴォダは視線を背後へ投げた。
 せせら笑う。
『玉座などに何の魅力も感じない。座ってみたが――ただの重荷だ。背負うことを考えるだけでもうんざりする』
 立ち上がり、ぎこちない動きできざはしを降りる。
 ヴォダは剣の横を過ぎ、レイラジェの横を過ぎた。
『貴様にくれてやる』
『私も要らぬ』
 同時に、レイラジェの背に現われ浮かんだ無数の矛が回転し、玉座に突き立った。
 玉座は飴細工のように脆く崩れ、欠片が一つ、階の段を跳ねながらレイラジェの足元に転がった。
 矛が消える。
『貴様も、臆病者だな――』
 ヴォダは再びせせら笑い、そのまま身体は崩れ落ち、数段を滑って、事切れた。






 海水が柔らかく流れる。空を吹き抜ける風のように。
 輝く泡の中に白い姿を象る。
 肩口までの柔らかな髪、煙る暁に染めた瞳。やや伏せていた面を持ち上げる。
 唇は花が綻ぶように、笑みを零した。
 白く細い手を伸ばす。輝く泡の中から応えるように伸ばされた手が、その手を取った。
 微笑みを返すのは一人の青年――長い銀の髪と、穏やかな瞳、面差し。
 二人は互いの手を互いに包み、身体を寄せ、向かい合った。
 額を寄せて、微笑む。
 泡は一際輝き、弾け、二人の姿をその輝きの中に包み込んだ。







 ボードヴィルの城壁には篝火が揺れ、砦城は無事に残った窓という窓に灯りが灯っていた。
 城内は負傷者の搬送や救護のため、身体の動く兵達は慌ただしく立ち働き、声を交わし合う。
 ワッツもまた身体の動く限り、兵達の間を動き回り声をかけ、指示を出した。瓦礫を退け、負傷者を抱えて運び、そして注意を怠らずサランセラム丘陵やシメノス、対岸を睨む。
 城壁に寄りかかりワッツ同様指示を出しているクライフの姿を認め、ワッツは一度足を止めた。
 互いに目を見交わし、ただ、言葉は発しなかった。もう待つだけだからだ。
 吉報を。このボードヴィルでファルシオンと共に、彼等を迎えることを。




 城内に運び込まれたアルジマールは、横たえられたばかりの寝台で無理矢理身を起こした。誰かの制止の声。
 皮膚が裂けた両腕に手早く巻かれただけの包帯には血が滲み、自らくり抜いた両眼は固く塞がったままだ。
 それでも、直感的に感じ取ったものがある。重苦しかった空気が、俄かに軽くなったかのような――
 万感の想いを込め、吐き出す。
 全身を覆う疲労と軋みも、数日間の法陣敷設も、底をついた法力の蓄えも、全て報われた。
「倒した――」










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2021.8.29
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