六十一
一直線に断たれたナジャルの身体が、その長大な蛇体全体に皹を走らせ、ぼろぼろと端から崩れていく。
ナジャルの欠片は海へ落ち、波と混じり合い溶け、泡となって広がった。
泡の一粒一粒が、淡い光を含み、海を染めていく。
海中も、海上も――、束の間の曙光のように、白く染まった。
海へと還る。
「戻って来い――!」
カラヴィアスは舷縁に手を掛けた。飛び込みかけたカラヴィアスの腕を、トールゲインが掴む。
「長」
その眼差しを受け、カラヴィアスはぐっと言葉を呑み込んだ。
「レガージュの港に戻り、貴方の果たす役目があります。貴方しか――」
「――」
カラヴィアスは甲板の上を見た。
横たわるザインの亡骸を。
フィオリ・アル・レガージュの港には、ザインの娘、ユージュが待っている。ザインが帰るのを。
「貴方に負わせることを、お許しください」
指先が掴んだ舷縁を軋ませ、緩む。
「――初めて、会うんだったな」
カラヴィアスは小さく呟いた。
「レオアリス!」
首まで海に浸かり、際限なく湧き上がるどこか温かい光に包まれながら、何度となく、アスタロトは声を枯らして名を呼んだ。叫ぶ度、口元まで波が被る。
咽せ込み、それも構わず首を巡らせて姿を懸命に探した。
上がってくるはずだ。どこかに。
ナジャルはもう倒したのだから。
「レオアリス――!」
船団の男達やマリ海軍兵士が海中から浮かんでは、息を継いでまた潜る。その繰り返し。西海兵の姿も混じっている。
彼等ならきっと、海の中から連れ戻してくれるはずだ。アスタロトは必死に辺りを見回した。
誰かがアスタロトへと近付き、船上へと引き上げる。もうアスタロトには海へ戻ろうと足掻く体力もなく、それでも視線だけは片時も海面から離さなかった。
光に透けるような海面。
ほんの少し前までの激しさなど、まるで無い。
「戻ってくる――絶対――」
海の上に広がる光、そして海の中から磨り硝子の奥の灯火に似て輝く光が、急な斜面に連なるフィオリ・アル・レガージュの街を僅かに照らしていた。
明け方の太陽はまだ遠いにもかかわらず、夜に浮かび上がる街では人々の気配が慌ただしく動き始めている。
多くの人が港と坂をひっきりなしに行き来し、沖の戦いでの負傷者が港に運び込まれはじめ、妻や子供達、親、恋人、友人達が駆け寄って無事を喜び、或いは遺体に縋り付く。
その中でユージュは一人、桟橋の前に立ち尽くしていた。五基あった桟橋は西海軍との戦いで破壊され、海に沈んでいる。港にも、戦いの爪痕はまだ深く残っている。
それでも、終わった。
終わらせた。
(終わらせたんだ)
次第に近付いてくるレガージュ船団の船――船団長ファルカンのものではない。ファルカンの船はナジャルの尾を受けて沈み、司令船を移していた。
既に報せは受けていた。自身も大怪我を負った船団員の一人は、悔しさと傷ましさの入り混じった声でそのことを告げながらも、ユージュと視線を合わせておくことができず逸らした。
だが報せを聞くよりも――そして船団員の顔を見るよりも先に、ユージュ自身が理解していた。
ユージュの持つ剣が。
「父さん――」
それでもぼろぼろと、涙が抑えようもなく零れ、足元を濡らす。
あの船が着けばきっと、父はいつも通り港へ降りて来るのではないか。
それから、自分が呼びにいくまで、崖の上から海を見つめているのではないか――
声をかければきっと、振り向くのだ。笑って。
崩れていくナジャルの躯の、欠片のその一つ一つ――細胞の一つ一つから、光が生まれ無数の輝きとなって海の中を照らしている。
泡は揺れながらその無数の球面に影を映した。
かつて喰らわれた生命が、解き放たれて輝く。
海魔。西海兵。
そして正規軍の兵士達。
その身に溜め込まれ、どこにも行くことなく澱のように囚われていた命が、解放され、海に溶け、大気に溶けていく。
西の水平線近く、細い月が、海面から立ち昇る光に滲んでいた。
夜明けまであと二刻ほど、風は肌を冷やし、緩く、草原を吹き渡った。
正規軍西方軍と東方軍は、ボードヴィルより二里ほど北上したサランセラムの草原に天幕を張り、兵達を休めていた。
西方軍第五大隊大将ゲイツは天幕の中まんじりともせず、布をたくし上げたままの入口の、長方形に切り取られた暗い空をじっと見つめていた。
背後の東の空――王都では既に陽の兆しを含み始めているのだろうが、西の空はまだ黒々と沈んでいる。
そこに夜明けの光が届くのを――その瞬間を、ゲイツは待っていた。
勝利の報せを。
時折、頬を指先で撫でるのは、無意識の行為だ。
七月の戦いで、顔に刻まれた傷は既に馴染んだ。法術で傷を消そうとも思わない。
あの時、西海軍との戦いで命を落とした同僚と部下達への――、そしてヴァン・グレッグへの手向けとして。
一陣の風が天幕を鳴らして過ぎる。
西の、フィオリ・アル・レガージュでの戦いは、もう終わるはずだ。
ナジャルを跳ばし、剣士と、彼等の将軍アスタロトと、そしてゲイツには想像がつかなかったが、マリ海軍の軍船による砲撃と西海穏健派の有する戦力。
それらが全てが上手く組み合わされば。
不意に、天幕が強い風に煽られた。
天幕内にまで雪崩れ込んだ風がゲイツの目を一瞬、閉ざす。
ゲイツは目を開け――、そして思わず、腰を浮かせた。
長方形の天幕の入口が白く、光を含んでいる。
夜明けではない。太陽はまだ背後の東、地平の下だ。
知らず呻きが漏れる。
「ああ――」
膝を立てたまま、ゲイツは食い入るようにそれを見つめた。
天幕の外を揺れながら通り過ぎていくのは、兵列だ。数百、数千。
現実のものではないとすぐに解った。
白く、ぼんやりと光を帯びながら進む、無音の兵の、行進――
西から、東へと。
王都のある方角へと――
ゲイツは夢中で駆け出した。天幕を飛び出て辺りを見回す。
白い影は、見渡す限り数千人はいるだろうか。軍服の上に鎧を纏った兵士達一人一人が、彼等を乗せた騎馬が、霧が彫像を形作ったかのように白く浮かび、音もなく草を踏んで整然と進んで行く。
兵列の中、馬上に良く見知った姿を見つけ、ゲイツは手を伸ばした。
「ホフマン! グィード! ……ウィンスター……!」
第四大隊大将ホフマン、第六大隊のグィード。そして不可侵条約が破棄されたあの日、一里の控えの館で命を落とした第七大隊、ウィンスター。
誰もが皆、生前のままの姿だ。ナジャルが吐き出した冒涜的な形などではなく。
無言で、しかしどこか笑みを浮かべ、通り過ぎて行く。
王都へ。彼等の帰る場所へ。
皆。
「俺も――」
自分も、共に。
踏み出そうとしたゲイツへ、ホフマンが留めるように軽く剣を挙げ、グィードは髭を蓄えた口元を動かし鎧の胸を叩いてみせた。
ウィンスターは馬上で姿勢を崩さず、双眸をゲイツへ向ける。
通り過ぎる。
「待て……待ってくれ」
ゲイツははっとして、顔を巡らせた。
一頭の騎馬が兵列の後方から近付いて来る。
鞍の上の、堂々たる姿――
「……ヴァン・グレッグ閣下――!」
ヴァン・グレッグはゲイツの前に一度止まり、その引き締まった面に静かに笑みを浮かべた。
『ゲイツ――、――』
耳に届いたのか、ただ風の音か。
ゲイツは伸ばしかけていた手を、ゆるゆると下ろした。その腕を胸に当て、敬礼する。
目の前を、兵列は粛然と通り過ぎて行く。
ただ見送るゲイツの前で、辺りを埋めていた白く淡い光は、次第に、静かに薄れていった。
それはほんの、四半刻の間もなかっただろう。
後に残ったのは天幕の前に立つゲイツだけだ。
草原には身体を休める兵達と点在する天幕、騎馬の姿のみ。
兵列も、そしてヴァン・グレッグ等の姿も、彼等の名残さえもそこには無かった。
風が足元を抜け、枯れた草が微かな音を立てた。
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