六十
誰かが、重い海水の向こうを指さした。
レオアリスは朦朧と落ちかかる意識の中、視線を向けた。
喰らい付くナジャルの頭の向こうだ。
誰かが立っている。
一人。
その姿は初め、見知らぬ銀色の髪の、穏やかな空気を纏う青年だった。
変わる。
良く知った、風にように軽やかで、少女のような女性の姿。
(ルシファー……)
変わる。
見知らぬ女性。それから、ザインの姿。
指差している。
変わる。
叡智と静謐を湛えた、黄金の瞳。
「――陛、下……」
その指先が示す方向の、海水が動く。
暗闇の先、霞んだ目に光が見えた。
それは黒い塊の如き水の向こう――膨大な、重い水を押し分けながら、ゆっくりとこの場へ近付いてくる。
その姿を見るのは初めてだった。けれどそれが何か、良くわかる。
この海を戦いの場とした、もう一つの、そして最後の要素。
それは白く巨大な、優美な鯨――
全長二百間(約600m)を誇る、西海第二軍の移動要塞、ファロスファレナ。
『ファロスファレナ……』
ナジャルの声に驚きが滲む。けれどそれは僅かな間だった。
『だがその姿で何ができる』
ファロスファレナ最大の武器である水流波は既に機能しないはずだ。
外郭をギヨールとの戦いで脱ぎ捨てた。
内郭剥き出しの姿では、水流波を放てば自らの振動でファロスファレナそのものが崩壊する。
『ただこの我の糧となりに来たか――』
嘲笑が海水を震わせる。
レイラジェはファロスファレナの上部に張り出した物見台に立ち、暗い海の先に浮かぶナジャルの姿を見据えた。
振動と水圧から自らを守る外郭がなければ、水流波を放てば致命的な損傷を受ける。
それは百も承知だ。
『今更惜しむと思うか――勝利を目前にしているというのに?』
長く、求め、そして自ら踏み出すことを躊躇っていた。
『灯台鯨――この名の通り、暗い海を照らす導となろう』
レイラジェは肩より上にあげていた右手を、下ろした。
『放て』
副官ミュイルが喉を張り、復唱する。
ファロスファレナの基幹部――鯨の背骨に当たる中心に置かれた緑の光球が輝く。
白い鯨が身を揺する。二百間もの躯の周囲の水が振動した。
分厚い水を貫いて走る。前方に身をくねらせるナジャルへ――
同時にファロスファレナは、彼等の軍都であり二万もの住民達を育む揺り籠でもある街は、自らの振動により後方からゆっくりと、崩壊した。
激しい振動と水流がナジャルの躯を捉え、打ち、捻る。
結合しかけていた身の、右半分がその根本からぼろりと崩れた。
下半身、そして残った左上半身が、苦痛と怒りに身をくねらせる。
『おのれ――』
レオアリスは身を捩らせたナジャルの牙から解かれ、放り出され、海中に漂った。右肩は半ば千切れている。
身を覆うアルジマールの防御壁が激しい水流を辛うじて防いでいたが、力を失った右手から、剣は零れた。光が消えていく。
身体が沈む。海の底へと。
ナジャルが海面へと、身をくねらせて伸びていく。既に死の両手にその身を掴まれながら、それでも貪欲に、海面の向こうにある生命の気配を追って。数多の生命による復活の為――
(――まだ)
終わっていない。
レオアリスは辛うじて光を残す剣へ、左手を伸ばした。
ナジャルの躯が海面を突き破り、身を空へと躍らせた。
損傷は激しく、止めどなく身体は崩れていく。ひとときも収まることのない苦痛。
『喰らって、取り戻せばよい』
全て。
地上の生命、全てがこの身の対価だ。
砕けて波間に漂う船、その乗り手達。剣士。炎を有する少女。
片眼を失い、残る左の眼も傷付きながらも、奥底から血が滲むように煌々と輝く。
海上の全ての生命はその赤い輝きに囚われ、石の如く動きを失った。
貪欲に湧き上がる喜び。悪意。
海上に動けるものはない。ファロスファレナは崩壊した。それも後で喰らう。
『我の――勝ちだ』
絶望を振り撒いて嗤う。
ナジャルの直下、黒い海面が、内側から青く輝いた。
押されるように盛り上がり、弾ける。
海面下から立ち上がった青い閃光が、空へ伸ばしていた蛇体を貫いた。
蛇体の中心から、輝く塊が剥き出しになる。
それは赤く、禍々しく、そして美しく光を放っている。
ナジャルの心臓。
二つに断たれ、崩れ、光の中に消える。
光はそのまま空へと走り、果てのない夜に吸い込まれ――
消えた。
アスタロトはまだ海に身を浸かりながら、ただその光景を見ていた。
ナジャルの身体が崩れ、幾つもの塊となり海へと落ちる。
高い飛沫を上げながら、欠片が次々と落ち、海面に沈んだ。
レオアリスの手の中で、剣は完全にその輝きを消した。
一つに合わさっていた剣が二振りに戻り、砕ける。
それを見ても、焦りも苦しみもなかった。
戦いは終わりだ。終わった。
ナジャルの欠片は泡と混じり合い、消えて行く。海に還っていくのだろう。今まで喰われた命もまた。
(――戻、る……)
戻らなくては。
戻って、守らなくては。
幼いファルシオン、そしてこの国を。
それがこの戦いの中で手にした、心の底からの願いだった。
平穏な国家とその為の体制の継続の為、人々の生活が続いていく為に、自分が今できることをしたい。
そしてその先、ファルシオンを支えていくことが、できるのであれば――
きっと王が自分を見出してくれたことが、間違いではなかったと思ってもらえる。
自分を慕ってくれるファルシオンにも、応えられるだろう。
伸ばした左手の、指の間、自らの剣が放った青い輝きは失せ、海面はもう見えない。
沈んでいく。
「レオアリス――!」
アスタロトは海中へと潜り、海の中を必死に視線を巡らせた。
いない。どこにも。浮かんでこない。
レガージュ船団の男達が、マリ海軍の水兵達が次々と海に潜っては、呼吸の続く限り海中を探る。ナジャルに砕かれた船から放り出された船団員達を一人一人、助け出していく。
「レオアリス!」
ナジャルの砕けた欠片が泡となり、海面に、そして海中に、光を投げかけている。
それでも、姿が見えない。
カラヴィアスは舷縁を掴み、意識を巡らせた。
剣の気配は僅かも触れず、舷縁に拳を叩きつける。
剣は砕けている。それははっきりと伝わった。
「――戻って来い……! せめてお前は――ッ」
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