五十八
レオアリスの剣を青い光が爆ぜて走る。
右前方にいたアスタロトは瞳を見開いてその光を見つめ、それから束ねた黒髪を背で跳ねさせ、真紅の瞳をナジャルへと据えた。数十もの炎の矢がアスタロトの周囲に生じ、揺れる。
火球砲に撃たれ長大な蛇体を軋ませるナジャルへ、炎の矢を放つ。
同時にレオアリスが足場を蹴る。カラヴィアスもまた足場に降り立ち、光る盤を踏んで宙を駆けた。
炎の矢がナジャルの蛇体に突き立つ。次々と――鱗を砕き、燃やす。
二つの青い剣、白熱する剣が左右から光の弧を描く。
既に六割方、鱗が爛れ捲れたナジャルの躯を炎が取り巻き、剣が裂く。
硝子を引っ掻くような苦鳴にも似た咆哮が空に響き、肌を震わせた。
螺旋状に伸びた光る盤が震え、皹を生じたかと思うと、砕けた。
足場を失う寸前身を蹴り上げ、レオアリスは再び短い術式を唱えた。視線の流れに沿って新たな足場が縦に、巨大な輪のように空に浮かぶ。
降り立ち、身を返す。カラヴィアスの設置した足場が横に二つの円を描き、レオアリスのそれと十字に交わる。
膝が落ちかかるのを堪え、踏み出す。
(攻撃を重ねろ――)
膝を落とすのは全て終わった後だ。剣に力を巡らせ、身体と気力を保たせろ。
ここで終わらせる為に。
右の剣が弧を描き、その回転を取り込んで左の剣を切り上げる。剣はナジャルの胴を捉え、だがまだ浅い。足場を蹴る。
身を捻り、交差させた剣を左右へ払う。二筋の剣光がナジャルの胴を裂く。足場を蹴り、身を縦に捻る。
ナジャルへ、炎の矢が降り注ぐ。レオアリスは空へと伸びる足場を駆け、斜め下のナジャルへ、身体を蹴り出した。落ちながら剣が大気を集め、光を帯びる。
青く爆ぜる剣がナジャルの胴を斜めに深く断った。
(届いてない)
骨までは。
だが炎に包まれ、裂傷を重ね、ナジャルの動きは重い。
「倒せる――」
「――躱せ!」
カラヴィアスの警告――
レオアリスは左斜め下の光る盤を蹴り、横に円を描く光る盤を疾駆した。そこにいたアスタロトを左腕に抱え、空へ身を蹴り出す。
ナジャルが限界まで撓めていた発条のように、爆発的に身を揺すった。
大気を叩き、押し上げ、長大な蛇体全体が嵐の如くのたうつ。
「レオ――!」
叫ぶアスタロトを更に抱え込み、衝撃を背で受ける。
避けようもなく、蛇体が身体を弾き上げた。
「ッ――」
全身が砕けそうに軋む。
落ちる。
「大将!」
掛かった声は海からだ。海に幾艘もの船が浮かんでいる。
「レガージュ船団――」
アスタロトを抱えたまま宙で躯を捻り、落下先を船上へと変える。
降り立った甲板で、レオアリスは体勢を崩し片膝を落とした。左手をつき崩れそうになる身体を支える。
「レオアリス!」
「平、気だ、ナジャルを――」
アスタロトは言葉を飲み込み、空を振り返ると同時に炎の矢を放った。数十、数百――空のナジャルへ突き刺さる。
「レオアリス殿!」
「……貴方は――」
空の熱から身を庇いながら甲板の上を駆け寄ったのは、レガージュ船団長ファルカンだ。
周囲に白い帆を張った船が何艘か見える。風を受け、帆が激しくはためいた。
「大将殿、指示を。うちの船は足が速い、足場は任せてくれ」
船は帆で風を掴み、ぐんと波を分け進んだ。
宙に浮いたナジャルの蛇体を、回り込むように帆走る。
視線の先、カラヴィアスが降りた船の上に、ザインの姿が見える。もう一人、ルベル・カリマのトールゲインという剣士も。
空を影が揺れる。
ナジャルは燃えながら、身を下ろしていく。海面へ。
海へ逃れるつもりだ。
「海へ入れさせるな!」
「止めろ!」
湧き起こる声と共に矢が、銛が、鉤をくくりつけた縄が船団の船から空へ走る。
アスタロトの炎の矢が追う。
沖の船団の司令艦甲板に立ち、隻眼に燃える蛇体を睨み据え、メネゼスが声を張り上げる。
「次弾急げ!」
再び火球砲が光り始める。
ナジャルの頭が海面へ辿り着き、沈んだ。
追おうとして甲板を踏んだレオアリスは、そのまま甲板に倒れた。膝に力が入らない。全身が痛みで軋む。
ナジャルの長い胴と、尾。
レオアリスの剣が断った断面を見せたまま、黒々とした海へ――
消える。
海面が一瞬、凪いだ。
「海に――」
船上は騒然となり、直後、恐ろしいほどの静寂に満ちた。
ナジャルが回復する。
海から生命を吸って――
「――ッ、まだだ! 海中で、戦えばいい……!」
膝を押さえ苦痛を噛み殺し、レオアリスは無理矢理身体を起こした。
舷縁を掴みかけた手が止まる。
視線の先で海面が膨れ上がり、海中に逃れたはずのナジャルの蛇体が飛沫を纏わせ、長い身をくねらせながら空へ駆け上がる。
受けた傷がその身に、消えることなく残っている。
「何だ――」
その身が空で、苦痛を表すように捩れた。
『馬鹿な――』
愕然とした声が降る。
『馬鹿な』
苦痛が滲む。
これまでに蛇体に受けた無数の裂傷、熱と焔で爛れた鱗――
膨大な海水はそれを包み込まず、激しい苦痛を与えた。
あたかも、海がナジャルの身を拒否したかのように。
ナジャルの存在、宿す力は海の如く計り知れず――だが決して、海そのものではない。
あくまでも、ナジャルもまた一個の生命でしかないのだと、その事実を厳然と突きつけるかのように。
『ならば、この海の上の命、全てを喰らうのみ――』
その命で回復する。
双眸が血の色に染まる。
呪縛――
瞬間、見上げていた者達はみな、身体の自由を奪われ、そして呼吸すら奪われた。
沖に並ぶマリ海軍艦隊から、火球砲の輝きが薄れていく。
ナジャルの尾が直下の一艘の船へ振り下ろされ、船は真っ二つに砕けた。レガージュ船団の男達が船から海へと落ちる。身体は硬直したまま悲鳴も無い。
尾が更に唸る。海面を叩き、身じろぎすら叶わない二艘の船を砕く。
海へばら撒かれる破片、人。
レオアリスは呪縛を解こうと全身の力を込めた。それすら、肺の中に残った僅かな酸素を奪っていく。
「――ッ」
視界が回る。呼吸は止められたままだ。
傍らで、アスタロトが甲板に崩れ落ちる。
(――動、け……ッ)
ナジャルの尾が、更にもう一艘を砕く。レオアリスのいる船の、左隣。
呪縛の中一歩、踏み出したのはカラヴィアスだ。
白熱した剣。身を包んで陽炎が立ち上がる。
だが、その一歩が激しく体力を消耗させているのがわかる。
「長――」
トールゲインが辛うじて手を上げ、カラヴィアスの左手首を掴んだ。
既にカラヴィアスの状態も限界に近い。筋肉は軋み、受けた裂傷が血を滴らせ、足元を染めている。
「それ以上は、命に」
「今、動くのが、肝要だ」
「しかし――」
視線の端、誰かが動く。
ザイン――自ら切り裂いたのか、左の二の腕から流れる血が駆け抜けた甲板に滴り落ちる。
「――ザイン!」
「トールゲイン殿、長を頼みます」
「ザイン! 待て!」
視線だけを向け、ザインはカラヴィアスを見た。
「最後まで、自分の望みばかりを言ってきた――」
姉さん、と。
「ザイン! この愚か者が……! 勝手ばかり許さんぞ!」
ザインは笑った。
「それでも俺は、満足している」
カラヴィアスからトールゲインへ視線を移し、甲板を蹴って舷縁に降り、身を蹴り上げる。追おうとしたカラヴィアスをトールゲインの手が引き戻す。
迫る尾へ、ザインは剣を跳ね上げた。鱗を削りながら弾く。
宙に残っていた光る足場を踏み、更に身を跳ね上げる。
足元に広がる海。
今、この海に在るのはレガージュ船団やマリ海軍の船、人びと、そして港から丘へと、斜面に連なり続く街――
「フィオリ――」
海の玄関口として栄えてきた、美しい街。門に刻まれた横顔。
自分に向けられた、かつての彼女の顔を覚えている。笑みも、声も。
出会えて、幸いだった。
何よりも。
三百年、この街を護り続けたことが誇りだ。
命を繋いだことが。
「もう君の傍に行くことも、許してくれるだろう」
ザインの剣が白く輝く。
『ザイン――』
怒りと、嗤い。
剣を振り下ろすザインを喰らおうと、ナジャルの顎が開く。
『我が糧となるがいい――そなたの主に会えるやもしれん』
「笑わせるな。フィオリはもう、そこには」
ザインの左足をナジャルの顎が捉える。ザインは自らの膝下を断ち、閉じた顎を右足で蹴った。
「いない――!」
ナジャルの右眼に、ザインの剣が深々と突き立つ。
軋る咆哮が大気を震わせ、周囲を圧していたナジャルの呪縛が、失せる。
「ザイン!」
ナジャルはザインの身体を空へ跳ね上げた。身体を追って顎が開く。
カラヴィアスの剣が白熱して輝く、寸前、振り下ろされたナジャルの尾がカラヴィアスの乗った船を砕いた。人も船の破片も構わず、そのまま薙ぎ払う。
ザインの身体をナジャルの顎が捉える。牙が腹部を貫いた。
ザインの右腕が上がり、ナジャルの上顎の肉と牙を断つ。
沖から放たれた火球砲が蛇体へと突き刺さる。
アスタロトの炎の矢が降り注ぐ。
その炎の中、光る盤がナジャルを二重に取り巻いた。カラヴィアスが駆け上がる。白熱した剣を薙ぎ、ザインの身体を貫く牙と下顎を斬り裂いた。
青白い光が爆ぜる。
レオアリスは光る盤を蹴り、頂点へと駆け上がった。
眼下に、炎を纏い身を捩るナジャルの蛇体がある。
カラヴィアスがザインの身体を抱え、足場を蹴って離れるのが見えた。その剣からは既に光が失われている。
「――」
奥歯を噛み締める。
レオアリスが成すべきこと――
二つの剣を、身体の前に掲げる。
ナジャルを倒すこと、この戦いに勝つことだけではない。
自らに課した、この剣が果たすべきもの。
『剣とは――』
いつかの、王城の庭園。
黄金の光。
『剣とは敵を切り裂くのみに非ず、そなたら剣士がこれまで心を以って示してきたように、誰かを、何かを護るものでもあろう』
『そしてまた、そなたが自らそうしてきたように、未来を切り拓くものでもある』
激しく、青く爆ぜていた光が、収まる。
剣が光を放つのではなく、光を収斂していく。
一つに。
レオアリスは剣へ手を伸ばした。
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