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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

五十七



 法陣が、歪む。
 転位の陣から空に架かった夜の虹。その虹が。
「レオアリス、虹が――」
 アスタロトが示した空の中、南を――アルケサスを指すはずだった転位の方向が、変わる。
 西へ。
 ナジャルが捻じ曲げた。
 行き着く先は間違いなく、西海だ。
 乾いた音に転じた視線が倒れた白木の杖を捉えた。灰色の法衣に身を包んだ小柄な身体が両膝を落とす。
「アルジマール!」
 駆け寄ろうとしたアスタロトは、虹色の壁に阻まれ両手をついた。
 倒れ込むアルジマールを嘲り、嗤いが虹の中に渦を巻く。
『残念であった。漸くここまで来たものを』
 身体を浮遊感が取り巻き、レオアリスは両手の剣を握った。転位する――ナジャルと共に。
 アスタロトが身構え、カラヴィアスが瞳を細める。
 周囲の景色が流れる。レオアリスは急速に移ろう景色の最後に、ファルシオンをもう一度見上げた。
 不安と信頼の入り混じった幼い面をこわばらせ、ファルシオンは右手を伸ばした。
 その姿へ笑みを返す。
 ファルシオンの姿が――、対岸のボードヴィルの灯が、そして暗い大地が消え、まだ明けぬ暗い空に瞬いていた星の位置が、変わる。
 目の前に広がるのは暗い海――




 広大な黒い海原の、上空の大気が歪む。
 一点、輝いた虹色の光点が、次いで紅蓮の焔を吹き出し、瞬く間に空を照らし虹をかけた。
 大気が重く歪み、ナジャルの蛇体が出現する。
 海面との距離は、ナジャルが一つ身を伸ばせば埋まる。
 虹は淡く溶け、消えていく。
 嘲笑が海の波と共に揺れ、砕ける。
 無為に死地に飛び込んだ三人、そして結局は徒労に終わった法術。
 それら全てを嗤う。
『せっかく積み重ねて目指した結末を、あっさりと変えられた気分はどうかね』




「変えた――?」
 枯れ、戦いに掘り起こされた地面の土ごと、アルジマールの手が白木の杖を掴む。
「本当に僕の虹は、アルケサスに、向いていたかな」
 身体は動かない。
 地面に倒れたまま、アルジマールは顎だけを僅かに持ち上げ、笑った。
「違うよ――そこは僕が、指定した・・・・
 ナジャルが転位の先を西海へと捻じ曲げようとすることは、想定していた。ナジャルならばそれを可能にするだろうとも。
 法陣の出口にアルケサスを指定したのは、有利に戦えるからではない。
 初めの捕縛陣と転位陣が破られるのも、敢えて看過した。
「変えさせる、ためだ――」
 不利な状態に置かれるナジャルが、転位を捻じ曲げる。
 その力を利用する。
 転位を捻じ曲げさせることで、ナジャルの力を少しでも削る為。
 そして、本来の意図・・・・・を隠し切り、その場所に跳ばす為に。
「転位先は西の海だよ。でも、貴方の希望とは、ちょっと違う……残念だね」
 白木の杖を掴む手に力を込める。
 もう一つだけ――枯れた力の僅かな欠片だが。
 短く、術式を口ずさむ。
 杖が抱く虹色の宝玉が最後の輝きを放ち、砕けた。
「防御陣と――」
 これから最後の戦いに臨む、彼等に。





 焔に灼かれ爛れた鱗を零しながら、ナジャルは海面へと長大な蛇体をくねらせた。
 海に入れば、そこはナジャルの世界だ。幾らでも力を吸い上げられる。
 結末を確信し、海面に向けられていた赤い双眸を、強い光が射った。
『何――』
 沖に一点――、いや、海面横一列に、数十の光点が輝いている。
 それは一斉に光条を伸ばした。遅れて大気を叩く音が炸裂する。
 ナジャルは己の思い違いに気付いた。
 双眸が驚きと共に、沖合い一列に並んだ船団を捉える。
 西海のものではない。
 人の世界のもの――マリ海軍の艦隊。
 その船腹から放たれた火球砲の光条。
『アル・レガージュ――!』
 数十の光条は、一直線に、未だ紅蓮の焔に包まれたままのナジャルの蛇体へと、突き刺さった。
 紅蓮の焔によって焼け爛れた鱗を裂き、肉を焼く。
 転位したのは西海ではなく、フィオリ・アル・レガージュ――背後に黒く沈み、一つの灯りもない街の影。
『おお――』
 くぐもった呻きを零す。
 自らの身体が、深い損傷を受けている。
 こんなことはかつて有り得なかった。
 古来からこれまで、どんな瞬間にも。
『あの法術士――いや……』
 それだけではない。
 剣士達の剣、積み重なってきた一つ一つの損傷。
 身を灼いた赤竜の焔。
 そして人の火。
 燃える。
 鱗の一枚一枚、その下の肉。四十間に渡る長大な躯が。




 ナジャルを、レガージュ沖に転位させた、と――
 その一報はボードヴィルのタウゼンより、王都、十四侯の場に届いた。
 時刻は既に夜明け前の三刻を回り、だが深夜にも関わらず十四侯全てが顔を揃え、楕円の卓を囲んでいた。耳にした報せに誰もがやや興奮気味に言葉を交わす。
「さすがはアルジマール殿だ――」
「これで最後になってくれれば」
「終わるはずだ。我らの意図通り、事を運ぶことができているのだから」
 ランゲが低く言う。
「しかし油断はできまい」
 ゴドフリーは室内を淡く照らす蝋燭の光を見つめた。
 夜明けまでの間の夜を照らす、一つ一つは小さくすぐに吹き消されるそれ。
「共に跳んだのはレオアリス殿とルベル・カリマの長――」
「アスタロト公爵、いや、将軍閣下もだ」
 ソーントンの声はややしゃがれ、だが信頼を含み明瞭に響いた。
 騒めきの中、スランザール、ベールが黙したまま視線を合わせる。
 その傍らでロットバルトは、卓上の白頭鷲を戦いの帰趨を測るように見据えた。


 この盤面に叶う限り全ての要素、駒が揃うと、そう確信できたのはいつか。
 レガージュの火急の時に駆け付けたマリ海軍の存在。
 西海穏健派との和平への流れ。
 ルベル・カリマのカラヴィアスがこの城を訪れた時。
 剣士の二氏族、これまで断絶していた南のルベル・カリマと、存在すら把握されていなかった西のベンダバール。
 メネゼス艦隊は、三月の事件の折よりも増強され、火球砲も砲門数そのものも増強、増設されている。
 ナジャルの膨大な力を削り、打ち破る――おそらくこれが最後の機会となる。
 この機を逸すれば、これほどの戦力が揃う機会は以降、手にできないないだろう。
 ナジャルはこの一つ一つをただ喰らい、消費していく。
 今日、レガージュで全てに決着を着ける。
 白頭鷲の瞳が、蝋燭の灯りを淡く弾く。鈍い金。
「あの場の戦いが――」
 それは祈りであり――




 そして断固たる決意。
「最後だ」
 レオアリスの双眸に、空で燃えるナジャルの蛇体が映る。
 落下する身体をいつの間にか、虹色の光が包んでいる。アルジマールの法術によるそれ。ごく薄いそれは防御壁――膜という表現が適している。大気を炙る周囲の熱を、一切寄せ付けていない。
 レオアリスは剣の感触を確かめた。
 アルジマールの法術がもたらした回復も完全ではなく、長くは持たない。
 それでも、これと同じ機会はもう二度と訪れない。
 ここでナジャルを逃せば、手の届かない膨大な海水の砦の奥で力を蓄え、再び現われた時、その奈落に全てを喰らい落とし込むだろう。
固定ゼッテ
 視線を向ける限り、螺旋のように足場が生まれる。その一つに降りる。
 防御壁と共にアルジマールが整えた戦いの場・・・・だ。だがもう、アルジマールからの援護は困難だった。彼との間に横たわる距離による理由だけではなく。
 あとは自分達が役割を果たすだけ。
「ここで――今日、ナジャルを倒す」











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2021.8.15
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