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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

五十四



 プラドを抱えたまま、右腕一本でティエラは岸壁にぶら下がった。
 足場を探して彷徨わせた靴先が、壁の突起に掛かる。力を込めた瞬間、狭く張り出していた岩は脆く崩れた。
 辛うじて指先で支え、ティエラはぎゅっと薄い唇を噛み締めた。足元は遥か下、十間(約30m)もの高さがあり、岸壁の底、夜の中でシメノスの流れは黒く沈んでいる。
 水に落ちればいいが、河岸は昼の戦いで崩れた岸壁や堰の残骸が転がっているはずだ。
 抱えたプラドへ視線を落とす。呼吸は抑えられているものの、剣が半ばから折れた影響がプラドにとってどうあるのか、明かりの乏しい状況では見て取れない。
 心臓が煩く跳ねる。
 こんな時、どうすればいいのか。早く治療をしたい。どんな治療ならいいのか。
 間に合うだろうか。
(――間に合う……!)
 岸壁の縁を掴んだ指先、そして腕が震えている。感覚が薄れ、もう長くは保たない。
 ティエラは細く長く息を吐いた。
(飛び降りて――、剣の風圧で、落下を弱めれば)
 自分の剣で二人分の体重を支えられるだろうか。
「――ティエラ」
 耳朶に触れた声に、左腕で抱えたプラドへ視線を落とす。月光のせいか青い額と、前髪の下で翳った瞳。
「俺なら、自分で対処、できる。離せ」
「そんなの――!」
 普段のプラドであれば可能だろう。けれど今、プラドの剣は折れている。ティエラの考えた方法はプラド自身にはできない。
 ティエラはぐっと息を飲み込んだ。
「言ったでしょ、私は貴方を死なせない。二人で帰るんだから」
 息を吐き、崖の縁を掴む手を、離す。
 落下する。
 風が身を包む。煩いほどのその音。
 みるみる河原が迫る。予想以上の落下速度だ。
 剣に風を纏わせ、迫る谷底に叩き付ける。
 二人を受け止めるには威力が足りない。
(プラドだけでも――)
 ティエラはプラドを抱える左腕を、ほぐいた。
 プラドが手を伸ばす。
「ティエラ……!」


固定ゼッテ


 やや若い声の響き、次の瞬間、身を包み唸っていた風が消えた。
 身体がふいに浮き上がった。
 ティエラとプラドの腕をそれぞれ掴んでいるのはティルファングだ。
「ティル――!?」
 ティルファングは何度か足場を跳躍して崖の上に降り立ち、ティエラとプラドを草地に降ろすと、そのまま地面を蹴った。
 光る六角形の盤が宙に、階段状に次々浮かぶ。その一つに立つ。
「あんたはその人と、ボードヴィルに戻って」
 視線をナジャルに据えたまま、ティルファングが光る盤を踏み駆け上がる。
 ナジャルの頭上へ至り、落ちる。右腕に顕した剣が白く輝く。
 レオアリスへと喰らい付こうとしていたナジャルの首が巡る。
 ティルファングは剣を振った。迸った光がナジャルの右眼へ落ちる。
 剣を躱し、ティルファングへと顎が走り、ばくんと宙を噛む。ティルファングの姿は既に、光る盤を蹴り渡り、更に上空にある。
 ナジャルの蛇体がティルファングを追って空へ伸びる。
 風を纏う剣光が左横から走り、ナジャルの胴を撃った。
「行けって、言ったのに」
 岸壁の際に立ち上がっているティエラの姿を視界に収める。
 転じた視線の先、カラヴィアスの姿を探す。気配――
 ある。
 その剣はまだ力を残し、だがナジャルが脅威と考えるほどには大きくはない。
 これまでティルファングが眼にしてきた彼等の長の剣とは、余りに隔たりを感じた。
(僕が――)
 今、満足に動けるのはティルファング一人だ。
 ナジャルの首が鞭のようにしなり、ティルファングが降りようとした足場を顎の側面が打つ。足場は硝子細工よりも脆く崩れた。
固定ゼッテ
 素早く視線を移し、新たな足場を生み出す。
 一歩目を踏み込んだ、正面に既にナジャルの顎があった。顎が開く。
『喰らう餌が、増えただけのこと――』
「僕はお前を、許さない。絶対倒すって誓った」
 ティルファングは右腕の剣を、渾身の力を込めて振った。
 剣光がナジャルの額を捉え、鱗の上を滑る。
『無意味なのだ、お前達の剣は』
「僕の、命一つ分」
 ナジャルの顎が迫る。
 足場を蹴って身体を跳ね上げ、身を捻り剣を振り下ろす。
 剣は鱗に弾かれた。
 顎が左肩を突き、骨が砕ける。
固定ゼッテ
 創り上げた足場を踏む。
 ティルファングは足場を蹴って前へ出た。開いたナジャルの顎が迫る。
 上顎と下顎の、奥へ、足場を置く。
 降り、喉の奥へと剣を叩き込み、跳ぶ。
 迸った白光がナジャルの口腔を裂く。柔らかい口腔内の肉が剣の熱でぐずぐずと爛れた。
 ナジャルの動きが一瞬止まり――だが次の瞬間、顎の中から逃れたティルファングを追って動く。
 目の前に迫る鱗の一枚一枚を数えるように、ティルファングはその鈍い輝きを見据えた。
「時間を、稼いでるんだよ――」
 カラヴィアスの為の。
 レオアリスの為の。
 巨大な蛇の鼻先がティルファングの右脇腹を捉え、骨を砕き、弾いた。
 下方、膨れ上がる剣の気配。三つだ。ティルファングは足場を蹴り、上空へ高く跳んだ。
 熱。
 巻き込む風。
 光が爆ぜる。
 三方から同時に、剣光がナジャルの身体の胴、そして喉へ疾る。
 捉える寸前、ナジャルはその巨大な身を暴風のようにくねらせた。世界を巻き込む。





 呼吸が戻ったのは、どれほど経ってからか。
「――、――ッ」
 レオアリスは膝を立てようと、もがいた。四十間に及ぶナジャルの蛇体が無造作にうねり弾かれた。
 身体の感覚が半分無い。それが右か、左か、それすらも曖昧で、意識が朦朧としている。
 レオアリスだけではなくカラヴィアス、プラドとティエラ、そしてティルファングも蛇体のうねりに巻き込まれた。
 姿が見えない。
 視線を上げた先、細い月の光の中で、ナジャルは身をくねらせた状態のまま、硬直したように動きを止めていた。
(捉、えて、た――)
 剣光は、ナジャルを。
 身体に痛みが戻る。全身が粉々になったかのように、余す所なく激痛が走った。
 苦鳴を喉の奥に飲み込む。
 まだナジャルは動いていない。
 蛇体を覆う鱗はあちこちが裂け、赤黒い血を流している。
(動け)
 右でも、左でもいい。どちらかの剣を動かせ。
(ナジャルより、先に――)
 ボードヴィルはもう三十間ほどの距離しか離れていない。蛇体の暴威からは逃れていたが、今ナジャルがほんの僅か、身を伸ばせばそのあぎとが届く位置だ。
(先に……、っ)
 だが手の中の剣は、今にも消えそうに、光を弱く揺らめかせた。






 誰一人動ける者は無かった。
 ナジャルもまた。


 しんと、静まり返る。
 ほんの束の間、世界に生を持つものは何一つないかのように、音が消えた。


 一瞬後、雑多な音が戻る。
 風が下草を揺らす音。岸壁の下、シメノスから響く速い水音。
 途切れ途切れの荒い呼吸。喘鳴に近い、あるかないかの呼吸。
 鼓動。
 それらを縫い、這う音が響く。
 長大な身をくねらせ、銀色の大蛇が空へと巨大な鎌首をもたげる。
 その赤い双眸を、一点に向けた。




 レオアリスが一人、二つの剣を地に突き立てて身を支え、立っていた。
 夜に輝くナジャルの、赤い双眸。
 それが世界を、唯一立つ存在を、睥睨した。
 赤黒く、奈落のごとき口腔が開く。
 剥き出しになった四つの牙が、世界を蝕む毒を滴らせる。
 銀色の鱗が沈みかけた月光を弾く。
 レオアリスは動かず、ただナジャルを見据えている。剣の輝きは吐息で吹き消せるほどに淡い。
 額に触れるほど、牙が降りる。


 ナジャルの動きが、ぴたりと止まった。







『――我が意志はゲー・ア・ 悉く地に満ちるネ・ブレイシス














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2021.7.25
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