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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

五十二


 ナジャルは変われない――
『お前の剣が、ナジャルに影響を及ぼしている』
 ならば今こそが、ナジャルを倒す最大の好機だ。
(早く――)
 回復を。
 レオアリスは深呼吸を繰り返した。繰り返すごとに胸の傷が引き攣れ、全身を痛みが脈打つ。
(早く)
 カラヴィアスはレオアリスの剣に手を置いたまま、レオアリスと同様に深い呼吸を重ねている。
 置かれた手から剣に伝わるカラヴィアスの存在が、受けた毒のせいか時折揺らぐ。
(早く)
 風が頬を叩く。
 視線の先、プラドの剣がナジャルへと疾った。
 プラドもまた毒を受け、左脚の負傷、そしてナジャルの尾に叩きつけられた影響を残しているのが分かる。
 ただ、ナジャルの動きは確かに、甘い。
(回復力も落ちてる)
 ナジャルの胴がうねり、プラドへと迫る。
「プラ――」
 振ろうとした剣は僅かな動きで止まった。カラヴィアスの手が剣を押さえている。
「拙速に動くな。剣を見ろ」
 視線を落とした剣身は、纏う青い光もまだ朧げだ。
「プラドに任せて、力を溜めろ」
「――はい」
 レオアリスは剣を握る力を緩め、焦る心を押さえて再び深呼吸を重ねた。




 風を纏う剣が夜を切る。
 プラドの剣はナジャルの喉元を捉え、食い込んだ。
 肉を切り進む直前、鱗が剣を這い上がる。剣身の内側から発した光が這い上がる鱗を粉々に砕いた。
 地を擦る音と共にナジャルの胴が左から迫る。プラドは胴を避け、跳び退いた。
 胴が僅かに身を掠め、その衝撃で身体が避けようもなく地面に叩きつけられる。
 呻きを抑え、身を返して転がり振り下ろされた胴をまた躱す。
 立ち上がると同時に剣を薙ぎ、正面に迫ったナジャルの顎を反らした。
 ナジャルの胴の右方向にレオアリスとカラヴィアスの姿、そしてその後方にシメノス。
 プラドの右後方、篝火が揺れるボードヴィル砦城。
 もうだいぶ近い。
 剣を薙ぐ。風が奔りナジャルを撃つ。
(やはり動きは遅い)
 倒せる可能性は十分に出てきた。
 踏み込み剣を振るい、ふと去来した想いにプラドは口の端を上げた。
 この国アレウスに来た時、目的はレオアリスを連れ帰ることだった。
 遠く離れた地から氏族間に伝わった話は、『幽閉』――
 ならばこの国に置いておく理由などないと。
 西海との争いに参戦するつもりは毛頭なかった。すぐに目的を果たし、氏族に戻ることを考えていた。
 母や兄、妹を置いてこの国を出たことが、心の片隅にずっと引っかかっていたのだと、自覚したのはいつだったか。
『幸せだったと思います』
 自分の目をまっすぐに見て、そう言った。


『だから、安心してください』


 ――良かった、と――
 胸の奥に感情が広がる。
 そうだ。ならば良かった。
 なら。
 彼等が生きたこの国を守る為に、自分がかつて投げ出してきた自分の役割を、ここで果たすのもいい。
 剣に風を纏わせ、ナジャルの胴を払う。鱗が捲れ、肉が覗く。
 だがまだ浅く、遅いとはいえ回復される。
 膨大な生命と膨大な存在。
 これまでに喰らい続けた命が削られた箇所を埋めるがごときその様は、海に剣をふるう無為さ加減に似ている。
 果てしない――
 避けた顎が足元から跳ね上がった。
 咄嗟に迎え撃った剣が、荷重に軋む。
 剣身の半ばに、一筋皸が走った。
「!」
 手首を返して剣の負荷を逸らす。地面を蹴り後方へ跳ぶ。
 すり抜けたナジャルの鼻先がプラドの腹部を弾いた。
 あばらが砕けた感覚。
 降り立ったはずの地面が無く、身体が傾ぐ。
 ナジャルの攻撃が崩した地面が、半間ほど陥没している。そこへ落ちた。
(迂闊な)
 戦いで変わった地形へ気が回っていなかった。
 崩れた体勢を取り戻す時間もなく、ナジャルの牙の白さが視界を埋めた。
「プラド!」
 少女の声が響いた。




 レオアリスの前方で、体勢を崩したプラドの上へ、大きく開いた顎が降りる。
「プラ――」
(駄目だ)
 たった一人――
 プラドはたった一人、レオアリスに残された、血族だ。
 レオアリスは剣の柄を握った。光が爆ぜる。
 カラヴィアスの手が剣から離れる。
 押さえられていたものが弾けるように、振り抜く。
 青い閃光がナジャルを撃った。捉えた頭部から蛇体を裂きながら走る。
「……っ」
 身体を引き裂くような痛みが捉える。まるで剣を受けたのが自分自身に思えた。
 膝を落とし、一瞬硬直した身体と、そして呼吸が、次第に戻る。胸の傷から血が滴る。途切れ途切れの息の間で咽せる。





 プラドは陥没した窪みの底に身体を打ち付け、双眸を見開いた。
 視界を染める青い閃光――レオアリスの剣光がナジャルの蛇体を爆ぜながら走る。
 黒く長い髪が目の前で揺れた。
「――ティエラ……!?」
 ナジャルの牙を阻んでいるのは、ティエラの剣だ。
 ティエラの剣が光を纏い、ナジャルの牙をとどめている。黒い髪が風に舞う。
「戻れ! 何を」
「私は、絶対、貴方を死なせない」
 軋む剣の向こうで、人の頭ほどもあるナジャルの牙が鈍く光りを弾く。
 ナジャルの顎が大きく開く。ティエラとプラドごと、一呑みにできるほどに。
 プラドの剣が風を纏う。自らの風に、剣身に走った皹が更に深まる。
「その為に貴方に、ついて来たんだから――!」
 ティエラの剣が横に、プラドが縦に、二人が同時に剣を薙ぐ。
 二つの剣を受け、ナジャルの顎が弾き上がる。
 蛇体はぐらりと揺れ、二人の上に倒れかかった。
 プラドは左手を伸ばしてティエラの腕を掴み、自分の身体の下に抱え込んだ。折れた肋が食い込み、走った激痛を噛み砕く。
「プラド!」
 プラドの身体の向こう、落ちてくるナジャルの銀色の躯へ、ティエラは右腕の剣を薙いだ。



 ナジャルの身体が倒れる。その下にまだプラドがいる。
 駆け寄ろうとして踏み出した足が、膝から崩れる。
(動け!)
 レオアリスの背後で一瞬剣の気配が高まる。
 制止する間もなく、カラヴィアスが剣を振り抜いた。
 白熱した剣光が夜を割き、プラド達の上に倒れかかったナジャルの躯を横から撃つ。熱の刃を受けナジャルの鱗が爛れる。
 直後、下から走った白い光がナジャルを弾いた。プラドの剣とは違う。
 蛇体はプラドの倒れている場所の向こう、二十間ほど離れた場所へ倒れた。
「カラヴィアスさん!」
 膝を立てていたカラヴィアスの身体が傾ぐ。折れた左腕、頭部の負傷、毒。回復などしていない。
 支えようと伸ばしかけた手をカラヴィアスの声が制する。
「ナジャルに、集中しろ」
 はっとして顔を上げた先で、ナジャルは身を捩り、血の跡を引きつつ、再び地を這い始めた。ナジャルの血に触れた地面が黒くくすむ。
 長大な蛇体の動きは鈍く、そして銀の鱗は所々裂け、捲れている。
(でもまだだ)
 圧倒的な存在に対して、まだ充分ではない。
 ようやく傷を負い始めたというだけで、致命傷を与えるにはまだ到底足りていない。
 レオアリスは右足を前に膝を立てた。
 眩暈と共に身体がぐらりと傾ぐ。
「回復しながら、戦え」
 視線を向けたレオアリスの反応を見て、カラヴィアスは笑みを閃かせた。
「お前はそうか、これまで指導者が、いなかったな――」
 カラヴィアスもまた片膝をつき、持ち上げた面は白い。ただその呼吸は今は、ごくゆっくりと繰り返され、制御されているのが判る。
「この戦いが終わったら、色々と叩き込んでやろう」
 レオアリスは頷いた。
「はい」
「今は、普段自然にやっていることを、少し、意識するだけでいい――剣に集中して、循環させろ。力を流して、また取り込め」
 言葉を聞きながら息を吐く。
(集中――力を溜める。流す。回復を――)
 身体の奥から生み出される力を剣に流し、剣を巡って身体に戻る。
 その流れを、意識する。
 手のひらがじわりと熱を持つ。
 そこから痛みがゆっくりと引いていく。
 ナジャルの身体が持ち上がる。
 夜の闇を貫いて光る、赤い双眸。それが煌々と輝いた。
 全身を貫くような痺れが捉える。
 動かない。




「プラド!」
 ティエラは自分に覆い被さったプラドの身体を抱き締めた。ティエラの右腕の剣は消えていたが、それよりもプラドの剣の状態にぞっとする。
 先ほど剣身に生じた皹が更に深くなっている。
「プラド!」
「――問題、無い。怪我は……ティエラ」
「自分のことを、ちょっとは――」
 背後で気配が動く。
 プラドが庇って立とうとするのを躱し、ティエラは彼の前に立った。
 集中しても腕に剣が現われない。
 焦って見上げた視線の先、ナジャルが蛇体を、空へと起こしている。
 赤い、血の色に似た双眸が、闇の中で深く光る。
 射竦められたように、全身が硬直した。




(――動け)
 あの眼。捕食者の双眸。怒りと、それを超える貪欲さ。
 指一本、眼球すら動かせず、呼吸も叶わない。
 意識の端に辛うじて捉えたカラヴィアスは、ナジャルの眼の呪縛と、そしておそらく身体の内に残る牙の毒とに肩を低く落とし、動かない。
 プラドの姿は見えず、ティエラが剣も無く立ち、ただナジャルを見上げている。
(俺が、動け――)
 指先に力を伝えようとしても、筋肉と神経が断絶しているかのようだ。
 それとも身体が石になったかのような。
(結局俺は、まだ全然、未熟なんだ)
 戦いの間中、二人に負担をかけ、護られていた。
 レオアリスの不足を彼等が補ってきた。
 ナジャルの頭が動く。
 何から喰らおうと考えを巡らせるように、頭を巡らせる。
 ティエラとプラドか。
 ボードヴィルか。
 それとも、カラヴィアスと、レオアリスか――


 赤い双眸が自分の上に止まるのが判った。
 蛇体が動く。地を這い、巨大な鎌首がゆっくりと近付く。赤い双眸が見据えている。その畏怖。痺れ。
(動け)
 ここで終われば、これまでの戦いが全て無駄になる。
 レーヴァレインや、アスタロトの負傷。三つの偽りの姿との対峙。王の死に囚われていた心と、それを乗り越えたこと。
 幼いファルシオンの覚悟。
 数え切れない兵達の命。
(動け――!)
 全てを、注ぎ込んででも。
 噛み締めた唇が切れ、血が滴る。
 ナジャルの躯が夜を押した・・・
 硬直した肺の奥底から、レオアリスは声を、叫びを押し出した。
 渾身の力を込め、身体を覆う呪縛を払う。
 無意識に、逆手に握った左の剣が大気を集める。
 レオアリスは右足を踏み出し、右の剣を薙いだ。
 身体の奥底から迸る、全ての力をそこに乗せる。
 青く爆ぜ、だが一切地表を削ることなく、閃光がナジャルへと一直線に疾る。
(行ける――)
 ナジャルの身を断てると、そう感じた。
 空へと立ち上がっていた蛇体の、地上部分の胴、そして迫るあぎとへ。
 ナジャルの尾が動いた。
 風を鳴らし、レオアリスの放った剣光と自らの躯の間へ、尾が割って入る。
「!」
 青い剣光が、ナジャルの尾を断った。














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2021.7.25
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