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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

五十一



 青く輝く剣が視界を埋める尾を迎え撃つ。光が爆ぜる。
 衝撃を殺せず、身体の制御が効かないまま、地面に叩き付けられた。
 呻きが微かに喉の奥を圧迫し、それから呼吸が戻る。
 ひっきりなしに息を吸い、吐く。追い掛けるように身体を激しい痛みが包んだ。脳の奥が白く瞬く。
 プラドは、どうなっただろう。カラヴィアスは。
(――起きろ……、今すぐ)
 追撃を喰らったら終わりだ。
 全身がバラバラに砕けたように思える。
 左脇腹から右胸にかけ、開いた傷から脈動と共に血が流れ出している。
 意識がふわふわと、自分の身体とは異なる場所を漂っているようだ。
(動け――)
 アルジマールの多重陣まで。
 ナジャルの本体が多重陣に入るまで、残る距離はおよそ百間(約300m)でしかない。
 捉えて――そうすれば今度こそ、アルジマールはナジャルを跳ばす。
 レオアリスは腕に力を込めた。剣は消えていない。
(動け)
 右手が、指先が曲がる。それだけで全身を痛みが巡った。
「ぐ……、っあ」
 剣の柄を握り込む。
 そこから力が身体に流れてくる。ごくゆっくりと、だが確実に、傷が癒えていくのが感じられる。
 ナジャルの攻撃はまだ無い。今の内に回復し、立ち上がれ。
(――何だ)
 違和感が意識を撫でる。
 それはナジャルが本体を現わしてから、水底から上がるほんの小さな気泡のように微かに、だがずっと意識に引っかかっていた違和感だ。
 そう――
 ナジャルの攻撃が無い。
 存在と悪意は黒々とそこに在り、肌を包んでいるのに。
(どういう、ことだ――)
もてあそんでいる』
 カラヴィアスは初めにそう言った。だからこそ自分達に有利でもあると。
 それとはどこか違うように思える。
(動かない――)
 それとも。
(動けない……?)
 その感覚を打ち消すように、空気が揺れた。
 辛うじて開いた目に映る、奈落に似た赤黒い口腔。すぐそこだ。
 余りに近く、レオアリスは動けないまま、ただ迫る牙を見た。
 白光が瞳の中に弧を描く。
 カラヴィアスの剣――ナジャルの顔の側面を撃つ。
 ナジャルの鱗が爛れ、蛇体が弾かれた。
 弾いたカラヴィアスはよろめき、右の剣を地面に突いた。
「カ……ィア、ス、さ」
 カラヴィアスは右側頭部を負傷し、裂傷が額に及んでいる。右の目は流れた血で塞がれ、骨折した左腕はだらりと下がったままだ。
 身を起こそうとしたレオアリスを、視線が制した。
「回復しろ」
 首を巡らせる。「プラドは――生きてはいるな」
 プラドは数間後方で、掘り起こされ盛り上がった土に凭れ、ゆっくりとした呼吸を繰り返している。
 毒が抜け切っていないのか、ナジャルの牙が掠めた左足は自ら裂いて血を抜いたものの、日に焼けた面に浮かんだ玉の汗が血の気のない頬を伝い滴る。
 ただその双眸はカラヴィアスに応えるように、そしてその向こうのナジャルへ据えられている。
 レオアリスは深く呼吸を繰り返した。自由の効かない身体へ意識を巡らせ、動かない箇所を数える。
 左脇腹から右胸。傷が開いている。両手は動くが、身体と同様ひどく重い。
 骨は折れていないが、全身を打ちつけた為に感覚が所々途切れている。
 カラヴィアスが視線を前方へ戻した。三人を囲んで閉ざそうというように、蛇体が音を立て地を這う。
 身を起こして、剣を構えなくては。
 回復が間に合っていない。
 カラヴィアスの声が届く。
「レオアリス――、二つ、いい話がある。そのまま聞け」
 唐突にナジャルは鎌首を伸ばした。たわめた発条ばねが弾けるようなその動きが、二十間の距離を瞬きの内に潰す。
 カラヴィアスの剣が輝き、ナジャルの顎を斜め下から捉える。土を踏んでいた足が踝まで沈む。
 剣が煌々と熱と輝きを発し、顎を弾き上げる。
 銀の鱗に赤い筋を刻んだ。
 二撃目をその場で叩き込み、三撃目の途中で落ちた膝を、カラヴィアスは半ばで堪え踏み止まった。
 四撃目を叩き込む。
「カラ――」
 伸ばそうとした腕は、ほんの僅か動いただけだ。
(くそ――)
 四撃を受けたナジャルの頭が夜空をなぞり、後方に倒れる。
 荒く鋭い呼吸と共に、カラヴィアスは剣を構え直した。細く息を吐き、呼吸を整える。
 倒れたナジャルの頭が持ち上がり、再び周囲を這う。
 獲物を懐に収め、様子を伺っているような、その動き。
「一つ目だ。奴はまだ、我々を取るに足らないと考えている」
 尾が急速に迫る。
 カラヴィアスの剣が尾を捉え、そのまま押し切った。
 弾かれた尾が離れた地面を叩く。鱗に刻まれた傷が血を撒き散らす。
 白熱した剣を地に突き立てて倒れかかる身体を止め、カラヴィアスは肩で息を吐いた。
 左腕は折れて動かず、右側頭部と額からも血が流れたままだ。
「それ、以上は……」
 なんとか半身を起こそうと伸ばした手が剣の束ごと、無残に掘り起こされた土を掴む。
「回復しろ」
 もう一度、カラヴィアスが短く命じる。
「お前の剣は重要だ。いや、お前の剣が」
 右目を覆う血を右の手首の内側で拭う。流れる血は止まっていない。カラヴィアスもまた、回復が追いついていない。
 それは表面的なものではなく、この戦いで蓄積された損傷を表している。カラヴィアスも、レオアリスも、プラドも。
 カラヴィアスは血がこびりついたままの右目を開け、夜の中を這う蛇体の音を追った。
「二つ目」
 鈍く月光を照り返す鱗。ゆるゆると三人の周囲を動いていく、その音――
 這いずる音。
 悍ましく無慈悲な音の中で、カラヴィアスの言葉は揺るぎない。
「我々は、勝利に近付いている。思った以上にな。気付いているか?」
 続くそれは、何度か感じていた違和感と、同じもののように思えた。
「奴の攻撃が甘くなった」
 鱗が立てる擦過音を縫い、確固として耳に届く。
「そして、ナジャルは変わっていない・・・・・・・





 長く重い身を揺する。
 苛立ちは少しずつ、海底に降る微生物の死骸のように内側に積もっていた。
 何度目か、身を揺する。


 変わらない・・・・・


『何故、変わらぬ』
 人型を取ろうとした。
 これまでいつ、どんな状態であろうと、望むままに望む形を取ってきた。
 一度たりとも、意のままにならないことなどなかった。
 だが今、持て余す蛇体のまま、鱗の一片すらも変化しない。
 変わらないだけではなく、躯の動き自体、どこかずれて・・・いる。
 せっかくの剣士達を喰らおうとしても、狙いが僅かに逸れている。何度となく弾くあの剣のせいばかりではない。
 深海に降り積もった死骸が塵芥を巻き上げるように浮かび上がる疑問。
 かつて無かった疑問だ。
『何故だ――』
 躯の芯に何か、違和感がある。全身、連なる骨に絡むもの。ナジャルは全身に意識を巡らせ、その元を探った。
 鱗の上、肉の内側、骨の髄。
 神経に微弱に絡みついている。
 ほんの僅か、感覚を麻痺させている、それ――
『よもや――』
 脳裏を過ぎる青い光。一度ならず爆ぜながら身体を包み、貫いた。
 雷光。
 その衝撃。





「変わっていない」
 カラヴィアスはそう言った。
 抑えられた不規則な呼吸の中でも口調は明瞭だ。
「本体でなければ、捉えて飛ばすことはできないのだったな」
 レオアリスは頷いた。
 カラヴィアスの言わんとしていること――これまで感じていた違和感。
「奴もそれは解っている。加えてあの巨体故に我々を捉え切れないとなれば、面白い状況でも無いだろう。だが奴はあの蛇体から変わらない。――変われない」
 ナジャルの顎が空から落ちる。レオアリスの真上――
 カラヴィアスは踏み込み、落ちる鎌首へ右腕の剣を斬り上げた。
 巨大な首と剣が撃ち合った衝撃が地を叩き、カラヴィアスの足が沈む。
「――ッ」
 顎が大きく開き、体勢を崩したカラヴィアスの上半身へ、喰らい付いた。
 背後から叩き付けた風がナジャルの頭部を撃つ。顎に囚われたと見えたカラヴィアスは既に地面へ身を低く屈めていて、その体勢から右腕の剣を振り抜いた。
 白光がナジャルの頭部に熱の傷を刻む。
 プラドは血の気の失せた面のまま立ち上がり、再び剣に風を纏うとそれを薙いだ。
 風と熱に巻かれ、ナジャルが上体を軋らせる。
 そのまま鞭を振り下ろすように蛇体が落ちる。カラヴィアスがレオアリスを抱え、地面を蹴った。
 ナジャルの上体が地を叩き、砕け、陥没する。
「苛立っているな。漸く――初めてか」
 カラヴィアスが口元に薄く、苦笑に近い笑みを刷く。
 プラドの横に降り立ち、その横にレオアリスを降ろして剣を薙いだ。
 熱を帯びた剣風がナジャルの躯を撃つ。裂傷が蛇体の腹部を走り、熱を受けた鱗が捲れ上がる。ナジャルは身を捩った。
 そこに見えたのは初めての、焦り――
 レオアリスは瞳を見開いた。
(傷が――)
 ナジャルの身に刻まれた傷が、回復していない。これまで傷一つ残さなかった躯が。
 カラヴィアスが一つ息を吐く。
「プラド、戦えるか」
「問題無い。今の貴方よりはな」
 プラドが短く応える。
 カラヴィアスはやや目を細めて立ち上がったプラドを眺め、それからゆっくりと呼吸し――身体をぐらりと傾がせた。
 レオアリスは奥歯を噛み締めて身を跳ね起こし、倒れたカラヴィアスへと腕を伸ばした。視界が回り、全身が砕け散りそうな痛みに軋む。
「ッ、う、」
 支えたカラヴィアスの状態に、レオアリスは息を呑んだ。
 身体が火のように熱い。
 そして躱しきっていたと思ったが、ナジャルの牙がカラヴィアスの右肩を掠め、肉を抉っていた。
 背筋が凍る。
(牙――毒)
 プラドの足を掠めた時と同じだ。
 剣に青い光を纏わせて傷を裂き、血を零させる。
 プラドが身を蹴り出し、ナジャルへ剣を薙いだ。風が奔り、熱に捲れ上がった鱗ごと蛇体の上部を巻き込む。二人へちらりと視線を向け、走る。ナジャルは風に身を切られながら前進した。
 レオアリスは一瞬迷い、カラヴィアスの浄化を選んだ。
 肩に当てようとした剣を、カラヴィアスの手が押し返した。
「……いい。浄化、中だ」
 だから熱いのだと。
 右手をそのままレオアリスの剣に置く。
「レオ――、お前の剣……」
「今は浄化に集中を」
「大丈夫だ。まだ役割は、あるからな。それよりお前こそ、集中しろ」
 カラヴィアスは唇に笑みを刷いた。
「お前の剣、その性質が、奴に、影響を、及ぼしている――」
 剣を掴む。
 カラヴィアスの剣の存在が、剣身を通して伝わる。
 戦うこと、この戦いを終わらせることへの意志。
 為すべきこと――カラヴィアスの言う通り、今が最大の好機だ。
「支援する。力を溜め、剣を叩き込んで、ナジャルの動きを、抑止しろ」











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2021.7.11
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