五十
カラヴィアス、プラド、そしてレオアリスの剣。
三方から同時にナジャルの首に食い込む。硬い鱗の下へ。
(行ける――)
断てる。
肉を断ち進みかけた剣を、次の瞬間、銀色の鱗が這い上がった。
引こうとした腕――剣は、樹脂で固定されたかのように動かない。
じわりと鱗が這い、剣身を覆う。
皮膚ではなく肉、骨を這う感覚――
力が抜けていく。
「……う」
喰われる。
レオアリスは右の剣を自らの剣へ、打ち下ろした。
青い光が爆ぜ、剣を覆う鱗が砕け散る。
ナジャルの身体を蹴り、後方へ跳ぶ。流れる視線の先、カラヴィアスとプラドの剣はまだ捕らえられたままだ。
右足を振り子に身を捻り、左の剣に力を集め、鋭く振った。
手のひらを伝い、剣の芯から湧き起こるように力が流れる。
青い光が爆ぜながらナジャルを撃つ。
そのままカラヴィアスとプラドの剣を走り、覆う鱗を粉々に砕いた。
レオアリスは五間ほど離れた草地に降り立った。息をつかず、右の剣を薙ぐ。
(何だ――)
瞬きの間の違和感。視線の先、予想に反してナジャルは動いていない。
放った剣光は狙った頭ではなく胴を捉え、だが同時にカラヴィアスとプラドの剣光が疾り、頭部を弾いた。
ナジャルの蛇体がゆっくりと、夜の中を傾ぐ。
更に踏み込もうとして、膝が落ちた。手の中の剣が、纏う光を急速に弱める。
「っ」
頭――視界が回る。
風が動く。塊のように重く。
落ちた膝を堪え地面を押し込むように蹴る。同時に誰かの手が左腕を掴み、引いた。
大きく開いたナジャルの顎が、レオアリスがそれまでいた地を喰む。腕を引いたのはカラヴィアスだ。その腕の剣が白熱し、剣光がナジャルの下顎を撃つ。
十間離れた場所へ降り立ち、カラヴィアスは更に剣を薙いだ。
剣光が再び、動きかけていたナジャルの顎を捉え弾く。三度――更にもう一撃、全て寸分の狂いなく同じ箇所へ。
ナジャルの躯が空に大きくのけぞる。カラヴィアスが剣を重ねた下顎が血を撒き散らし、カラヴィアスやレオアリスの上へ降り注ぐ。
風が走り、落ちかかる血を吹き散らし、蛇体を巻いた。後方へと倒れる。
短く息を吐き剣を地面に突き立て、カラヴィアスは身体を支えた。
支えようと手を伸ばしたレオアリスもよろめく。
鱗に捕えられたのはほんの僅か、それでも身体が酷くだるい。
「礼を言う。少し削られたが――あのやり方で侵食は避けられる。浄化に近いか」
そう言ったカラヴィアスの向こう、二十間ほど離れた場所でプラドもまた、剣で自身を支えている。
荒い呼吸に合わせ二人の剣の纏う光も時折、収束するように弱くなる。
レオアリスにしても二人にしても、これまでの負傷が積み重なり、特にまだ『時』を抜け出した際の負傷は癒えきっていない。回復に回す力も惜しい。
(もう少し)
レオアリスは顔を上げた。
三人の後方、シメノスの岸壁の向こうにボードヴィルが篝火を揺らしている。
(もう少し――)
再びナジャルの頭が上がる。
レオアリスは奥歯を噛んだ。
夜の中ではあっても、今まで加えた剣の影響は既にその表面には見えない。たった今カラヴィアスが重ねた傷跡さえ。
(どうやれば、斬れる)
致命傷でなくともいい。せめて回復が困難になるまで打撃を与えるには。
遠方からの斬撃はナジャルの鱗を削る程度、直接斬れば鱗が剣を捕らえる。
夜に浮かぶ血の赤の双眸。
禍々しく揺れる。
「レオアリス!」
プラドの警告が響く。
同時に地を這う擦過音、風圧。背後だ。
(尾――)
レオアリスとカラヴィアスが同時に剣を薙ぐ。剣風が尾を捉え、ぶつかりあった余波が地面を轟音と共に砕いた。
尚も止まらず、目の前に迫る。
両手の剣を足元へ突き立てる。
直後、衝撃が全身を叩いた。
「――ぅ……っ」
二振りの剣が光を増し、尾を食い止めている。
奥歯が軋る。
ほんの一呼吸、保ったかどうか――突き立てた剣ごと、弾かれた。
衝撃に呼吸を失う。
一瞬後には地面が全身を叩いた。血が喉の奥から生温かく迫り上がる。手足の感覚がない。
視界が暗く染まり、意識が落ちる。
夜の奥に光が灯った。
『レオアリス』
声。幼い。
剣を握る手に力を込める。動いたのは左だ。
自らの体勢も判らないままただ正面へ、振り抜いた。
ようやく形を結んだ視界の、ほんの一間先にナジャルの頭があった。開いた赤黒い喉、その奈落。
剣光がナジャルの顎を捉え、虚しく砕ける。
右手を動かそうとしたが持ち上がらない。
迫る牙を見上げた視界を、白熱した剣が過った。風が吹き抜け、ナジャルの顎が再び弾かれる。
「――ッ」
ようやく、身体に力が入った。辛うじて身を起こし、顔を上げる。
尾の唸り、風圧が肌を叩く。今度は左側面――
カラヴィアスとプラドの剣が尾を弾く。
地響き。ナジャルの巨体が地に倒れた音か。
「プラド!」
カラヴィアスの声が振動を縫い、レオアリスの身体を誰かが持ち上げる。視線を上げた先の顔はプラドだ。
その向こう、カラヴィアスがナジャルとの間に立っている。
彼女の左腕は力無く下げられ、二の腕に折れた骨が覗いている。
「もう少し退け」
腕に構わずカラヴィアスはナジャルへ向かい、左足を一つ踏み込んだ。
低く重心を落とす。右後方へ引いた剣が熱を帯び、辺りへと放出する。
無意識に、この辺りにいるべきではないと、そう感じた。
畏れ。
その意識を共有したようにプラドはレオアリスを肩に担ぎ上げ、走った。
直後、右足で地面を蹴り、カラヴィアスは剣を掬い上げるように振り抜いた。
周囲を巻き込む白光と大気を断つ高い音、熱。大地から空へ、瞬きの間に駆け抜ける。
白光がナジャルの蛇体を撃ち、体表を走る。
プラドが足を踏み止め、白光に呼応して右腕の剣を薙いだ。
風と熱がナジャルを包み、銀の鱗が赤く光を含む。
爛れる。
巨体が軋み、身を捩った。
大地が蛇体のうねりを受け砕け、震える。
レオアリスは霞みかけた視界でそれを見た。
カラヴィアスの足元から、身を捩るナジャルの周囲まで地面が焦げ、溶けている。
放たれた剣の熱がどれほどだったか――
(それでも、まだ――)
動く。
赤く爛れた鱗のまま、ナジャルの躯が地を蛇行し、走った。地を砕く。
カラヴィアスは地面を蹴って跳び、白熱した剣を振り下ろした。赤く爛れた鱗を裂く。まだ浅い。
プラドの剣が風を巻き、放つ。直後、プラドはレオアリスを抱え右へ跳んだ。
開いたナジャルの顎が二人のいた空間を噛む。
牙が僅かにプラドの左足の甲を掠めた。
カラヴィアスはナジャルの躯を越え、シメノス側へ降りた。背後のボードヴィルが先ほどよりも近付いている。
「シメノスを越えさせるのはまずい」
動くごと身体に伝わる振動が折れた二の腕に響く。傷が送り出す痛みの脈動は脳へ突き抜けるようだ。
上着を引き裂き、折れた左の二の腕をその布で手早く巻き固定した。
指はまだ動かない。
「しばらく使えないな」
剣も輝きが弱い。
「決め手に欠けているか――だが」
それはナジャルも同じに見えた。それともう一つ。
ナジャルの尾が持ち上がり、頭上から振り下ろされる。
今の剣で受けるのは困難だ。
(折れる)
視界の端に光を捉えた。
地面を蹴って跳ぶ。
空いたその空間を雷が疾った。
ナジャルを撃ち、ナジャルの動きが一瞬、止まる。
直後、尾はカラヴィアスの僅か一間右を打った。
(ああ――)
そうだ。
(やはり)
「――レオアリス! お前は力を溜めろ!」
思考の隅で時間の経過を考える。
戦いが始まってから何刻経ったか――そういつまでも体力も剣も保たない。全力を以って戦うのであれば、あと一刻。
(それで倒せるか? だが力を温存していてはあの鱗を裂けない)
カラヴィアスとプラドが連撃を重ねてナジャルの動きを封じ、力を貯めたレオアリスの剣で撃つ。それが最も有効な方法だ。
アルジマールの法陣円が捕らえるところまで押し込めばいい。
今すべきはそれだけだ。
(繰り返すしかない)
剣を振ろうとした身体が右に傾いだ。
「ッ」
体勢を立て直そうと上げた視界に、銀の尾が迫る。
レオアリスは落ちそうになる膝を辛うじて堪えた。
身体が砂袋のように重く、自由が利かない。
「力を――」
カラヴィアスへと視線を向けかけ、左腕に重みが加わったことに気が付いた。
瞳を落とし、身体の芯が急激に冷えた。
プラドが自らの左脚、膝から下を剣で裂いていた。
「――プラドさん――!」
血が吹き出し、零れ落ちる。
プラドはそのまま草の上に倒れた。
「毒だ……牙の――これでいい……」
苦痛を押し殺した面は夜目にも血の気が失せ白い。
「プラ――」
風圧が迫る。
レオアリスはプラドの身体を抱え、跳んだ。治癒しかけていた左脇腹から右胸にかけて、再び血が滲み、引き攣れた。
視界を尾が埋める。
レオアリスは右の剣を振り抜いた。青い光が爆ぜる。
衝撃が全身を叩いた。
尾に弾かれ、レオアリスとプラド、そしてカラヴィアスはそれぞれ身体の制御が効かないまま、地面に叩き付けられた。
水が流れ込むように静寂が周囲を埋める。
レオアリスの呼吸が、静寂に初めに響いた。
呻きが微かに喉の奥を圧迫し、それから呼吸が戻る。
ひっきりなしに息を吸い、吐く。追い掛けるように身体を激しい痛みが包んだ。脳の奥が白く瞬く。
(――起きろ……、今すぐ)
三人とも動けていない。
(ナジャルは――)
夜に影が見える。
蛇体。
ナジャルの本体――
(本体――そうだ、これを、跳ばす――)
跳ばさなくては。
アルジマールの法陣円へ、ナジャルを、このまま。あと少しのことだ。それで。
右手が辛うじて、剣を握った。
爛れていた鱗が、内側から押し上がった新たな鱗によって剥がれ、草地に落ちる。
ナジャルは蛇体をくねらせた。
『随分と、重いものだ――』
身を一つ動かすこと、尾を振るうことすら、重い。
海中とは異なる環境だと実感させられることに、ナジャルは感慨さえ覚えた。
『だから卑小な存在ばかりなのだな』
地上の者達が最大の力と恃む剣士であっても、あれほどに小さい。
その理由が判る。この躯は地上で思うがままに動くには持て余すのだ。
地に無数に散らばるものを喰らうのならばいいが、たった数人を追うには適していない。
『余りに卑小で牙にも引っ掛からぬ――』
だが先ほど流れ込んだ力は、美味だった。期待以上に。
やはり蛇体よりも人に近い形が良い。
ナジャルは一つ、身を揺すった。
|