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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

四十九


 ぐい、と袖を引かれ、ザインは傍らを見た。
「父さん!」
 ユージュがそこにいて、手を伸ばして両腕を掴んでいる。ザインを見上げ、張り詰めていた頬と瞳を和らげ、肺の奥から零れるように息を吐いた。
「無事だった――良かったぁ……っ」
 胴に回された腕が温かい。
 安堵が込み上げるのを感じ、ザインは左手を上げユージュの頭を撫でた。
「ユージュ、お前も無事だったか」
 石畳の坂道の先で顔を上げているトールゲインへ頭を下げる。トールゲインは視線を返し、ただそこに立ち止まっている。
「父さん、どうなったの。鼠は――消えたの? 戦いは?」
「鼠の群れは消えた。東へ引き寄せられたように見えた。ナジャルへと戻ったか――おそらくボードヴィルでの戦いが、最後の局面に入ったんだろうな」
「なら――」
 ザインは頷いた。
 そうだ。
 終わらせられる。その段階が近付いているのが判った。
 岸壁へと足を向け、ザインは歩き出した。ユージュは父がどこへ行くのかと、後ろをついてくる。二人の足音が重なり草地を踏む。
 しばらく歩き、門からおよそ七十間離れた岸壁の縁に立ち止まった。岸壁から吹き上がる風が髪や服を散らす。
 門から南へ真っ直ぐに歩けば、岸壁は街に向かいなだらかに降っている為にやや低く、それでも足元は南海の海面へ十五間(約45m)落ちている。
 波の音。打ち寄せ、そして沖へと戻る。黒く沈んだ海面が遮るものもなく続いている。
 揺れる海面が時折、微かな灯りを弾いて散らす。
 半円の月が南の空の半ばに浮かび、ほんのりと水平線を浮かび上がらせていた。
 その下――、波の上に月影を揺らすもの。
 ザインは真っ直ぐそれを見据えた。
 彼等がいるからこそ、終わらせられると、そう強く思う。そう整えた。西海軍を誘い込む為に、一時なりと、レガージュを敢えて渡しもした。
 全ては一つ一つ積み重ねてきたものであり、そして今だけが、それができる最後の機会だ。
 水平線の前、レガージュ沖合に船団の灯す数十の光が浮かんでいる。
 それはレガージュ船団の船と、もう一つ――
「終わるさ」
 低く呟く。
 沖合にずらりと並んだ三十六隻の内、前面に並んだ半数が火球砲の砲門を備えている。砲門はそれぞれ船首二門及び左右船腹に五門。
 マリ海軍、メネゼス艦隊。
 一昨日の昼、港を離れたマリ海軍艦隊は昨夜遅くに戻り、今、沖合を囲むようにフィオリ・アル・レガージュと向かい合っていた。
 岸壁を吹き上がる風が髪と服を煽るままにし、ザインは瞑想するように沖のその光景と、そしてレガージュの街を見つめた。





 アスタロトはレーヴァレインとファルシオン、二人の上に置いていた手を、そっと離した。
 指先に炎が揺れ、雫のように滴り、二人の体に吸い込まれる。
 倒していた上体を起こしたとたん強い目眩がアスタロトの頭を掴み、身体が揺らぐ。背中を支えたのはティルファングの手だ。
「おい」
「あ、うん」
 手のひらの温かさに小さく息が零れる。
「もう、レーヴさんは大丈夫――」
「じゃなくて、お前が」
 足元から地響きが伝わった。
 ティルファングが顔を上げ、壁を睨む。地響きだけではなく、音。響いてきたのはシメノス南岸の方角だ。
 アスタロトも視線を上げかけ、その途端ぐるりと視界が回り、床に倒れ込んだ。
「おい!」
 頭が床に落ちる前に、ティルファングが手を伸ばす。
「大丈……それより、ナジャル――、だよね」
「多分」
 本体だ、とティルファングが低く言う。再び、遠い地響き。
 その音が確かに、離れた場所でありながらそこにいる存在の大きさを感じさせた。ナジャルの本体、四十間(約120m)にも及ぶと聞いた、それ。
(本体)
 広がるのは安堵と、畏怖に近い恐れ。
(やっと――、ここまで)
 ここまで来た。
 この為に積み重ねてきた。
 今、ナジャルの本体と戦っている。終わらせる為に。
(レオアリスが――)
 アスタロトは身体を起こそうと、右肘を床についた。
「――う」
 持ち上がらない。それどころが力が抜ける。意識もどんどん沈んでいく。
「いいから寝てろ。回復が先だよ」
 ティルファングの声。それでも――
(私も、一緒に……)
 どんどんと意識が落ちる。白い柔らかな空間に落ちるように、全身を包まれるように、アスタロトは抗いようもなく眠りに落ちた。




 ティルファングは室内を見回し、倒れていた長椅子を起こすと、そこにアスタロトを横たえた。何か掛けるものがないかと、もう一度きょろきょろと顔を巡らせる。
 手頃なものがなく、窓に掛かっていた日除け布を引っ張って外し、それをアスタロトの上に掛けた。
 足音が慌ただしく行き来する廊下へ声を掛ける。
 そうしながら今度はファルシオンの小さな身体を椅子に凭れかけさせ、もう二枚、日除け布を窓から引っ張り一枚をファルシオンに被せた。幼い王子はまだ目を覚ます様子はないものの、穏やかに上下する胸からは苦痛は感じられない。
 手元に残った一枚を引き裂き、細長い帯を作る。倒れているセルファンに近寄り、傷を覆って手早く巻いた。出血は続いているが呼吸はしっかりしている。
 息を吐く。
 そっと歩み寄る。膝を下ろす。
「――レーヴ」
 息を深く、吐く。
「……良かった……」
 頬に触れると温かい。
 レーヴァレインの呼吸は穏やかで、目を閉じた面もよく見知った彼自身のものだ。
 先ほど向き合った、あの冷酷さや無機質さはもう感じられない。
 アスタロトの炎がレーヴァレインの中に沈んでいたナジャルの欠片を、浄化した。
「レーヴ、あいつ――アスタロト、あの時と全然違うよね。ほんと、一気に成長した感じ。今度ちゃんと、謝らなきゃな。それから、お礼言って」
 何度でも、何度でも、何度でも――言っても言っても言い足りないと思う。
 頬を撫でる。温かい。
 生きている。
 頬を寄せて口付け、それからティルファングはレーヴァレインをぎゅっと抱き締めた。




 ティエラは屋根の上から南を見据えた。
 目を凝らす必要もなく、夜の中に銀色の巨大な蛇の姿が浮かんでいる。
 この離れた場所からも、あの蛇が纏う絶対的な死と舌舐めずりに似た貪欲さが、皮膚を撫でるように伝わってくる。
 蛇の頭が地に、橋を架けるように降りる。夜を切り裂くのは白熱した光、青い雷光。風がそれらを増幅する。
 それでも。
「プラド――」
 それでもナジャルは動く。平然と。
「プラド」
 ティエラは一度、自分の右腕、そこに顕れたままの剣を見下ろした。






「同時連撃!」
 カラヴィアスの剣が斜め下から流れる。プラドの剣がその対角から。
 レオアリスは蹴り上げた身体の落下に任せ、右の剣をナジャルの蛇体へ落とす。首のほぼ付け根へ――
 叩き込む。
 ナジャルの頭が落ちる。待ち構えたように振られたカラヴィアスとプラドの剣の上へ。レオアリスは間髪入れず左の剣を振り下ろした。
 三人の剣が同時にナジャルの首を三方から捉える。
 剣身が輝き、硬い鱗を切り裂いた。
 食い込む。
(行ける――)
 このまま斬り落とせると、そう思った、直後、レオアリスはぎくりと剣を見た。
 裂いたはずの鱗が、食い込んだ剣を覆うように這い上がった。












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2021.6.27
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