Novels


王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

四十六



 そこに蛇体があった。
 闇、海魔、死者の軍、鼠の群れ、喰らった命と悪意とを混ぜて捏ねた合成獣。そして時。
 それら全てに代わって、長大な、絶望にも似た姿があった。
 その前にあれば誰しもが、捕食される側の存在だ。
 命をながらえる希望がただ一つあるとすれば、あの蛇体に対して自身が余りに小さな小石のごとき存在であること――あの目が自分を認識せず過ぎゆくことを願うのみでしかない。
 空と地を繋ぐ躯。
 奈落の如く底を覗かせない赤黒い口腔、二つの牙。
 血の色を滲ませた銀の双眸。
 傾いた半円の月の光にも、光を帯びる銀の鱗。

 辺りは静かに、死の恐怖に満ちた。





「閣下、群れは全て、消えました!」
 報告を受けるまでもなく、ケストナーの目も鼠の群れが消えたことを確認していた。
 数万――数十万匹の鼠達が波が引くように急激に退き、消えた。消失していた。
 もうあと数呼吸も遅ければ、南方軍の後陣およそ二千の兵は鼠の群れに呑み尽くされていたに違いない。
 ケストナーは明るい色の蓬髪を更に掻き回した。身体の芯から膨れ上がる安堵と、これまでに失った部下達の命の数。二つの想いが分離しようもなく渦巻いている。
「閣下」
 参謀長イルファンが土埃と汗に塗れていた顔を布で拭い、それを見てケストナーは肩の力をようやく抜いた。
「とにかく、まずは負傷者の救護だ。後退している隊も一旦留め、状態を確認させろ。それから休息だ」
「問題ないでしょうか」
「構わんだろう」
 この先どう動くか、一旦落ち着いて考える時間も欲しい。
 撤退しながら目指していたのはボードヴィルだ。だが、あの黒い群れが消えた理由はおそらくボードヴィルにあり、そしてこの状況になったとしたら、今度こそ、ボードヴィルでの戦いは軍の負えるところではない。
「であればこの先、夜明けまではここに留まった方が良いかと」
 おそらく今は深夜の一刻を過ぎるかどうかという時分、夜明けまではあと四刻ほどだ。
「――そうだな。俺もそう思う。ボードヴィルからの報せ――終戦と、そして勝利の報を待とう」
 朝がひどく待ち遠しかった。




 群れは全て、ザインの足元に到達する寸前で消えた。
 ザインは笑みを浮かべた。
 自分では気づいていなかったが、そこにユージュがいたら思わず手を掴んでいただろう、そんな危うさが見え隠れしている。
 ザインの胸中に明確にあった意識は一つだ。

 これで、最後の戦いに出ることができる。

 顔を上げ、門の彫刻を見上げる。その時だけ口元に浮かんだ笑みはやや質を変えた。
「フィオリ」
 その門が守られたことが、純粋に嬉しいと思う。
 月の光が照らす横顔は微笑んでいるように見える。淡く微かなその笑みに、ザインはかつての彼女の笑みを明瞭に重ねることができた。
 今でも。
「もう、あと少しだ」
 視線を彫刻の横顔から、西へ、岸壁とレガージュの街との向こう、黒々と色を湛えて広がる海へと向けた。
 三百年、終わらせることのできなかった戦いが、それで本当に終わる。




 ティルファングの剣がレーヴァレインのうなじに喰い込む、その寸前、微かな呟きがティルファングの耳を捉えた。
「ティル――それでいい」
 レーヴァレインの声。彼自身の。
(剣を、止め――)
 血が、視界に飛沫を散らす。
「レーヴ!」
 ティルファングは叫んだ。レーヴァレインの身体が腕の中でずるりと滑る。
 ティルファングはレーヴァレインの服を掴むようにして身体を抱えた。
「レー……!」
 瞳を見開く。レーヴァレインの向こうに黒い髪が揺れた。
 伸びた手が剣を掴んでいる。その手を包んで揺れる炎――それでも、細い指に剣の刃が食い込んでいた。血が滴り、床に落ちる。
「な――」
 アスタロトが、炎を纏わせた右手でティルファングの剣を掴んでいた。ティルファングの右腕から剣が消える。その手でアスタロトの手首を掴んだ。
「お前――馬鹿」
「この馬鹿!」
 乾いた音ともにアスタロトの左手がティルファングの頬を打った。レーヴァレインを抱えたままティルファングがよろめく。アスタロトの真紅の双眸がティルファングを睨み据えた。
「ほんと馬鹿じゃないの! 諦めるの早過ぎ! あんだけ私を、ボロクソ言っといて――!」
「――でも」
「剣士ってみんな、何でそんな、自分を犠牲にして諦めんの!?」
「でも、レーヴが……」
 腕の中で意識が無い。さっき、ほんの一瞬、彼自身の言葉が聞こえた。
 今はまた、意識が深く落ち込んだかのように固く瞳を閉ざしている。先ほどまで濃かったナジャルの闇の気配が淡い残り香のように微かだが、それでもまだレーヴァレインを縛っているのが感じられた。
 もう目が覚めないのではないか。
 目が覚めたとして、再び口を開くのはナジャルなのではないか。
 だから彼を、彼の意思と尊厳とともに解放するのであれば――
「私が助けてやる!」
「でも」
「でもじゃない。後ろ向くな! 今度は絶対、絶対、絶対に、私が助ける! 今までできなかった分、下流でできなかった分――絶対助けるから。ほらっ」
 半ば強引にレーヴァレインの身体を横たえさせ、アスタロトは有無を言わさず彼の胸に両手を当てた。その手から炎が広がり、レーヴァレインの身体を包んで揺れる。
 アスタロトはそのまま首を巡らせ、壁際で身体を縮めてファルシオンを抱え倒れているセルファンへ声を張った。
「セルファン! 動けるか! 殿下を!」
 ティルファングが身を返して駆け寄り、二人を抱え上げて戻る。
「セルファン、悪い、後で――」
 アスタロトはセルファンの腕の中のファルシオンに左手を伸ばし、胸に手を当てた。
 レーヴァレインと同じように炎がファルシオンの身体を包む。
 温かな、澄んで揺れる炎。
 ティルファングは長いこと、横たわるレーヴァレインとその炎とアスタロトの姿を見つめ、それから自分が呼吸を忘れていたことをようやく思い出したかのように、息を吐き出した。
 ぺたりとその場に座り込む。
 アスタロトはレーヴァレインとファルシオンに手を当てたまま、ちらりとティルファングを見た。
「お前も影響あるなら、後で浄化してやる、ティル。腹の傷は私には無理だけど」
「……僕は、大丈――」
 喉の奥で何度かしゃくり上げ、ティルファングはぼろぼろと泣き出した。
 床に突っ伏し子供のように泣きじゃくる。
「ちょっ、お前、歳いくつ」
「レ……ヴを、こ、殺してしまわ、なくて、良かった――っ」
 アスタロトは驚き、ちょっと呆れて、それから微笑んだ。
「大丈夫。もう、大丈夫だから」
 ティルファングは掠れた声で、途切れ途切れに、言葉を押し出した。
「有、難――う……」
 アスタロトが首を振る。
「私こそ、礼を言う。ファルシオン殿下を守ってくれてありがとう」
 にっこりと笑って、顔を上げる。崩れた天井、その先へ。もうアスタロトの表情は引き締まっている。
 砦城を覆っていた気配が消えているのを二人とも感じていた。空から垂れ下がっていた無数の首が消えていることも。
 そして、今度こそ新たな、最後の局面に入ったことも。
 砦城の無骨な石壁を通してすら伝わってくる。新たな、より一層重苦しい気配、それを放つ存在を。
 それを目にする者達の恐怖、怯え、そしてその中の一つの希望を。
「外――」
「うん」
 二人は同時に息を吐いた。
「これから、最後の戦いだ」
 朝、西海軍との戦いが始まってから、あと五刻ほどで丸一日経つ。
 半年前、四月の終わりに西海との不可侵条約が破られてから、これまで。
 ようやく。
「ナジャルを倒して、そしたら全部、終わる」




 ワッツはクライフに肩を貸してその身体を支えながら、窓の外、ボードヴィル砦城からシメノスを挟んだ対岸を見た。そこに現れた蛇体の余りの巨大さに、距離感覚が狂う。
 空を覆っていた無数の首は失せ、黒雲は晴れている。
 澄み渡る夜の空と、天地を繋ぐ蛇体。
 城壁の上からも、城の窓からも、兵達は皆この現実とは思えない光景を見ているだろう。
 信じ難い、だが確実に、打ち倒さなければ夜明けは二度と回ってこないだろう存在。
「絶望しか感じねぇ光景だな」
 クライフが身動ぎ、半ば苦笑気味に呟く。
 ワッツは視線を下ろし、友人の顔を見た。
「そうか? 俺はここまで来たらいっそ、希望しか感じねぇぜ。これでどん底まで辿り着いたはずだからな」
 そう言って足を引きずるクライフを助けて歩き出す。中庭に行けば救護兵か法術士がいるだろう。
 クライフは首を持ち上げてワッツを眺め、笑った。
「――お前らしいな。じゃ俺もそう思おう。……上将は、大丈夫かな」
「俺達が生き残ってるからな。レオアリスなら当然だ」
「――ああ」
「アルジマール殿もいる。ずっと積み重ねてきた。お前んとこの元参謀官は読み違えねぇさ。次で最後だ」
「だな」
 腹立つけど、と付け加えるとワッツは笑い、右手で首から頭をざらりと撫で上げた。












Novels



2021.6.20
当サイト内の文章・画像の無断転載・使用を禁止します。
◆FakeStar◆