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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

四十五



「レーヴ?」
 ティルファングの声は、返る答えを恐れているように聞こえた。
 ファルシオンを抱えたセルファンと、弾かれて床に倒れたレーヴァレインの間に立つ。セルファンの背中の傷はレーヴァレインの剣によるものだ。
「……何してるの」
 目が覚めないのではないかと恐れていた。昼にナジャルの闇によって負傷してからずっと意識は深く落ち、傷も回復しない状況で眠ったままだった。
 今、目が覚めている姿を見て嬉しいはずだ。
 それなのに、そう思えない。
 レーヴァレインが身を起こす。そのぎこちなさが不安を煽った。
「ああ――ティルファング。――ティル……。何をしてたんだ、今まで」
「僕は、ここに残って戦って」
 レーヴァレインが微笑む。
「そうじゃない。何で今まで、来なかったんだ。私……俺一人を取り残して。おかげで死んでしまった」
 ぞわりと、肌が粟立つ。
「薄情だ――ほんとうに薄情だよね、君は。そう、俺が君を、守ってあげたんだった。もうずっと前――」
 レーヴァレインでは無いものがレーヴァレインの記憶を探り、言葉を引き出しているような感覚だ。
 左腕が上がる。装着していた義手は昼の戦いで派損し、肘から先が無い。
 それはティルファングが今ここにいる証拠でもある。
「砂漠に飛び出した君のせいで、この腕を失ったのに」
「――レーヴ」
「君のせいだよ。俺が死んだのも」
 向けられる柔らかい笑みは良く知っているもので、全く違う。
「まあいいんだ、それはもう。それよりもファルシオンだ。その子を渡してくれないか。剣に力が無くて――それを食べて、補充しなくちゃ」
「黙れ」
 双眸が怒りと不安とに、揺らぐ光を宿す。
「レーヴがそんなことを言うはずがない。レーヴはどうした! 今すぐ、返せ!」
 口の端が無理矢理吊り上がるように、笑みが深まる。
「喰らった」
 続いたのはそれまでと異なる、喉の奥から擦れ、這い上がるような声だ。
「お前の大切な者はもういない」
「――嘘だ!」
 答える代わりにレーヴァレインの剣がティルファングへと振り抜かれる。
 ティルファングは剣で弾き、背後のセルファンへ怒鳴った。
「動けるか!?」
 セルファンが辛うじて頷き、ファルシオンを抱えた身を起こす。ファルシオンは今もなお、侵食しようとするナジャルの闇が身の内で鬩ぎ合い、苦痛に身体を強張らせている。
 膝を立てようとして、それが叶わずセルファンは再び床の上に倒れた。
 その上に落ちるレーヴァレインの剣を、割って入ったティルファングが弾く。
 剣から腕に伝わった重い痺れ。剣筋は良く知ったもの、加わった衝撃はこれまでレーヴァレインとの手合わせの中で感じたことがない。
 ティルファングを斬ろうとしている剣は本物だ。
「っ」
 走った剣が、レーヴァレインの首を捉える寸前で止まる。
 斬れない。
 身体はレーヴァレインのものだ。
「レーヴ、目を覚まして! 僕だ、ティルファングだよ!」
 呼び掛けに反応はなく、意識を深く向け探っても、レーヴァレインの気配が見つからない。
 本当に――
 レーヴァレインの姿が一瞬消える。追った視線――
 天井。レーヴァレインの足が天井を蹴り、ティルファングの身体を越えてセルファンの上へ剣を振り下ろした。
 ティルファングは咄嗟に身を返した。
 剣が左肩に食い込む。
 レーヴァレインへと返しかけた剣は、やはり途中で勢いを失った。レーヴァレインの剣は構わずティルファングの剣を弾く。そのまま首へ走る。咄嗟に顔を傾け、剣はティルファングの頬を裂いた。
 更に腕、脚を掠める。
 血が床の上に飛沫を飛ばした。




 空を虹色の障壁が覆っている。
 それがアルジマールによるものだと、見上げたアスタロトはすぐに判った。
 姿が無いのはなおも多重陣の構成を続けているからだろう。
(まだ、勝てる)
 アスタロトは踵を返した。ファルシオンがいるはずの館は中庭側の壁が崩れている。
 空をちらりと見上げる。
 まだアルジマールの防御壁が首を遮ってくれている。
「ティエラ! ここをお願い!」
 屋根の上のティエラが頷く。
(殿下――!)
 アスタロトは重い身体を叱咤し、棟内に駆け入った。




 血が流れ過ぎている。
 次第に覚束なくなった足元を堪え、ティルファングは肩を揺らして息を吐いた。
 セルファンが動けたのは辛うじてこの部屋の壁際までで、そのままファルシオンを抱え込んで壁にもたれかかっている。意識があるかは判らない。
 正面のレーヴァレインを睨む。
「レーヴ」
 何度呼んでも答えない。
 今まで呼べば必ず答えてくれていたのに。
「本当に――」
 ずっと育ててくれた。
 砂漠へ飛び出したティルファングに黙ってついてきて、ティルファングの為に左腕を失った。
 優しく、厳しく、いつも傍らに居てくれた。ティルファングがまとわりついていた。里の誰よりも特別で、大切な存在だ。これからもずっと傍にいるのだと思っていた。
 どうしたらいい。
 迷う間にも、レーヴァレインの剣がティルファングを掠める。躱したのかよろけたのか、切先はティルファングの右肩を裂いた。
 そこに込められた無機質な殺意。それが告げている。その身体に宿るのはレーヴァレインではなく、ナジャルなのだと。
(――戻らないなら)
 あと数撃も躱せない。
 迷っている時間はない。
 ナジャルは命を喰らいたがっている。
 遊び半分に。
 ただ空腹のために。
(レーヴにそんなことをさせるくらいなら、僕が)
 ティルファングの腹をレーヴァレインの剣が貫く。
 左腕を伸ばし、レーヴァレインの肩を掴んで引き寄せ、背中に腕を回して抱き締めた。
 腹を貫いていた剣が、肉を更に切り割く。
「ッ」
 溢れ出した血が脚を伝い、床に血溜まりを作った。
 抱き締めた左腕の力を込め、右腕の剣をレーヴァレインのうなじに当てた。
(ごめん)
 レーヴァレインは、ファルシオンを喰らうことなんて決して望まない。
 その結果、この地に、世界に起きることも。
 決断が遅いとティルファングを叱るだろう。
(僕も、レーヴと行くから――)
 そのまま、断つ。自分の首ごと――




 カロラスはシメノス下流、南方域に一人飛竜を飛ばし、残る村人達がいないか目に付く村々を回った。
 それもシメノスからおよそ五里(約15Km)、四つ目の村を見つけ飛竜を降ろしたところで、黒い群れはカロラスの飛竜に追いついた。
 声を張る間も無く、上昇させた飛竜の足元の大地を黒い群れが覆い、村の古びた家々を、雑草に覆われた畑を貪り、過ぎて行く。飽くことなく。
 残った者がいなかったことを願うしかない。
 カロラスは深く息を吐き、柘榴の飛竜の首を巡らせた。
 次の村がどこにあるか、またそれからだ。
 更に南へ進もうとした時、カロラスは視線を東へ向けた。
 大気が震えた。




 波のように迫る無数の鼠の群れはとどまることを知らなかった。
 何度剣を薙いでも瞬く間に飲み込まれる。
 剣を振る腕も石を括り付けたかのように重い。
 膝の力が抜け、ユージュは思わずよろめいた。背中が何かにぶつかり、見上げた視線が女性の横顔の彫刻を捉える。
「母さん」
 門に刻まれたフィオリ・エルベの面差し。もう門まで押し込まれていることに愕然とする。
 街はすぐそこだ。鼠が雪崩れ込めば、あっという間に食い尽くされる。
「ユージュ、もういい、退け! 俺が抑える!」
 ザインの声。剣の光。
 ユージュは門をまた見上げた。
(母さん)
 母が守った街だ。
 今度は自分が守ると決めていた。父と共に。
 何よりもこの門に、あの黒い群れに触れさせたくなかった。
 重い腕を上げ、薙ぐ。迸る剣光が黒い群れを散らす。
 その光を飲み込み、群れが迫る。
 剣を薙ごうとし、膝が落ちた。
「ユージュ!」
 ザインの剣がユージュの前方を薙ぐ。
「トールゲイン殿! お願いします、ユージュを港へ! ファルカンの船が残っています!」
「父さん、ボクは」
 ザインの声に応えて夜に一際輝く光が群れへと放たれ、束の間、鼠の群れは三十間(訳90m)近く後退した。
 降り立ったトールゲインがユージュの胴を抱え、門を抜けて駆ける。
「降ろしてください、まだ戦える!」
「死ぬまで戦い抜くのだけが戦い方ではない。退く道がまだあるのならな」
 トールゲインの声は息を弾ませることもなく、冷徹だ。
「でも父さんが!」
 無理に降りようと手足をばたつかせても何の甲斐もない。門の向こう、丘の上の父の姿がみるみる遠去かる。眼差しが闇を切り裂く剣光だけを捉える。
「それにあれに喰われて死ぬのは、むごい。苦痛も――剣士としても。お前にその死は早い」
「ボクは――」
 丘の上に光が膨れ上がる。ザインのものだと判った。
 そこに感じる、込められようとしている、ザインの剣の持つ、全ての力――
「父さん! お願い、降ろし――」
 トールゲインはぴたりと足を止めた。まだ街の半ばだ。
 降ろしてくれるのかとユージュはトールゲインの顔を見上げた。
 その双眸が空へ向けられている。
「トール……」
 坂の下、まだ暗い港には灯りを灯した船が揺れている。ファルカンの、レガージュ船団の船。街は静かで、人っこ一人いない。
 丘の上――
 音が消えている。群れの立てる耳障りな蠢きが。
 世界はぴんと、細く脆い糸を張ったように張り詰めた。
「何――」


 トールゲインがユージュを連れて行くのを視界の端に見送り、ザインは剣を薙いだ。
 一旦は三十間後退した群れは、もうその半分の距離を潰して迫っている。
 際限のないそれはナジャルの貪欲さを端的に表している。
 これまで喰らってきた命の数、なおも満ち足りず喰らおうとする在り方。
 踵が硬い石に当たる。街の門。見上げた先の横顔。
「フィオリ――」
 両足を広く開いて石畳を踏み、膝を沈める。
 斜め下に引いた剣に、意識と力を乗せる。持てる全てを乗せたとして、薙ぎ払えるのは半径、七十間ほどか。
「僅かも持たないな」
 それでも、ユージュとトールゲインが船に乗る時間は作れる。
 本音はその後、最後の戦場でこの剣が折れるまででも戦いたかったが――
(レオアリス、お前に託す)
 必ず、ナジャルを倒せるはずだ。
 右腕の剣が光を纏う。夜の中に、そこに太陽を落としたようだ。
 視界を埋めて迫る黒い群れ。
 踏み込もうとした、その時――




 それはシメノス下流、北岸を後退していたケストナーの南方軍も同様だった。
 既に第四陣までの防御壁は群れに呑み込まれ、弓も光弾も、エストの剣でさえ、群れを押し留めるには至らない。
 黒い群れは後退する南方軍の後尾に到達し、兵達を無惨に呑んだ。
「閣下、これ以上は――」
 飛竜での移送も到底間に合わない。
 騎馬は疲弊しきって倒れ、徒歩で進もうとする兵達の足もほとんどが止まっている。
 参謀長イルファンは後陣を呑み込み始めた群れを、諦めと共に見渡した。耳を塞ぎたくなる悲鳴、苦鳴が響いてくる。それが部隊全体を覆うのは既に避けようがない結末だと思った。
「せめて、閣下は上空へ――ボードヴィルへお戻りください」
「ふざけたことを言うな! 俺はここから動かん」
「閣下!」
「俺一人戻って、指揮する部下がいないなど何の意味も無い! どれほど無様で無能なのだ!」
「閣下ッ」
 なおも言い募ろうとするイルファンの手を払い、ケストナーは騎馬の手綱を握った。
 自分の最期は戦場であれと願っていた。
 それが今だというだけのことだ。
「誰かは知らんがもう少し、抗える場を用意してくれていたらなお良かったものを」
 引こうとした手綱をイルファンの手が掴む。
「イルファン!」
「閣下!」
 その響きはそれまでの制止の意図とは異なった。
 イルファンが示す指の先――後陣へ襲いかかる黒い波。
 その動きが、止まっていた。
 張り詰めた静寂が、一瞬苦鳴すら呑む。
 ケストナーは太い眉を寄せ、闇を見透かした。遠く。
「何だ――」
 一呼吸後――

 南方軍の目の前で。
 ザインの前で。
 カロラスの飛竜の足元、シメノス下流の南岸を侵食していた群れも。


 視界を埋め尽くしていた黒い群れは、岸を離れる急速な波の流れのように、地を這う音を立て、引いた。





 レオアリスは瞳を開け、全身を覆うように広がる空を見た。ぼんやりとした視界が次第に形を整え、斜め上に半分に欠けた月が見えた。
 その月の横――僅かに光を受けて。
 上空を覆っていた黒雲が、渦を巻くように一点に集中していく。
 切り離され、分散していたものが全て、そこに集まり形を成していく。
 月光を弾く銀色は、長く連なりとぐろを巻く鱗だ。
 空と地を繋ぐ躯。
 奈落の如き赤黒い口と牙。
 赤く血を滲ませたような銀の双眸。


 四十間に及ぶ長大な蛇体が、そこに在った。











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2021.6.13
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