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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

四十二



 喉の奥から迫り上がった血を吐き出す。思いのほか足元を染めた。
 レオアリスは手の甲で口の端を拭った。
 出血はすぐに収まり、ただ喉に血の味が残る。呼吸がしにくい。
 このまま繰り返す時の中に閉じ込められれば、ナジャルの本体どころか本質にも届かずに終わる。
(でも、これは)
 膝が下草に落ちる。溜まっていた血が僅かに飛沫を上げ、黒い軍服に幾つかの小さな染みを付ける。
 血が流れ過ぎた。身体が重い。視界が揺れる。
「ああ、でも、やっぱり――」
 違和感の原因はこれだ。
 何度も繰り返している。返る傷。カラヴィアスの位置、プラドの位置。繰り返す都度、二人は初めの場所に戻る。レオアリスを制止しようとカラヴィアスが声を上げ、そして気付けば返る力が胸を裂いていた。
 けれどレオアリスに剣を振った感覚はない。戻るのは、剣を振った直後だ。
 力が返ったその瞬間。
 だから剣を止めようがない。既に剣は振られた後で、自身に返るその力を防ぎようがない。
 それでも――異なるところがある。
「ッ」
 気付けば立っていて、右胸が裂傷を刻み、血を噴き出す。
 膝が落ち、今度は左手を地面についた。
 やはり違う。
 傷は重なる。同じ深さだが、僅かずつ深く食い込む。
 落ちた血が足元を染める。血溜まりは広がる。
(だからこそ、これは完全な繰り返しじゃない――)
 繰り返しているのは事象だけだ。
 目の前のこの存在が作用しているのは間違いない。無形。それから青年と、老人。ナジャルの本質を表す三体。
 おそらくレオアリスとプラド、カラヴィアス以外は、この繰り返しの中にいないのだ。そうでなければ意味がない。
 ナジャル自身が同じ繰り返しの中にいては。
『我がボードヴィルを喰らう間』
(ファルシオン殿下――)
 今、ボードヴィルにいるのは正規軍、近衛師団。
 アスタロト。怪我をしている。どんな状態か判らない。
 ティルファングとティエラ。
 ナジャルは喰らおうと思えば、城ごと呑むのではないか。
 そのナジャルを止め、アルジマールの多重陣へと追い込むのがレオアリスの役割だった。
 焦りを噛み殺す。
(大丈夫、抜けられる)
 時の完全なる繰り返しでなければ、事象を創り出している目の前の存在を倒せば終わる。必ず。
 その方法を探せ。時の循環から抜け出す方法を。
 これ以上傷を重ね、動けなくなる前に。




 時が戻る――
 ほんの僅か。
 プラドは肩に返った傷を何度目か見下ろした。
 繰り返すごとに深く食い込み、血が不足し始めている。
 攻撃を重ねた訳ではない。
 戻るのは攻撃を加えた後、傷を負った瞬間からだ。だからこそくつがえしようがない。
 繰り返す前は、カラヴィアスがプラドの二撃目を止めた。
 そのカラヴィアスは姿が見えない。レオアリスの姿も。
 今いるのはプラドと目の前の『老人』のみ、どこまでもナジャルが組み上げた世界だ。
(その欠片の一つか)
 この場から動こうと向けた足は、数歩踏み出したところで初めの位置を踏む。
 左肩に衝撃を覚える。鎖骨を断って食い込む。
 沈みかけた膝を踏み止め、プラドは身を起こした。
(一つ)
 剣を見る。
 鼓動を三つ刻むほどの、ゆっくりとした明滅。
(二つ)
 目の前の『老人』はただそこに存在するだけで、自ら仕掛ける様子はない。
(三つ)
「足止めか」
『ボードヴィルを喰らうまで』と
(ティエラ――)
 四つ。
 剣の明滅。
 左肩に衝撃を覚える。裂傷が更に食い込む。
 心臓へ。
「ちょうど五つ――」
 繰り返す間隔だ。
(一つ)
 剣が風を纏う。
 高めるのは一瞬、繰り返す直前。
「強引に打ち破るのみだ」
 三つ。
 おそらく、それを自分一人で為すのは難しい。
(腕一本――)
 プラドは風を纏った剣を、『老人』へ突き出した。突く半ばで刃を立てる。断つのではなく、貫く。
 狙いは左腕、下腕――
(五つ)
 貫いた、と見えた瞬間、プラドの左下腕から血が噴き出した。
 同じく、左肩の傷も繰り返す。
「間隔は変わらないか。だが数えやすい」
 一つ。
 プラドは右腕の剣に風を纏わせた。
「レオアリス」
 自分の言った言葉を覚えているのなら、この輪を抜ける道はある。




 プラドの剣の気配が意識に触れた。
 鋭く一瞬、剣が走ったと感じ、拭い去ったようにまるきり失せる。
 時が繰り返した為だと判る。
 直後にレオアリスの右胸に、裂傷が重なって刻まれる。血の味と、薄い呼吸。
 ただ、先程の気配は繰り返しの中に新たに生まれたものだ。
「プラドさん――」
 プラドが『老人』を斬ることで時の輪を崩そうとしているのが分かる。けれどそれは無謀に思える。
 何度も重ねれば重ねるだけ、自らを刻むことになる。いずれ力尽きてしまう。
 再び、プラドの剣の気配が高まる。
 後方。
「プラドさん、駄目だ! まだ抜け出す方法が」
 振り返って叫び、レオアリスは瞳を見開いた。
 レオアリスの視界にあるプラドは、レオアリスに駆け寄ろうとしているところだ。
 剣は顕しているが、その剣は風を纏ってはいない。
「違うのか」
 レオアリスとプラドが繰り返している時は、異なる。
 直後、左脇腹から右胸へ、裂傷が走る。
 呼吸を失い、レオアリスは辛うじて右足を後ろへつき、倒れかかった身体を踏み留めた。
 立っているのがやっと、限界はもうすぐそこだ。
 自分達だけが繰り返していること、三人それぞれの時が異なることを、プラドとカラヴィアスにどうにかしてに伝えたい。そこに切り抜ける答えがあるはずだ。
 でもどうやって伝えればいい?
(伝える――?)
 この閉ざされた時の輪の中で、互いの声すら交わすことはできない。
「何か、伝えようとしてるのか」
 何を――プラドが伝えようとしているのはおそらく、いや、確実に、この状況を抜け出す為の手段だ。
(この目の前の相手を倒そうとしてる――それは三人とも同じはず)
 プラドの剣の力が高まり、消える。
 一呼吸の後、レオアリスの右胸へ、裂傷が走る。
 プラドとレオアリスの時が戻る間隔は、僅かにずれている。
(同じじゃない)
 脳裏に光が瞬く。
(解った)
 プラドが伝えようとしているのは、倒す瞬間のことだ。
 外に伝わる唯一の手段として、剣の力を高め、放つ。何度も、レオアリスが気付くまで何度となく。
 レオアリスは両手の剣を握り込んだ。
 傷を重ね続け、もう限界だ。目が霞み、手の力が感じられない。
 後二回が限度――そこまでも保つかどうか。
 だから攻撃はただ一度、そこに最大の力を乗せる。
 けれどもし最大の力を乗せた自らの剣の力が、そのまま返ったら――
(いいや。プラドさんが言ったじゃないか)
 剣士の剣は、望まない相手を傷付けないと。
 レオアリスがバインドごと母を斬ったと、そう考えていることに対する、慰めかもしれない。
 けれど、今はそこに可能性を見出せる。
(なら、自分自身を斬らないこともできるはずだ)
 その制御ももうできる、はずだ。
 だから、躊躇う必要はない。
 ナジャルがレオアリスの剣ではなく自らの力を返すとしても、それを上回る損傷をナジャルに与えれば、目的は達成される。
 やはりプラドが言ったのだ。
 この本質を倒すことが、ナジャルの本体を引き出す近道だと。
 意識を集中させる。剣へ。
 鋭く、そして自らの意図するままに。
 斬るのはナジャルだ。
 ナジャルの本質は三つに分かれたが、三体が異なる存在という訳ではない。
 同一のもの――
「一体ずつ斬っても、意味がない」
 必要なのは、三体同時に斬ることだ。
 プラドの剣の高まりが、その瞬間を伝えている。




 プラドの剣に呼応するようにレオアリスの剣の気配が高まっていく。
 プラドは血溜まりに足を踏み出した。
「気付いたか」
 あと一度、保つか――
「カラヴィアス殿は――気にするだけ愚問か」
 気付いている。そして合わせてくるだろう。
(三つ)
 霞む目を一度強く瞑り、開く。
 右腕の剣に意識を巡らせる。
(四つ)
 剣の力を最大限、高めた。風が大気を切り裂き吹き上がる。
 踏み込む。




 風と、そして雷、二つの剣の気配が同時に高まっていく。
「大胆だな。無謀とも思うが」
 カラヴィアスは目の前の『青年』を見据えた。首元の赤い石に触れる。ルベル・カリマの長が所有する石は、原初の竜オルゲンガルムの息を凝らせたものだ。並大抵の外部作用ならば無効化するこの石の影響で、カラヴィアス自身はまだ攻撃を受けてはいない。
 だが、繰り返す時の中にいる。
 レオアリスとプラドはその都度、返る損傷を身に重ねている。
 ただ今、二人はそれを打ち破ろうとしていた。
 攻撃は自身に返るというのならば、剣に力を乗せればのせるほど、返る力は命を切り落とそうとするだろう。
「だからと言って事態が打開できないのならば、躊躇う意味もない」
 抜け出さず繰り返し続けるのか、抜け出す為に自らに剣を受けるのか。いずれにしても、その先にあるのは滅びでしかないのなら。
 カラヴィアスの右腕に顕れた剣が纏う熱を上昇させる。
 剣の熱と同様に、風と、そして雷のような空気が爆ぜる気配が急速に増していく。
(戦える力を残せと注文するのは困難か――)
 だが。
「レオアリス、プラド。我々は確実に、本体に近付いているぞ」




 三つの剣の力が瞬時に膨れ上がり、目の前の存在へと流れる。
 青い輝き、風と、白熱した剣が三つの存在をそれぞれ捉える。
「振り抜け」











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2021.6.6
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