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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

四十


 

『そこに在り続けよ。我がボードヴィルを喰らう間』

 レオアリスは再び血を噴き出した右胸を見下ろした。
 二度目だ。その位置も、深さも初めに返されたそれと寸分変わらない。
 視線を向けた先、カラヴィアスとプラドは離れた場所にいて、レオアリスへと駆け寄ろうとしている。
 たった今起きたことの繰り返し。
 ほんの少しだけ、時間が戻ったかのようだ。
 逃れるのは不可能だと、ナジャルは言った。
(そうか)
 朧げながら理解する。
 ナジャルの本質を具象化した三体――青年、老人、無形。
 それらが表すのは『時』だ。
 悠久を生きる存在。死を司る存在。掴むこともとどめることも叶わない存在。
 だが判ったところで、それだけでは何の意味もない。
 ナジャルは喰らうだろう。本体を引き出し倒さない限り、喰らうものがなくなるまで、この地上の命を。
『無形』は先ほどと変わらず、レオアリスの目の前にいる。ただ攻撃してくる様子は無い。
 レオアリスから攻撃をしかけても返るだけだからか。
 それとも一度受けたこの傷、この時が繰り返すからか。
 ナジャルはただ待っていればレオアリス達は自滅する――それとも、抜け出せないままここに永久に留められるのか。
(そこまで、何度でも繰り返すのか?)
 それこそ永久に?
 そんなことが可能だろうか。
(後少しだ。後少しで本体に手が届くところまで来たんだ)
 その為には、この状況を抜け、目の前の存在を斬る必要がある。
 右胸にまた衝撃を覚えた。
 視線を向けた先、右胸が新たな血を噴き出している。軍服に血の色が重なって滲む。
(また――)
 開いた傷が回復し始める時間も無い。
 両手の剣を握り込み、その存在を確認する。噴き出した血はすぐに止まる。
 カラヴィアスとプラドの位置は先ほどと変わらない。
 無形、青年、老人の三つの存在の位置も。
(意識しろ。いつ繰り返すのか。その瞬間が判れば、その前に動く)
 繰り返しではない、異なる行動を取ったとしたらどうか。
 目の前の無形ではなく、カラヴィアスかプラドの前にいるどちらかを、もしくは両方を斬れば。
 それとも三体を同時に斬れば、或いは――
「ッ」
 踏み出した足が止まる。
 レオアリスは苦痛を喉の奥に飲み込んだ。
(……駄目だ)
 四度目――、左の脇腹から右胸にかけて血が吹き出している。
 戻る瞬間、境い目すら判らなかった。
 身体を支え切れずよろめく。
 同じ場所に傷が重なる度、その分血が流れ、失われていくのが分かる。
(このままじゃ肺に届く)
 回復が遅いこの状況でそこまで損傷を負えば、すぐに動けなくなることは容易に想像できた。
 抜け出す手段が見つからない限り、どこまでも、何度でも繰り返される。
 レオアリス達をここに足止めし、ナジャルはボードヴィルにいる正規軍と近衛師団の兵達を、それからファルシオンを喰らうだろう。
(殿下)
 抜け出さなくては。
(でもどうすればいい)
 こんな現象を経験したことがない。
 法術ならば多少の対抗もできる。けれどこれは原理が判らない。
 刻まれ続けるだけだ。
 その間にもナジャルは――
 何か、微かに引っかかった。
 ほんの少し、伸ばした指先が辛うじて触れる程度のそれ。
(何だ――)
 違和感の理由が掴めない。けれど確かにある。
(何だ)
 ナジャルの目的に対しての違和感か。
 時が戻る絡繰りにか。
「レオアリス!」
 カラヴィアスの同じ制止の声。
 また同じだ。
 左脇から右胸にかけて、裂傷が走り血が噴き出す。これで五度。
 喉の奥から血が溢れた。
 舌に血の味を感じる。
(肺に――)








 三つの首が至近で揺れる。
 クライフはうつ伏せに近い状態で、背後のそれに視線だけを向けた。
 めりめりと音を立て裂ける顎、生臭さと腐臭の混じり合った息が首筋に掛かる。
 それは紛れもなく、恐怖だった。指先がここまで震えるのは生まれて初めてだ。
 ここから動いても、もう間に合わない。
 剣を探せば幾つか兵士達の亡骸の間に落ちている。手を伸ばせる範囲に一本、半間ほど下に一本。
(あれを掴んで、振り返り様で突き刺す)
 それでも一体が限度だ。一体を相手にすることすら間に合うかどうか。
 腕を食い千切られ苦痛に呻いていた兵士が、首が立てる音に気付いて顔を上げる。
「ひっ――」
 兵士は精神の糸をぶつりと切らし、喚きながら遺体の山の上を這った。
「馬鹿野郎!」
 首が一つ、クライフを越して兵を追いかける。まだ二つ後ろにいるが、クライフは片腕で身体を、前へ押し出した。
 手を伸ばし、剣を掴み、兵を追った首へ下から斬りつける。剣は弾かれ、手から簡単に飛んだ。
 兵を追った首が振り返る。その顔は苦悶に満ちながらニタニタと笑っている。
 背後の二つの首が動く。クライフの背へ。
 手を伸ばしたがもう一本の剣は遠い。
 折れている左脚に脳天を突き抜けるような痛みが走った。視線を向けた先、首の一つが左足首に食らい付いている。
 そのままクライフを、宙へ吊り上げた。
 折れた膝が捻れ叫び声が喉から洩れる。残り二つの首が鎌首を上げる。
 そこへ太い声が降った。
「クライフ!」
 城壁から黒々とした塊が落ちる。
 塊りはクライフを吊り上げた首に落ち、銀色の切っ先が首の下から突き出した。
 ワッツと、ワッツの手にした剣だ。首に深々と突き立てている。
 首はクライフを放り出し兵達の遺体の山に落ちた。ワッツは転がり落ちながらも身を起こし、もう一振り、腰に帯びた剣を引き抜くと、自分を追ってきた二つ目の首の額に突き立てた。
 放り投げられたクライフは苦痛と呻き声を飲み込み、手近な剣を掴み、兵との間にいた首の、頬から頭蓋にかけて突き刺した。
 意識が遠退きかけては、左膝が生む激しい痛みに引き戻される。
 すぐ傍にワッツが立ったのが分かる。クライフは何とか目を開け、ワッツを見上げた。
「助かった――、死んだと思った」
「間に合ってよかったぜ。――膝は」
 眉を顰めているような声だ。クライフ自身目で見て確かめなくても、膝そのものが破壊されているのが判った。
「命があっただけマシだ。とにかく場内に戻るぞ。動けねぇなら抱き抱えてってやる」
「最悪だ」
 クライフの返答にワッツは口元をひん曲げて笑い、汗や血で汚れた顔を空へ上げた。首がこれ以上降りてこない理由は一つだ。
 空に時折光を放つ白い剣光、そして炎。
 それ以上に、全ての首が砦城の一点へ向かっている。
「くそ、殿下を狙ってやがる」





「ファルシオン殿下!」
 セルファンはファルシオンを抱え、廊下への扉を開けた。
 セルファンの第三大隊隊士と第二大隊――クライフの部下達が廊下に待機している。窓の外へ視線を向け、いつでも剣を抜けるよう鞘に手をかけている。彼等の視線の先、並ぶ窓の向こうに、上空から降りてくる長い首が見えた。
 蛇の首と人の顔――身体の芯に走った本能的な忌避感、不快感、そしてじわりと滲む恐怖。
 それを振り払う。
「法術士はいるか!」
 ファルシオンは小さな体全体を硬く強ばらせ、喘鳴と、時折喉の奥に短い息を吸い込んでいる。その笛に似た音。
「私が――!」
 隊士達の間から駆け寄ったのは法術院の術士だ。よわい六十を超えているだろう老術師は室内に駆け入り、長椅子に横たえられたファルシオンの傍に膝をついた。
 間を置かず詠唱が流れる。
 セルファンはその段階になり、アスタロトが置かれていた状況に思い至った。
「待て――術は、」
 老術士はセルファンに一度視線を向け首を振り、詠唱を続けた。
「貴方の身が」
 ファルシオンにかざした手が柔らかな光を帯びる。光はファルシオンの身体を包み込んだ。
 途切れ途切れだった呼吸が緩く、そして穏やかに変わる。
 ほっとしかけた、直後――
 老術士の手が黒く染まった。一瞬の事だ。
 引き離そうとしたセルファンの手は空を切った。
 老法術士の身体は、苦悶の声を上げた次の瞬間には、砂でできていた人形のように崩れた。
「術士殿――!」
 激しい動揺を束の間で押しやり、セルファンは息を吐くとファルシオンの顔を覗き込んだ。晴れかけた眉根は再び苦痛を抑え込んで寄せられ、呼吸が荒さを増していく。
 それでも、老法術士の法術が苦痛を束の間和らげたのは確かだ。
 床に僅かに残された法衣へ視線を向け、セルファンはただ黙礼した。黙礼の奥からやり場のない怒りを覚える。
(自分自身では何も、できないとは――)
 ファルシオンを蝕もうとしているものを取り除くのは、法術では難しい。
 ナジャルを倒すことが最も確実なのだろう。だがそれがいつになるか。レオアリス達に任せるしかない。
「外の、状況を逐一知らせるように」
 廊下へ声をかけ、答えの代わりに背後で鳴った足音に、セルファンは顔を上げた。
 振り返った先、戸口に立っているのは確か――
「レーヴァレイン殿?」
 ルベル・カリマのレーヴァレインだ。日中のナジャルとの戦いで負傷し、それ以降意識が戻らずにいた。
 今はどこも不調などなさそうに見える。
 詰めていた息を吐き、セルファンはレーヴァレインへ向き直った。
「意識が戻られたのですね。身体はもうよろしいのですか」
「――大丈夫」
 声は掠れているが、口元には僅かに笑みを浮かべている。
「私が、ファルシオン殿下からその闇を取り除こう」
「可能ですか、それが」
 咳き込むように尋ねる。
 剣士ならば確かに、ファルシオンを蝕む闇を取り除けるかもしれない。
 レーヴァレインは頷き、右腕に剣を顕した。











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2021.5.30
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