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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』




「ハイマンス――!」
 手を伸ばそうとしたが、右腕は肩から動かない。
 自分自身からも、血が急速に失われていくのが分かった。
 つんのめって城壁に倒れ、左腕で身体を支えた。霞む視界が辛うじて状況を捉える。
 二重の防御陣が切り裂かれている。白い光の壁はただの布のように束の間はためき・・・・、大気に溶けて消えた。
 城壁に、縦に三筋、亀裂が走っている。長く、下へ――、城壁の下に続く岸壁にも。
 岸壁の下部に行くほど亀裂は深い。そのことに腹の底が冷える。
 海皇が、三叉鉾を振るったのだ。
 たった一度の斬撃で、二重の防御陣も城壁も、薄紙の如く容易く切り裂かれた。城壁の混乱が膜を隔てたように耳に届く。
「閣下!」
 誰かが倒れかかったタウゼンの身体を支え、呼んでいる。目を上げた正面に霞がかって映る姿は、西方第七大隊少将のゼンだ。
「……防、防御陣を、張り直せ……」
 朦朧とした言葉に、ゼンが答える。「既に――閣下はまず治癒を!」
 すぐそばに降り立った法術士が治癒の詠唱を唱えている。重なり流れているのが防御陣の詠唱か。立ち上がろうとしたが、ゼンはタウゼンの無事な方の肩を押さえ、城壁に寄り掛からせた。
「……海皇は」
 ゼンの答えはほんの僅かな間の後、押し出された。
「恐らく、無傷です。闇を伸ばし、浮上してきております。すぐにも、北岸の上に到達するかと」
 声は僅かに震え、ゼンが自分自身を懸命に律しているのが判る。
 ハイマンスが倒れ、そしてタウゼンもまた重傷を負っている。アスタロトはシメノスに落ちまだ戻らない。大将ワッツは南岸への対応に当たっている。
 今、指揮系統が大きく損なわれている。
 城壁も、法術による防御も、海皇の三叉鉾の前には何の意味も無い。
「――私は、問題ない。全ての兵を、防御へ、集中させよ」
 切れ切れに告げるタウゼンの指示に何度も頷き、ゼンは倒れて動かないハイマンスへ短い黙祷を捧げ、立ち上がり駆けて行く。
 タウゼンは極力ゆっくりと息を吐き、視線を、すぐそこに倒れているハイマンスへ向けた。
(ハイマンス)
 タウゼンが正規軍副将軍に就いた時から十年近く、参謀総長を務めてくれていた。これほど呆気なく逝くとは考えていなかった。上半身を二つに断たれ、既に事切れているのが判る。
 タウゼンが致命傷を受けなかったのはハイマンスが前に立ったからだ。
 撒き散らされた血の匂いが重く沈澱している。
(私の覚悟が、足りていなかったか――)
 視線を転じれば、周囲には兵達が同様に身を断たれ、重なり合って倒れている。法術士にも何名かの犠牲が出ていた。城壁には深く三筋の亀裂が刻まれ、血が城壁の上の狭い通路に赤い池を作っている。
(被害は、どれほどあった――、殿下を……)
 城壁が振動し、空気が波打つように揺れた。



 白い光、法術院の術師達が張る法術の光が、再びボードヴィルを包んでいる。
 その光の壁に、海皇は身を左右にゆっくり揺らしながら近付いた。
 ぶつぶつと吐き出され続ける呟きは、意味の汲み取れない怨嗟の響きだ。
 手にした三叉鉾が周囲から生命を吸い上げる。海皇が歩く周囲の草花は瞬く間に枯れ、地面はひび割れた。
「そこで止まれ! それ以上近付くな!」
 悲鳴にも似た声、城壁から降り注ぐ大型弩砲アンブルストの矢が海皇の足元の地面に突き立つ。だが海皇の身体には一筋すら触れ得ず、鋼鉄の矢は闇に巻かれて溶けた。
 右腕が動き、無造作に鉾を振るう。
 三条の刃を受け、結ばれたばかりの防御壁は容易く切り裂かれ、城壁は脆く崩れ落ちて縦に細い亀裂を開けた。
 降り注ぐ瓦礫と血の中へ、海皇は身を揺らし踏み込んだ。崩れた城壁を潜り、城内に入る。
 そこは石造の冷えた廊下だ。右へまっすぐ伸び、その先で緩い弧を描きながら回り込んでいく廊下は、盛り土の上に築かれたボードヴィル砦城の地下二階部分に当たる。
 海皇は首をぎこちなく巡らせ、その視線を一点に据えた。
 何層もの床と壁の向こう、砦城の中心に、光がある。
 黄金の――かつての半身の。
『寄、越……せ……』
「は――放て!」
 廊下の奥から十数本の矢が海皇の纏う闇に突き立ち、溶ける。兵達が三重に並び、再び弓を引き絞る。
 通常の攻撃など無意味だと分かった上で、兵士達が自らの恐怖を抑える為だけの行為でしかない。
 海皇の顔が巡る。
 その面を、兵士達ははっきりと見た。
「――まさか――」
 兵の誰かが呟きを零す。その声に含まれた驚きと――別の何か。
「……陛下だ」
 このボードヴィル砦城にも掲げられている王の肖像と、同じ顔だ。
「そんな馬鹿な」
 海皇は身を揺らし、廊下を塞ぐように並んだ兵達へと歩き始めた。
「あれは、陛下じゃないのか――」
 一瞬、周囲から一切の音がなくなり、空気がぴんと張り詰める。
 三叉鉾が揺れた。
「退――」
 石の床を闇が走り、そこにいた三十名近い兵達の身体を切り裂き、貪った。




「海皇が、城内に入りました!」
 悲鳴のような声が城壁を走る。混乱と動揺が広がっていく。
 タウゼンは意思と、僅かに回復した体力を振り絞り、石のように重い身体を起こして鋭利な亀裂が走る城壁から、見下ろした。その面が、失った血によるもの以上に蒼白さを増す。
 下流側の城壁の一部が断たれ、崩されている。そこから侵入したのだろう。
「閣下!」
「……殿下のもとに、行かせるな」
 その言葉が何よりもまず、口を突いて出た。
 確実に、海皇はファルシオンを目指している。
(――転位を、いや)
「竜騎兵を、いつでも発てるよう、整えよ。すぐに、北方軍も戻るはずだ」
 制御が効かないほど離れるべきではない。対応が可能な範囲で、ファルシオンを退避させる。
「アルジマール殿を」
 戻せば、布陣は崩れる。
(崩れる――)
 ナジャルを倒す為に整え、積み重ねてきたものが。
 ナジャルの力、その不死性が想定を超えていた。
 だが今は何より、ファルシオンの身を護ることが第一だ。
 ふいに、少女の高く澄んだ声が響いた。
「タウゼン!」
 視線を向けた先、アスタロトが柘榴の飛竜から城壁へ降り立ち、駆け寄ってくる。
 タウゼンは息を吐き、よろめいた。アスタロトが手を伸ばしタウゼンの身体を支える。
「――公」
「大丈夫か、タウゼン! その傷――」
 見開いた瞳がタウゼンの傍ら、事切れたハイマンスの丁寧に整えられた亡骸へ、それから兵士達の亡骸へと動く。
「公――申し訳ございません」
 アスタロトは頬に狼狽えた色を一瞬浮かべ、ぐっと唇を引き結んだ。
「それは私だ。遅れて済まない」
 そう言うアスタロト自身も全身に傷を負い、まだ癒えていないのが明らかだ。
「公の、治癒を」
 傍らの法術士へ上げた手を、アスタロトが押さえる。
「私はいい。いや、別のやつに頼むから、タウゼンは自分の身体をまず治せ」
 そう言って身を返し、アスタロトは城壁の声を張り上げた。
「戻ったぞ! みんな退け! あとは私に任せろ!」
 動揺していた兵士達はアスタロトの姿を見て、声を聞き、ようやく落ち着きを取り戻した。
「アスタロト様――!」
「戻られた」
「炎帝公――!」


「兵達は中庭へ――!」
 アスタロトは声を張り上げながら、もう一度周囲の様子を見回した。想像していた以上に悪い。
 おそらく今のボードヴィルに海皇への対抗の手立ては無い。
(私しか)
 その考えは、冷えた手が心臓に触れるように感じられた。
 自分だけ――? レオアリスは、どうしただろう。
 海皇がいて、シメノスにナジャルの姿はない。ずっとシメノスから、ただ眺めていたはずなのに。
(どこに行った)
 身体の芯が冷える。
 レオアリスがここにいない理由をちらりと考える。
 タウゼンの、ハイマンスや兵士達の姿がその理由を暗い方向へ引き寄せる。
 アスタロトは強く首を振り、その不安を払った。
(無事だ、絶対。レーヴさんもいるし、ティルも向かった。それよりも私は、ここを守らなきゃ)
 それは正規軍将軍であるアスタロトの役割だ。
「法術士団、法術院は体制を立て直し、防御強化と攻撃補助」
 ここにいる兵達と、ファルシオンを守る。布陣も繋ぐ。必ずナジャルを倒す。
 手のひらに炎を創り出し、それを掴む。息を吐いた。
 法術士が唱える治癒の光が身体を包み、外傷が癒えていく
「海皇を焼き尽くす!」





(レーヴ)
 ティルファングは柘榴の飛竜を駆り、南岸へと急いだ。
 耳元を過ぎる風の音を圧して、鼓動が早鐘を打っている。
 時間がかかり過ぎたのではないか。もっと早く、ティルファングは戦場を移すべきだった。
「大丈夫だ、レーヴは大丈夫――」
 目指す場所はすぐに分かった。レーヴァレインの剣の気配。
 そして何より、気を逸らそうとしても引き寄せられる、悍ましく重い闇――ナジャルの気配がある。
「いた」
 闇の前にレーヴァレインがいる。剣が白く発光し、その周囲が揺らぐ。
 ティルファングは飛竜の速度を上げた。
 レーヴァレインの剣は、流れるようでとても美しい。苛烈さはないが、気付けば目を奪われた。
 ティルファングにとっては命を救ってくれた人であり、育ててくれた人だ。それよりも、何よりも、一番大事な存在だ。
「レーヴ!」
 呼んだ声と同時に、レーヴァレインは剣を揺らした。流れる風を可視化したような剣筋、その光がナジャルの身体を数十に断つ。
 細切れになった身体が霧散する前に、ティルファングは飛竜の背を蹴り、飛び降りた。ティルファングの手から縦に一閃、光の筋が落ちる。
 ナジャルの身体、その闇を更に断つ。
 剣光が地面に二十間に渡り、深い亀裂を穿った。
 ティルファングは地面に降り立つと同時に足元を蹴り、レーヴァレインの元へ駆け寄った。
「レーヴ!」
「ティル。無事だったね」
 微笑んだその身体は、幾つもの傷を負い血を滴らせている。左腕の義手は失われていた。
 それでも、無事だ。深い安堵にティルファングはほっと息を吐いた。
「間に合って、良かっ」
 レーヴァレインの胸を、闇が貫いた。










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2021.2.7
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