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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

三十八



 百年も年老いたように見える男――それとも女。

 二十代そこそこに見える女であり、男。

 そしてもう一つ、年齢も、性別も、顔すら、目には見えているのに認識し難い存在。


 ナジャルの本質だと、プラドは言った。
 その存在の重さが、辺り一帯になだれ込む。
 大気が全身に伸し掛かる感覚が襲う。靴底が親指の先ほども地面に沈んだ。
 それまで纏っていた黒い霧も闇も無い。それでいて目の前の存在が放つものが身体全体を取り巻き、縛るように感じられた。
 指先まで、塗り固められる。
 地の中へ――身体が沈む。
「レオアリス」
 注意を呼びかけるのはカラヴィアスの声だ。
 切り離せ・・・・
 教えられた言葉を小さく繰り返す。
 もうそれはできる。
 左隣でプラドが、右腕の剣を正面に構えた。
「この三体を削れば、本体に辿り着く」
 右端の『老人』が身を揺らす。
『辿り着く――?』
 確かに言葉を発しているのか、頭の奥に直接響くのか、掴みどころがない。
『他愛のない目眩しを破った程度で、我を捉えたつもりかね』
「捉えたさ。そうだろう。他愛ないと貴様が言う目眩しが、貴様にとってどんな意味を持っていたのかを考えればな」
 プラド自身既に左肩だけではなく幾つもの傷を負い、その血はまだ乾いていない。やや離れたところに立つカラヴィアスも同様だ。ナジャルから受けた傷は回復が遅く、少しずつ流れ出す血が体力を削っていく。
 プラドは三つの姿に視線を据えたまま、レオアリス、と呼んだ。
「相手の言葉を耳に入れる必要はない。どのような言葉を弄そうが、ここまで追い詰めたことには間違いがない」
『定命の身ごときが――』
 左端に立つ『青年』が嘲笑う。
『思い上がりもはなはだしい』
 直後、三つの姿が同時に、忽然と消えた。
「! 待て――」
 どこかへ退いたのかと、踏み込みかけたレオアリスの目の前に、その一つがあった。
 顔すら判別し難い、三体目。




 アスタロトは固く閉じていた目を開き、身体を抱え込んでいた腕の力を、そろそろと抜いた。
 ずっと息を飲み込んでいた喉がほぐれ、呻き声が微かに零れる。
「公!」
 声が聞こえた。
 視界と一緒に思考が戻った。
「……こ」
 どこだろう。
 ほんの一瞬前まで身体を苛んでいた苦痛は消えていた。
 どうして。
「公! お身体は」
「タウゼン……」
 目の前にはタウゼンがいて、アスタロトを覗き込んでいた。右肩に巻いた包帯には血が滲み、痛々しい。その様がアスタロトに、今自分がどこにいるのかを思い出させた。
 西方、シメノスの、流域。サランセラム。それから。
「だいじょうぶだ」
 多分、という言葉を飲み込む。
 苦痛を産む原因そのものは消えたが、名残が全身に残っていて、身体を動かすと芯に響いた。
 冷たい石畳に手をつき身を起こそうとして、それを諦め、アスタロトはゆっくり、ほんの少しずつ強ばった身体から力を抜いた。
「ここは――ボードヴィル……?」
「はい」
「状況は」
 タウゼンは一旦言葉を呑み込み、法術士へ治癒を指示するとアスタロトと向き合った。
 伸ばされた法術士の手を一旦押し留め、アスタロトは自らの内側を慎重に探った。ナジャルの影響が断たれたことは感じていたが、万が一がある。
 巡る炎を想像する。
 その熱が身体の強張りをほどき、体内に僅かに残ったおりを消していくのを感じる。
「北へ後退中のケストナーから、ナジャルが放った海魔の残骸が、無数の鼠となり下流域一帯を貪りながら広がっていると、つい先程報告がありました」
 顔を跳ね上げ、ぐっと奥歯を噛む。焼き尽くしたと思っていた。
「海魔の――まだ」
「現在ルベル・カリマの剣士達の協力を得て、周辺地域の残留住民への警告に向かっています。また、飛竜による兵士達の退避も進めておりますが、飛竜の数が圧倒的に不足しています」
 法術士が伸ばした手を今度は断らず、アスタロトは身体を包む治癒の光を感じながら、タウゼンの視線を追い空を見上げた。
 障壁の向こうに蠢く無数の首。あれを掻い潜って飛竜を飛ばすのは困難だ。
「ミラーとランドリー達は、動ける?」
 日中の戦い後、北岸に展開していた東方軍と西方軍の一部、そして南岸に展開した北方軍はこのボードヴィルには収容しきれず、距離を取らせていた。
「既に各隊の竜騎兵に救援に向かわせました」
 今は二里離れた地点にありナジャルの攻撃が及んでいないことを聞き、アスタロトはようやくほっと息を吐いた。
 もう一度空を睨む。黄金混じりの白い障壁の向こうで長い首が無数に蠢く様は、様子を伺って引いているように見える。
 障壁を補強した黄金の光――ファルシオンのそれがナジャルの生み出した怪物を寄せ付けないのだ。
(やっぱり、陛下のお子だ)
 ただファルシオンはまだ幼く、いつまでもは持たないだろう。そしてナジャルがこのまま、手をこまねいているとは思えない。
 このままの状態が続いたとしても、状況は停滞するだけで決着とは程遠い。
 立ち上がり、力が入りづらくよろめく脚をぐっと張った。
「まずは空のあれを、倒さなきゃ……」





「クライフ! どこだ、クライフ!」
 ワッツは城壁の血溜まりの中を踏み分け、声を張り上げた。
 空の首に貪られた兵士達の身体の一部や臓物が血溜まりの中に散らばり、狭い通路の中に血肉の臭気が立ち込めている。
 空は黄金混じりの白い障壁が揺らぎ、その向こうに蠢く無数の首達は障壁を嫌がりながらも、次に砦城の兵達を喰らう時を待ち侘びているようだ。平べったい、苦悶に歪んだ顔。
 視線を引き剥がす。
「――クライフ! 生きてんだろ!」
「……ぅ」
 微かな呻き声に身を返し、耳をそばだてる。
 少し先、通路の片側が半円に張り出した辺りだ。幾つもの亡骸が重なって倒れている。
 駆け寄り、重なる亡骸を一人一人床に横たえ――ただその下にいたのはクライフではなく、若い兵士だった。壁に身を寄せ、血と臓物にまみれたまま震えている。ワッツは首を一つ払った。
「おい、しっかりしろ。怪我はどうだ。生きてるぞお前は」
 二十歳そこそこだろうか。顔を軽く叩き、ざっと見て身体に損傷がないことを確認し、肩に担ぐ。
「もう大丈夫だ。手が空いてる奴いるか! こいつも連れていけ!」
 救護で動いている兵もまばらだが、それでも駆け付けた兵士に引き渡し、ワッツは何度目か、城壁の上を睨むように見回した。
 その視線が一度、空へ向かう。
 絡み合うように蠢く首達の、元兵士達の苦悶に歪んだ面――その中に無いか・・・・・・・
「そんなはずねぇ」
 あんなところを探す意味は無い。
 そもそもクライフには、王都に戻ってやることがあるはずだ。
「ヘタレのまんまでいい訳、ねえだろうが」




 後退する南方軍と黒い群れの間に、白い光が壁となって高く立ち上がる。
 法術士団の構築した防御陣が発動した時、黒々とした鼠の群れは既に残り二百間(約600m)の距離まで迫っていた。
 点々と置かれた防御壁は所々途切れている。法術士が足りず、丘陵地帯を遮るほどの数が置けない。
 だが防御壁は夜の中で輝きを増し、黒い波を受け止めた。騒めく音、防御壁が放つ光が激しく明滅する。
 上空、飛竜の背からケストナーはその光景を見下ろした。
 部隊の後退と同時並行で兵達の輸送は進んでいる。それでも今ケストナーが動かせる竜騎兵は最大三百騎、一騎に騎手含め無理矢理三人を乗せるとしても、一度に運べるのは展開している兵一万名の内、六百人が限度だった。
 数多く運ぶならば一回の移動距離はせいぜい半里。乗せて降ろす、一度の往復には四半刻はかかる。
(あの群れは、あっという間に追いつく)
 群れを堰き止めたと見えたのは束の間で、無数の鼠の群れは瞬く間に防御壁を食い破った。
 エストの剣が奔り、剣光がなだれ込む鼠の大群を撃った。
 ケストナーは引き絞った弓を放った。立て続けに三射。空に並ぶ僅か三十騎の飛竜の背から同じく矢が斉射される。
「ちッ、焼け石に水だな!」
 ケストナーが取った戦術――防御陣を定間隔に置くことで進行速度を妨げながら退くのが、この鼠の群れに対するほぼ唯一の正解と言っていい。
 ただ防御壁は残置型であり、詠唱により維持、補強するものよりも当然脆い。二十名という少数の法術士で設置を繰り返す為に、一箇所の設置に対して必要な人員を割けない。
 退きながら防御壁を設置し、かつ兵を後退させる――限界は遠くはなく、いずれは追い付かれる。
 参謀長イルファンはそれを半刻後と読んでいた。
 エストの力を借りてもだ。
 並大抵の障害など容易く呑み込む、何千、何万という膨大な数の鼠の群れ。
 北の空に、赤い光が瞬いた。第五大隊大将グロウが飛竜を寄せる。
「閣下、第三防衛線の設置完了、第一防衛線内の兵は全て撤退しました」
「おお。――エスト殿!」
 地上へ張り上げた声に応え、もう一閃剣光が閃き、ケストナーのすぐ後方、柘榴の飛竜の背にエストが降り立った。
「退こう。次の防御陣だ」
 飛竜が北へ疾駆を始めた、その足下の地上を黒い波が埋める。
 南方軍が慌ただしく発った、その後の休息地に残る天幕や鉄兜や盾を飲み込み、瞬く間に噛み砕く。
 止まらない進行の先、およそ百五十間先に再び白い光が立ち上がる。
 辺りには群れが草を貪る音と、地表を搔くように移動する擦過音が満ちた。











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2021.5.23
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