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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

三十四



 ボードヴィルの上空にもまた、黒い雲が及んでいた。その中に蠢き、絡まり合う長い首。
 城壁にいた兵士達が悍ましさに身体を震わせ、吐き気を堪えて蹲る。
 首の先に揺れる苦悶に歪んだ顔は、どこかで見ただろうもの――彼等の同僚、アレウス軍兵士達のそれだ。
「喰われたら、俺達も、ああなるのか――」
 呟いた一人の言葉が恐怖を伝播する。
 後退った兵士の一人が石畳の僅かな段差に躓き、尻餅をついた。
 咄嗟に上がった小さな叫びに、城壁上にいた兵士が短く叫んで身を返す。それをきっかけに、兵士達が我先に階下への扉へと詰め掛ける。
 混乱が満ちた。
「落ち着け――!」
 ワッツは混乱を貫く声を張った。「一斉にうごくんじゃねぇ!」
 びくりと兵士達が身体を縮める。彼等の顔を努めて静かに見据える。
「いいから落ち着いて、端から順に下へ避難しろ。ゆっくりだ。ゆっくり。ほら並べ」
 逃げるのは仕方がない。あんなものに対抗できる武器など無い。
「入ったとこで止まるんじゃねぇぞ。入ったら駆け足で下に降りろ」
 やや落ち着きを取り戻した兵達に背を向け、ワッツは再び空を見上げた。無数の顔の中の、見知った幾つかのそれ。
「――ナジャルって存在は、度し難い――」
「ワッツ!」
 城壁上を駆け寄るクライフの姿を見て、ワッツは息を吐いた。
「やべぇなありゃ」
「ああ。俺達のほっそい剣なんざ爪楊枝みてぇなもんだ」
 流れる詠唱に視線を向ける。城壁の上、塔、そして中庭で、法術士達がそれぞれに術式を唱えている。
 詠唱に乗せ、彼等の足元から――内側から光が膨れ上がり、ボードヴィル砦城を囲むように広がった。防御陣だ。
 ワッツは一つ、息を吐いた。
「――つかね。えらく薄く感じるぜ」
 クライフの口調も茶化すようでいて、半ば以上本音に近い。
 空から長い首が一つ、降りてきて光の幕に触れ、幕は数度明滅した。




 タウゼンは中庭に立ったまま、空を見上げた。防御陣の放つ光が中庭を照らし、黒々と影を落としている。
 その光の幕の向こうに揺れる、顔――。下流域に展開していた南方軍将校の顔もある。
「――」
 だが何より懸念を増しているのは、身体を移すことも憚られるまま中庭に横たえられたアスタロトの様子の変化だ。空のあれが現れたことで深く押さえ込んでいるだろう苦痛が増したのか、刻む呼吸が更に早く、断続的になっている。
 まだ中庭にいたファルシオンへ、セルファンが棟内へ入るよう促す。
「王太子殿下、中へ」
 それでもアスタロトをじっと見つめていたが、セルファンに再度促され、
「――わかった」
 ファルシオンは息を吐き、頷いた。




「ほんと最悪だ」
 ティルファングは兵士達の流れに逆らい階段を登ると、城壁の最上階に出た。
 窓から見えていた光景、長い首がまるで蛇壺の中のように空に蠢く様を睨む。
 右腕に剣を顕す。
「全然理解できない」
「私もよ」
 傍らに立ったのはティエラだ。
「命をあんなふうに貶めるのは、容認できない」
 砦城を覆う光の幕は、空から首が振り下ろされるごとに震え、光を揺らす。あと数撃を受ければ防御陣は砕け散りそうに見える。
 防御陣が砕けた場合、再び展開させるまでの護りはティルファングとティエラ、二人にかかっている。
「ナジャルは力を拡散させているような状態ね――本体を引き出せば、消える」
 ティエラの言葉を、ティルファングは眉を顰めたまま聞いた。
「でもそれは、これだけの力を一つに集約させるということになる」
「――どっちにしても、初めから、そういう戦いだ」








 空の目が開く。
 一瞬――、大気が震えた。悲鳴、叫びが甲高く流れる。垂れ下がった数百の首が、うねる。口の端が音を立てて裂け、無数の鋭い歯を剥き出しにした。
 地を撹拌するかのように、一斉に動く。
 カラヴィアスの放った剣光が開いた眼へ奔る。眼を断つ直前で砕け、散った。
 プラドは白光で周囲を切り裂いた。空から垂れ下がって鞭のようにしなり、前後左右から襲い掛かる首を数十、一息に断つ。
 首は断たれた箇所から再び伸び、新たな顔を実らせ、三人を襲った。
 レオアリスは足元へ突っ込んだ首を躱し、二つの剣の軌跡を視界に追いながら、プラドの言葉を繰り返した。話すいとまこそないが、二人はレオアリスが考えを巡らせる時間を作ってくれている。
「三体――初めの……?」
 脳裏を過ぎる記憶に上がる息を抑える。
 初めに吐き出した三体の影――ルシファーと海皇、そして、
 王。
「違う」
 その三体のことではない。
 それらは斬り、滅した。
 カラヴィアスかプラド、その剣の閃光が目の奥に光を刻む。
 脳裏に光が浮かぶ。
「そうか」
 プラドが言っているのは彼が加わった後、この北岸での戦いのことだ。
 ほんの一瞬のことだったが、レオアリスの初撃を受け、ナジャルは三つの姿に分かれた。
 あの時、あれは本質に近かったのではないかと、そう感じた。
 或いはカラヴィアスがそう言っていたか――
(本質?)
 今見るべきは本体ではなく、本質なのか。
 三体はどれも、認識し難かった・・・・・・・。どれほどの歳とも、男とも女とも。
 どのような姿かも。
 目の前に迫った首を避け、足元へと落ちるそれを跳んで躱す。
(今は判らない――けど、あれをまた引っ張り出せれば)
 おそらく、一歩、いや、数歩踏み込める。
 膨大なナジャルという生命の固まりの、その中核へ。
 けれど、その方法は。それがまだ見えない。
(俺の剣で可能なのか?)
 プラドやカラヴィアスがナジャルの意識を引き付けている間に、それを成せるか。
 今の状態では困難だ。もっと鋭く、もっと速く捉えなくては。
 喰われた者達の苦しみを終わらせる為にも。今現在蝕み続ける闇を、消し去る為にも。
(意識を、研ぎ澄ませ。集中を)
 目の前の海魔ではなく、それを生み出す闇でもなく、その奥にあるものに。
 縦横に動く無数の首をプラドとカラヴィアスの剣が断つ。
 断たれて落ちる肉塊の振り撒く体液が地を溶かす。
 雫にすら触れないように身を躱しつつ、レオアリスは剣へ意識を集中した。
 剣が青白い光を増す。
 澄んでいく。
 レオアリスが動いた後、残る光に触れた首が萎び、砕けた。
『あの男――そなたの剣の主の最後の思念をそなたが消したことは、正しかった』
 闇がすぐ側で囁く。
 一瞬止まりかけた足を、動かして地を蹴る。たった今いた場所へ伸びた首を断ったのは、カラヴィアスの剣光だ。
「集中しろ。雑音など消せ」
 カラヴィアスの位置は遠い。
 空の眼が光を増す。
 更に数百、白く細いもの――水母くらげの触手に似た帯が空に生じ、布を掛けるように降った。帯のように見えるそれは、腕だ。
 周囲を覆う。
 前後。
 そして左右。
 ぐるりと輪になって回り、閉じる。
「!」
 囲いが閉じ切る瞬間、プラドが僅かな隙間から身体を滑り込ませた。
 レオアリスの足元が盛り上がる。地面から突き出した白い腕をプラドの剣が断った。
「俺が斬る」
 あくまでも集中しろと指示し、プラドは身を捻るように剣を薙いだ。
 風を纏った剣光が白い腕の檻へ疾る。
 腕の檻は剣光を呑み込んだ。
 プラドが眉を顰め、二撃目を全く同じ場所へ叩き込む。
 それすら飲み込み、白い檻が揺れる。空から数十の首が降りてくる。
 含み笑いが立ち上る。首の先に付いた顔が笑っている。深く裂けた口が異口同音に言葉を発する。
『良くやったと、あの男はそなたを褒めてくれるだろう。さすがは我が剣士、我が意を良く理解していると――』
 ナジャルの意図は解っている。
 耳を傾ける必要などない。
 意識を研ぎ澄まし、剣への集中を高める。右、そして左手に握る剣へ。ほんの僅かずつ、澄んでいく。
 一枚の布のように、或いは空から落ちる滝のように、周囲を覆う白い腕と首が揺れて迫る。
 プラドが地面を突いて右足を深く踏み込み、全身に風を纏った。
 風と剣が一体となる。
 風を纏う刃が笛を鳴らす音を立て、横一閃に薙いだ。
 無数になだれ落ちる白い腕、長い首を断ち、その向こうに夜空を覗かせる。
 新しい空気が肌に触れ、だがそれを拭い去るように闇がレオアリスの周囲に漂った。
『前にも教えてやったろう。あの男は』
 頭の奥で声が鳴るようだ。
『解放されたかった――死にたかったのだと』
 奥歯をきつく噛み締め、意識を剣に集中させる。
『そなたはあの男を守れず、そして死を否定することも選ばなかった。素晴らしい。きっとそなたに感謝している』
 挑発だ。
 ナジャルに王の意思など判りはしない。決して。
 そう解っていても、感情が揺さぶられ、思考がごちゃ混ぜになって頭の奥を巡った。
 両手に握った剣が激しく明滅する。
 澄んだ青から、濃く、だが不安定な光へ――
「レオアリス!」
「!」
 気が付けば首が目の前にあった。
 裂けた顎の、無数に並んだ歯の一つ一つが見て取れる。












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2021.5.9
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