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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

三十三



 トールゲインの腕に伝令使が戻る。
 蜥蜴の姿をしたそれは肩へ上がり、カラヴィアスの言葉を伝えた。一言。
『分かった』と。
 そこに込められた想いを、トールゲインは拳の中に握り込んだ。
「トールゲイン殿」
 カロラスが飛竜を寄せる。
 トールゲインは頷き、眼下のシメノスを見下ろした。
 あの海魔はアスタロトの炎に焼かれ、炭化した黒い岩のようにシメノスの流れを遮っている。この半刻、動きはない。
「この地は落ち着いた。俺は長の元に行く。シメノスを引き続き監視しろ」
 視線を転じ、北岸の丘へ向ける。親指の先ほどにしか見えないが、エリアスとエスト、アレウスの法術士が立ち、その足元にジグムントの亡骸が横たわっている。
 トールゲインは束の間目を閉じ、東の空を見据えた。肌を泡立たせるような感覚が、その奥にある。傍らのカロラスも同じように感じているだろう。
「ナジャル――」
 ここで、倒さなくてはならない。必ず。
 トールゲインが飛竜の手綱を繰ろうとした、その時だ。
 シメノスが騒めいた・・・・
 カロラスが意識を張り詰めたのが判る。
 シメノスの流れの中に浸されていた、黒く炭化した海魔の残骸――それに、変化が生じていた。
 急速に変わる。躯が再び蠢き、膨れ上がり、そして唐突に、破裂した。
「! 飛竜で上がれ!」
 地上へ、トールゲインが声を張る。
 ただ破裂しただけではない。飛び散った無数の欠片――粘着質の液体に似たそれが、シメノスの両岸を埋め尽くすように張り付く。
 一斉に動く。
 視線の先でそれは確かに形を変えた。
 一つ一つはごく小さな、黒い生き物だ。軋る鳴き声を上げ、蠢き、走る。
 鼠の群れ。
「――厄介な」
 カロラスが腹立たしさを含んで押し出す。
 あれに呑まれることが何を意味するか、結果を見なくとも判る。
 鼠の群れは瞬く間に岸壁を駆け登り、南北の岸壁上に、黒い水を流すように広がった。
 丘から剣光が奔り、鼠の群れを薙ぐ。剣光に呑まれた群れの上を波が覆い被さるように、次から次に尽きない黒い群れが埋めていく。
 飛竜が二騎、飛び立った直後、鼠の群れは彼等がいた丘を覆い尽くした。やや遅れた一頭の飛竜の尾に群がる。
 あっという間に全身を鼠の群れに包まれ、飛竜はもがきながら丘に落ちた。
 エリアスの乗騎だ。だが飛竜の背には法術士だけだった。
「エリアス! 何をしている――」
 丘の上に剣光が瞬く。数閃、落ちた飛竜を断ち、群がる鼠の群れを断ち、その熱が溶かす。その後をすぐに別の黒い群れが覆う。
 エリアスはジグムントの亡骸を抱え、丘の上に立ち上がった。
 その身体を掬い上げようと降下したエストの飛竜へ、エリアスは払うように剣を振った。
 エストの飛竜の背に同乗していた法術士が、光弾を降らせる。
 それすら、ただ黒い波に飲まれて消える。
「――もう」
 間に合わない。剣のみでは如何に鋭くとも、無数の、無限に近い鼠の群れを斬り尽くすことなど不可能だ。
 トールゲインは飛竜の背で、右腕の剣に熱を溜めた。
 エリアスの剣が煌々と輝く。自身は既に身体の半分以上を黒い群れに覆われながら、直後、周囲三十間四方を剣光が薙いだ。
 丘が剥き出しになり、束の間の静寂後――群れは瞬く間にその空白を埋め、エリアスへ迫った。
 トールゲインが剣を斬り下ろす。
 上空から丘へ、迸る熱波のような光が、倒れたエリアスの身体ごと、丘を深々と断った。
 エストの飛竜がトールゲインとカロラスの横に寄せる。
「俺が付いていながら――」
 既に黒い群れは深い亀裂を生じた丘すら埋め尽くし、呑み込み、留まることなく北へと流れて行く。
「あれでは、アレウス軍へもすぐに到達する」
 後退したとはいえ、アレウス軍はまだ二里離れたかどうかだろう。
「ここで単体であの群れに対する意味はない。ナジャルが今狙っているのは、おそらく捕食だ」
 ただ大量に貪り喰らう為に。
 恐怖を与える為に。
「エスト殿、アレウス軍へ伝令を。そのまま合流して欲しい。カロラスは南岸へ飛べ。住民達は避難していると聞いているが、万が一残っていれば移動させなくてはならない」
「トールゲイン殿は」
「私はレガージュへ行く。そこもこのまま行けば群れが到達する範囲に入るだろう」
 二人は頷き、エストは法術士を乗せたまま北へと翼を向けた。
 トールゲインは再び伝令使を呼び出し、告げた。ボードヴィルから戻ってくるだろう、クラディアスへ向けてだ。
「ボードヴィルへ戻り、守れ。間を置かずそこも変化が生じる」





 レオアリスは視線を引き寄せられるように、空を見上げた。
 絡み合った肉塊が空に広がる。
 肉塊から数百の首を長く地へ垂らす。一つ一つ、人の顔が付いている。嘲笑うかのように。
 苦悶の声が響く。
 皮膚を這う悍ましさを覚えながら視線は自然、一箇所に吸い寄せられた。
(何だ)
 今や海魔の身体はもとの形を留めず空を覆うほどに広がり、闇か、肉塊か、渦を巻く中心に一つ、巨大な楕円が作り出されていく。
 楕円の中央を割り、一筋の亀裂が走る。
 楕円――目蓋・・だと判る。
 垂らした首が海藻に似て揺らぐ。
「随分と大仰な姿だな」
 カラヴィアスは頬を笑みの形に引き上げた。冷えた怒りがそこに浮かぶ。
「プラド。お前の言う通り、為すべきことは一つだ」
 プラドは視線をレオアリスへ向けた。
「俺とカラヴィアス殿の二人でナジャルを抑える。レオアリス、お前は攻撃を控えて感覚を研ぎ、ナジャルの居所を探り、見付けたら引き摺り出せ」
 プラドの言う真意が見えない。
 ただ一つだけ、腑に落ちたことはあった。
 次々と形を変え生み出される海魔、あれはまだナジャル自身ではない。ナジャルが喰らったものか、或いは膨大なナジャルという存在の、ほんの僅かな欠片が形を取ったもの。
 どれだけ斬ろうとも、ナジャル本体に影響を及ぼす為にはカラヴィアスが以前示唆したとおり、気の遠くなる時間を掛けなくてはならないだろう。
 それは今のやり方では、ナジャルを倒すことは不可能ということだ。こうして実際に相対してみれば、改めてそれが良く判る。際限が無い。汲めども尽きない海の水そのものだ。
 嘲笑うように、愉しむように突き付けられる悪意。
 それでもこの戦いを始めた。
 終わらせる為に。
 その為の猶予が次第に無くなっていることも、肌に触れるように解る。
「ナジャル本体を表に出すには、ナジャルそのものを掴む・・ことが近道だ」
 プラドは既に視線を空に向け、剣に風を纏わせている。
「お前が初めに引き出した、あの三体を」
「初めに――」
 空の眼が、開く。












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2021.5.9
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