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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

三十二



 やや人工的な静けさの中に、幼い響きを残した詠唱だけが途切れることなく流れている。
 周囲を風が吹き抜けていくが、彼の身には一切触れず、服の裾すらそよがせなかった。
 北の方角、およそ四十間(約120m)離れた先に、幾つもの灯りが揺れている。シメノス沿岸、ボードヴィル砦城が夜に掲げる灯だ。
 多重陣の構成に入って、一体どれ程が経ったのか、その感覚を時間的な概念では表すのは難しい。
 実際には組み始めてから六日経ち、今朝、ナジャルの出現に際しその内の二つを発動させた。
(捉えきれなかった。擦り抜けられた。ナジャルをまだ、削りきれてなかった)
 発動させた二重の陣は、予め想定していた結果を見せただけだった。
(もう確認した。今度は足りる)
 そのように周囲は動いている。
 既に一度、手を止めた。
 だからこそこれ以上の停滞は許されない。


 詠唱を途切れなく綴る。術式を書き込み、繋げ、重ねる。何度も。
 何度も。


 多重陣を組み上げる。
 一つの陣をただ幾つか重ねて置いても、それは孤立した複層に過ぎない。それぞれの作用を滞ることなく連動させる為には、陣の構造、組み込む術式を一つ一つ連係させる必要がある。
 それもナジャルの本体――四十間に及ぶとも言われる長大な躯を覆い捕らえる陣を組むともなれば、構成する陣そのものに気の遠くなるほどの精緻さ、複雑さと強靭さを求められる。
 組み違い一つ、綻び一つ許されない。
 通常であれば大規模陣は、複数の法術士が連携して一つの陣を創り上げる。
 アルジマールが今行おうとしている規模の術ともなれば、一人で構築することなどほぼ不可能に近い。
 だがこの戦いにおいて求められているものは、あまりに精緻で僅かのずれ・・も許されないが故に、それを組み、そして発動する術士は結局は一人でなければ不可能だった。
 アルジマールに求められているもの、託されているものはこの戦いの帰趨そのものだ。
『貴方の多重陣が完全に作用しなければ――、院長』
 この戦いの行き着く先は、敗北であり、滅びだと。
『今、この盤面に叶う限り全ての要素、駒が揃っています。ナジャルの膨大な力を削り、打ち破る――おそらくこれが最後の機会でしょう。これらが揃う機会は今回のみ。これを逃せば、ナジャルは一つ一つをただ喰らい、消費していく』
 淡々と、それを成せるかと尋ねた。
 ナジャルを捕らえ、跳ばすことが可能か、と。
 簡単に言ってくれるものだ。
 全くもって。
『貴方にできなければ、他の誰にもできない』
『できるとも――』
 他の誰にもできない。
 自分にしかできない。
 いいや、本当ならば、アルジマールにとってもあまりに膨大なその術式の積み重ねは、手の届かない領域にあるように思えた。
 それでもそれを成せと言うのならば――、アルジマールにしかできないと言うのならば、成すだけだ。
「僕は、できる――できるとも」
 双眸の虹色が輝きを増す。
 血管を血が巡る。
 その瞳の奥に見ているのは、複雑に組み込んでいる法陣の、光の筋の一つ一つ。
 術式の一言、一文、一節。
 どこで繋がり、どこで展開し、どこへ流れていくか。
 えがき、全てを把握し、操り、その為に全身全霊を傾ける。
 それでも――、時間が足りない。








 夜の空を覆い尚も黒く塗り潰すように、高く立ち上がった黒い霧の中に影が浮かぶ。
 レオアリスは喉を反らし上空を見た。
 霧の合間に見え隠れする、鈍色にびいろの鱗。
 長くうねる、あれは、蛇体だ。
 鼓動が跳ねる。
「ナジャルの本体――? 違う、まだ」
 あれも欠片だ。
 まだナジャルの本体ではない。蛇ではなく、海魔とも異なる。複合体に近い。
 それひとつの長さが三間近い、蛇に似た首が七本。その先の顔は悍ましくも人のものだ。地上の者、西海に住む者のそれ。苦悶に顔を歪めたような面が空を緩く行き交い、揺れている。
 身体は獅子に似ながらも硬い鱗に覆われ、脚は三対、それぞれ鎌のように湾曲した鋭い爪を有する。長い尾は先端が三つに分かれ、その先端にも人の頭が生えていた。
 圧迫する気配と本能的な嫌悪に、レオアリスは眉を寄せた。あの海魔が有する顔が恐らくは、ナジャルがかつて飲み込んだ何者かのものだと理解できたからだろう。
 ただ問題は、まだ本体ではないということだ。あれほど剣撃を重ねても尚、本体を引き出すほど削り切れていない。
『お前は、恐れているんだろう』
 ふとプラドの言葉が脳裏をぎる。削り切れていないということと、それはまるで正反対だ。
 だがその言葉に、ナジャルの悪意は更に濃くなった。
(――何だ)
 微かにひっかかるもの。
 暗い空の中、七つの首がゆるりと巡る。
 北――ボードヴィルのある北岸の方向へ。七つそれぞれが口を開き、声を上げる。それは咆哮というより叫び――身を焼かれるような苦痛が混じり合った悲鳴。金属を擦り合わせるようなその音が頭の内側に突き刺さり、奥歯を噛み締める。
 空を、巨大な躯が纏い付く黒い霧ごと動く。北へ。
「行かせない」
 草地を蹴り追おうとしたレオアリスを、カラヴィアスが制する。
 カラヴィアスの双眸が燃える光を帯び、空の海魔を見据える。その光にレオアリスは思わず息を呑んだ。
「虚仮威しだな、所詮は――」
 夜に閃光が走ったと見えた直後、右端の首が根本から血を噴き出した。
 首は薄皮一枚を残し、空から地上へ、血を撒き散らしながら振り子のように揺れ、ぶら下がる。
 それで気が付いた。苦悶に歪んではいるが、その顔に見覚えがある。下流に向かった剣士の一人――
「っ」
 カラヴィアスが再び剣を振るう。僅かに繋いでいた首の皮を断ち、同時に地面を蹴る。地上に落ちた長い首の額に降りると同時に、右腕の剣を突き立てた。
 深く。大地に串刺しにするように突き刺し、そのまま振り抜く。
 白熱する剣光が長い首を縦二つに裂く。
 落ちた首から刻まれた苦悶が消え、その形はぼろりと崩れた。
「――これに意味も価値も無い、ナジャル」
 立ち上がったカラヴィアスは触れ難いほど白熱した気を纏っている。赤味を帯びて揺れる。
「結果、貴様の滅びを早めるだけだ」
 重ねて四閃、剣光が走る。空の胴体を撃ち、切り裂き、血の雨と共に切り裂かれた肉塊、内臓が三人の上へ落ちかかった。
 海魔は首を絡め合い、断たれた肉を融合させた。夜気を焦がす体液が降り注ぐ。
「剣で直接触れるなよ」
 プラドが短く警告し、右腕の剣を振るい、降り注ぐ体液を風で散らした。間髪入れずにカラヴィアスが地を蹴り、高く跳躍する。宙空で身体を縦に半回転させ、融合したばかりの海魔の体を薙いだ。
 カラヴィアスは地面に降り立ち、剣を一つ払った。縦に割かれた海魔の身体がずれる。
「いい加減、互いに面倒なだけだろう――削り合いなど」
 未だ凝る濃い闇へ視線を据える。
 空の海魔が再び融合し、その身体の容積を増して行く様も、カラヴィアスは動じずに見上げた。
「自身の姿を現わしたらどうだ。そうしなければ我々三人の一人とて、明日の陽が沈んでも喰らえんぞ」
 カラヴィアスの静かな怒りが周囲を染めるようだ。
 詰めていた息を吐いたレオアリスのすぐ前に、不意に一羽の鳥が姿を現わした。白頭鷲の姿をした伝令使。
「タウゼン閣下の――」
 掠れた声が流れる。
『公が負傷され、ボードヴィルへ戻られた』
 ナジャルの闇に、身を蝕まれている、と。
 レオアリスは奥歯をきつく噛み締めた。
(アスタロト)
『今だ侵食は止まらず――治癒の法術も逆に喰われる。公ご自身が辛うじて抑え込まれておられる状態だ』
 ナジャルの本体を引き出せば、侵食は止まるだろうと伝令使が軋んだ声で告げる。
『ナジャルの本体を』
 含むような嗤いが耳に触れ、レオアリスは顔を上げた。
 ざらついた悪意。
 歪んだ喜び。
 空で断面と断面とを癒着させ、絡み合う首の一つ。
 その面が、ゆっくりと変わろうとしている。よく知る少女の面影へ――
 純粋な、混じり気のない怒りが突き上がる。
 首はレオアリスの剣から身を避けるように、ゆっくりと空高くへ持ち上がった。
『心を痛める必要などない――我が闇があの娘を貪り尽くせば、ここに新たに生を得る』
「――お前は」
 レオアリスの身を青白い陽炎が取り巻く。
 肩を強く掴まれ、レオアリスは踏み出しかけた足を止めた。首を向けた先、プラドがレオアリスの肩に左手を置いている。
「挑発に乗るな。お前は剣を抑えろ」
「……そんな、状況じゃ」
「怒りに任せて剣を振るえば、奴の思う壺だ。奴はそうさせたいのだからな」
 燻る焦りをぐっと抑える。
 プラドの言うことは良く解る。息を意識して吐く。
「ですが、急がないと」
「そうだ。この状況を変える為にも、可能な限り速やかにナジャルの本体を引き出す必要がある。だからこそお前は冷静になれ」
 レオアリスは空の高い位置に浮かぶ首から視線を逸らし、ゆっくり、溜めていた息を吐いた。
「タウゼン閣下へ、回答を」
 白頭鷲は金色の双眸をレオアリスへ据えた。
「必ず、打開します」
 返答を身に納め、白頭鷲が中空へ消える。
「ナジャルは焦れ始めている」
 プラドの言葉にレオアリスは視線を上げた。
 先ほどの言葉と、それは同じことを指していると解る。
「どういうことですか、ナジャルは――」
 闇が揺れる。
 視線は更に上――、上空へ引き寄せられた。











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2021.5.9
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