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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

三十一


 闇に青白く、光が走る。
 剣を何度合わせても、バインドは受け流すだけでそれ以上踏み込もうとしない。
 焦りが強くなり、胸の奥を塗り潰す。
 早くしなければ。赤子が――自分がまた自分の母親ごと、バインドを斬る、その前に。
「早く――」
 振り下ろした剣を、バインドの剣が再び受け止め、弾く。
 レオアリスは後方へと圧された身体を踏み留め、再び剣を薙いだ。白い剣が受け、弾かれる。そこには戦う意思がない。
「何でだ」
 どうやったら満足する。
 バインドが求めているのが同等の相手との戦いなら、今、自分と戦うことでそれは叶うはずだ。
「俺と、戦え!」
 あくまでもあの場を、母の抱える自分それを見るのならば、もっと。バインドが視線を向けざるを得ない、鋭い一撃を。剣を向けざるを得ない――
 レオアリスの振り下ろした剣を、風を纏ったバインドの左手が、掴んだ。
「!」
 風の障壁を伝い、バインドの手のひらから血が滴る。
 だがレオアリスの剣は固定されたように、僅かも動かない。
 バインドの右の剣が空気を高く鳴らして流れる。レオアリスの喉元へ。
 焦燥がようやく、安堵に変わった。


 これでいい。
 これでもう、あの青い光は現われない。


『自らの命を差し出すか――』
 押さえきれない喜悦を宿した声が辺りに揺れる。


 首へ迫る白刃。
 レオアリスは瞳に映るその光を見つめた。
 これで全てが十八年前から、歯車を変えて動くのなら、それでいい。


 バインドの剣は触れなかった。
 剣は首を断つ、その寸前でぴたりと止まっている。
 焦燥が再び湧き起こった。
「どうして――、何故やめる!? 俺を斬れ!」
 首筋に添えられた剣へ踏み込もうとしたが、引き戻されるようにつんのめった。身体を引き戻したもの――自分の右腕へ視線を向けた。剣を押さえているのはバインドの左手だ。
 バインドの剣がレオアリスの首筋から離れ、降ろされる。
 背後に母の姿が浮かぶ。まるでそれのみがバインドの目的だというように。
 レオアリスは激しく混乱した。
「斬れって言ってるんだ!」
 どちらも動かない。レオアリス自身の剣も、バインドの剣も。
「俺を」
「やめておけ」
 視線が引き寄せられるように、自分の剣を掴むバインドの手へと動いた。
 レオアリスの剣を掴む手はさきほどのまま変わらない。風を纏う・・・・その手。
(風――)
 手のひらから滴る血。
 その手から視線を上げ、二、三度瞬きを重ねた。
 バインド――。
 違う。
 一瞬、闇で覆われた世界が白く染まる。
 心の中に、その白い光が差した。
「……父、さん――?」
 あの時、自分の幻の中に現われたように。あの時向けられた朗らかな、力強い笑み。
 霞んだ視界がすぐに戻る。
 そこに立っているのは父ではなく、プラドだった。
 霞がかっていた視界が拭い去られたような感覚に、肺の奥から息が零れる。
「――プラドさん」
「お前はもうそれを乗り越えている」
 プラドはまだ左手で剣を抑えたまま、レオアリスを見据えた。
「お前が切っ掛けだと? ある訳がない。全ては連綿と続く生命、時の流れの一つだ。どれほど悔やもうと、何度振り返ろうと、一度流れて行けば決して覆ることはない。その流れを変えられもしない。この地に在る者は誰一人――」
 プラドの視線が宙へ動く。
「そこの古い蛇でさえな」
「――」
 そうだ。判っている。
 解っていた。
 それでも――
 プラドはまだレオアリスの剣を掴んだまま、視線をレオアリスへと戻した。
「お前が俺に言ったのだろう。残った者達は幸せだっただろうと。あれは嘘か」
 レオアリスは束の間、喉の奥の見えない塊を飲み込んだ。
 それは違う。決して。
 レオアリスは首を振った。懸命に振る。
「――いいえ」
 違う。
 祖父達の話を聞き、足跡を辿り、誰かの記憶に触れ、レオアリス自身がそう感じていたことだ。
 自分がこれまで生きてきて、何度となく実感したことだ。
「いいえ」
「妹は――お前の母はお前を護り、今、お前がここにいることを誇りに思っているはずだ」
 思考が明瞭さを取り戻す。
 そうしてみれば、何故ナジャルの言葉を信じたのか、自分でも呆れるほどに、愚かだったと判る。
 たった一人の命で、何を贖えるつもりでいたのか。
(そうじゃない)
 プラドの言う通り、自分一人の命で贖えるかどうかを考えること自体、見誤っている。
 不服さと嘲りの混じり合った声が落ちる。
『せっかくの機会を邪魔するとは、残念だ。最早二度と道は開かれぬというのに』
「ナジャル――残念だったな。俺かレオアリスか、どちらかに相手を斬らせるつもりだったのだろうが」
 そうなれば残った方は、いずれにしても冷静さは保てない。
「これほど、策を弄するとは――」
 プラドは闇を見据えた。
 嘲笑でも、挑発でもない声。
「お前は、恐れているんだろう・・・・・・・・・

 無言の闇。


 悪意が一層、濃くなった。


 プラドが剣に風を巻く。
 辺りに燃え盛っていたはずの炎は一切が失せ、周囲を漂い埋める闇の霧を断つ。
 全ては、束の間の内に消えた。
 通常の夜が戻る。
 レオアリスが辺りを見回す間も無く、二人の上に小屋ほどもある影が倒れかかった。左右へ跳んだ二人がそれまでいた場所に、血を撒き散らしながら海魔の身体が音を立て倒れる。
 身を二つに断たれたそれは束の間痙攣し、動きを止めた。
「海魔――」
 見回せば周囲に数十体の海魔が倒れている。
 その中心にいたカラヴィアスはレオアリスとプラドの姿を認め、地面を蹴ると二人の間に降り立った。
「戻ったか。さすがに気を揉んだぞ」
 そう言うカラヴィアス自身の負傷に気付き、レオアリスは驚いて近寄った。左の二の腕に血が滲んでいる。
「怪我を――」
「ああ」と、こともなく、カラヴィアスは自分の左腕を見た。「擦めた程度だが、回復が遅くてな。少しずつ・・・・キツくはなってきた」
 ナジャルから受ける負荷が、と。
「だが想定内だ。この先、もっと負荷が増す。ナジャルもただのうのうと自分の身を削らせるつもりはないだろうからな」
 ここから更に変わる。
 先ほど、プラドの一言で増した悪意を思い起こす。
 レオアリスは息を吐き、カラヴィアスと、それからプラドへ頭を下げた。
「すみません。有難うございました」
「礼を言う必要はない」
 そう言ったプラドを、カラヴィアスがちらりと眺める。
「俺は――母さんのことを、いつも余り考えないようにしていました」
 プラドにあの場がどう見えていたのか判らない。
 ただレオアリスが何を語っているか理解しているのか、プラドは僅かに頷いた。
「それは多分、母さんが俺を、どうやって守ってくれたか、知っていたからです」
 それを認めること――
 自分が母の命を奪ったのではないかと、それを考えることから逃げていた。
「まっすぐ向き合おうとしていなかった。でも、それは間違いだと、今ならわかります。俺が今ここにいるのは、母さんと、父さん、それから貴方達がいるから――」
 レオアリスはもどかしさに首を振った。
「すみません。ちょっと俺は、こんな気持ちを話すのが得意でなくて」
「俺も同じだ。アリア――お前の母もそう言葉の巧みなほうではなかった。血だろう」
 冗談とも取り難く真面目な口調で言い、プラドはレオアリスと正面から向き合うと双眸を捉えた。
「安心しろ。俺達の剣は望まない相手を傷付けない。もともとそういう性質のものだ」
「――」
 それは負担を軽くする為に綴られた言葉だったかもしれない。
 レオアリス自身にその真偽は、もう判らないが。
「――有難うございます」
「さて、落ち着いたならば良し」
 割って入ったのはカラヴィアスだ。右腕の剣が走り、正面に湧き起こっていた闇を断つ。
「まだ一息もつく状態じゃあない」
 再び闇が周囲を覆おうとしている。
 レオアリス、プラドもまた、剣を薙いだ。
 湧き起こった闇を切り裂き、闇が霧散する。レオアリスの剣が草地に亀裂を穿つ。そこを埋めるように再び闇が広がる。際限なく。
 カラヴィアスは息を吐いた。
「全く、無駄な体力を使わされている感覚だ。まあそれが狙いでもあるんだろうが」
「ナジャルを削れているんでしょうか」
「削れてはいる。どの程度か聞きたいか?」
「――いえ」
 聞いたら気が重くなりそうだと、そう思う。
「まあ、悲観するほどじゃ無いが決め手にもなっていないと、それが正しい状況だな」
 レオアリスは深呼吸し、呼吸を整えた。
 カラヴィアスやプラドはやはり力の制御が徹底している。
 剣風が広範囲に及びながらも、地を削ることがない。
 レオアリスの剣は地面に亀裂を穿っているが、それは剣威が大きいこととは異なる。
(もっと、力を集約するんだ)
 そうしなければ保たないのだと。
『長』
 掠れた無機質な声と同時に、カラヴィアスの肩に手のひらほどの大きさの蜥蜴が現われる。
(伝令使――)
 低く、カラヴィアスの耳元にいくつかの言葉を伝える。
 カラヴィアスの眉が曇るのを見て、レオアリスは状況の悪化を悟った。
 二、三言、指示を返し、蜥蜴は溶けるように姿を消した。
「――レオアリス、プラド。悠長に削っている状況ではなくなった」
 それはこれまでの苦笑混じりのものとは異なる。
 その声が告げる。
「ジグムントを失った」
 レオアリスはぐっと息を呑んだ。下流へ向かった七人の剣士の一人だ。
 思い掛けない――いや、覚悟はしていた。代償無くしては勝てないと。
 それでもレオアリスは、全員を、誰も失わずに戦うつもりだった。
 まして剣士だ。他よりも回復力が高く、戦い慣れている。
 失うことなく戦いを終えられると、そう考えていた。
 だが、代償無く戦うことは不可能だと、たった今明確に突き付けられた。
(このままじゃ、いずれ)
「状況は」
 プラドが口調を崩さず、だが厳しさの増した響きで問う。
「アスタロト将軍も深傷を負っている。動けず、ボードヴィルへ戻ったようだ」
 レオアリスは迫り上がる動揺を抑え込んだ。
「アスタロトが――」
「南方軍、西海軍は退いた。だがナジャルが追えないかと問えば、否と返るだろう。如何様にも――喰らいたいと思えばどこまでも手を伸ばす」
「そうだろうな。となれば今すぐ相応の打撃を与えなくては、下流が全滅する可能性もある」
「全滅――」
 その言葉を、否定する根拠がない。
 カラヴィアスは切り替えるように一つ、息を吐いた。
「体力の温存を考えるのは止めだ」
 カラヴィアスの本心ではすぐにでも下流へ行き、氏族の剣士達を支援したいだろう。
 だがその素振りを少しも見せないのは、ここで、ナジャルの本体を削らなくては勝機が無いと、誰もが理解しているからだ。
 カラヴィアスは一歩踏み出した。
 視線の先、闇が湧き起こり、空を覆わんばかりに立ち上がる。
 その中に影が揺れた。
「ナジャルをここに貼り付け、本体を引き摺り出す。まずは海魔だの幻影だの、ふざけた態度を改めてもらわなくてはな」











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2021.5.2
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