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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

三十



「あの二人はどこへ行ったか――」
 カラヴィアスは呟き、辺りを見回した。周囲はまるっきり黒い霧に包まれている。
 切り離せ・・・・と、そう指示した直後には靴先どころか下ろした両手の先すら見えないほどの濃い闇の中にいて、レオアリスとプラド、二人の姿が見えなくなった。十間ほど離れた場所にそれぞれいたはずだ。プラドは下流のシメノス岸壁寄り、レオアリスは内陸上流、やや南側。
 ただ、二人の気配はどちらも曖昧だ。霧の中にはいるが、場所を掴み難い。
(まあレオアリスが先か)
 カラヴィアスは首に巻いた細い革帯の先、鎖骨の間に揺れる小さな石に指先で触れた。小鳥の卵ほどの大きさで、柘榴の実のように艶やかで赤い。
 視線を落としたその中に光が揺れる。
 何度か石を指先で傾け、カラヴィアスは霧の中を歩き出した。
 靴底に意識を向ければ伝わる地面の感覚は霧に包まれる前と変わらず、少し柔らかい草地と、時折親指の先ほどの小石を踏む。石の光が強く揺らぐ方へ進む。
 レオアリスが持っていたそれと似た小さな石は、ルベル・カリマの長を示すものだ。ある一方向へ向かえば、内包する揺らぐような赤は更に濃くなる。それでレオアリスがいる場所が分かる訳ではないが、方角を判断することができた。
 この位置からで言えば南南東、彼等の里のある方角を石は指す。赤竜の存在を。
 カラヴィアス等ルベル・カリマが担うその役目を、如実に表している物だと言えた。
(どこにいようと迷わず里に辿り着けるのが、まあ有り難いところだな)
 もう一つ、カラヴィアスは今、完全に霧の外・・・だった。
 正確には黒い霧に包まれながらもその影響外にある。それはカラヴィアス自身の経験が為せるものでもあるが、この石に依るところも大きい。それからもう一つ、小さめの革袋に納めている代物の。
 その二つは今は微かに熱を帯びている。
「何のつもりか――ナジャルは」
 やることが全て回りくどい。そこに疑問を感じていた。
 ナジャルの意図はどう辿ろうと最終的には喰らうこと、その一点だ。
 ならばただ本体を現わし、一息に喰らえばいい。全てをじ伏せるだけの力が有るのだから。
 このボードヴィル周辺であれば一昼夜もかからず、国一つであっても七日もあれば喰らうだろう。それでも腹は満ちまい。
(ただ愉しむ質なのかもしれないが)
 単純に喰らうだけではもったいないと思っている節がある。恐怖や怒り、嘆きがより味わいを深めるなら尚更。
(理解しかねる――)
 カラヴィアスは視線を動かした。その先、一つの影が浮かぶ。眉をひそめる。
 霧に包まれたぼんやりとした影。下流側にいたはずのプラドだ。
 五間ほど先の位置に立ち、カラヴィアスへは背を向け、意識してかどうか――動かない。
 その更に二間ほど先に、もう一人。
 黒い霧が纏わり付くようにその身を覆っている。
(――レオアリス)
 歩み寄ろうとした足元の地面が、ぼこりと歪み、溶けた。急速に広がる。
 地面を蹴り後方へ退がった直後、十数体の海魔が溶けた地面から次々に身を起こした。十本の触腕を持つもの、海馬と一体になったもの、魚の尾を持つもの、それらがカラヴィアスの前方を塞ぐ。
 先ほど倒した海魔の群れ――百体を越すそれよりも尚、一体一体に凝縮された力を感じる。
「なるほど――、そこへ行かせたくないらしい」
 カラヴィアスの右腕の剣が、白熱した光を帯びた。







 闇が揺れる。
 囁く。

『我が全て変えてやろう。母の死も、父の死も。そなたの一族の滅びも――王の死も』

 囁きだけが世界を埋める。
 辺りに燃え盛る炎、それは闇を照らさない。

『さあ――』

 慈愛に満ちた、母の言葉のように響く。
 差し伸べられた手を取れば、何の問題も憂いも無いのだと。
 差し伸べられた手以外、全ては闇だ。
 その手だけが闇から引き上げる。
「――本当に、変えられるのか」
 戻る――
 全部が?
 初めから無かったことになる。
 自分が原因で父と母が命を落としたことも。
 一族が滅びたことも。
 王を護れなかったことも。
 囁きが深まる。
『贄が要るが、確かに』
 レオアリスは炎の中で身を起こした。
 それならばいいのではないか。
「――本当に、戻るなら――」
 自分のせいで失われた彼等が戻るのならば、その為の代償が自分一人の命ならば。
 微かな含み笑いが忍び入る。
『そう、良い選択だ――』
 見つめる前方で、闇が渦巻いた。
 二間ほど先を中心に、揺れる。それは先ほどバインドの姿が消えた、その場所だ。
 渦巻く闇は形を帯び、現われる。
『だが、我もそなたが望まず置かれた境遇を、不憫と思う』 
 故に、と囁く。
『もう一度選ばせてやろう。初めに示してやった通り。過去を斬るか、己を斬るか』
「斬る――?」
 何を示しているのか、すぐに解った。
 バインドの姿が再び、レオアリスの二間先に立っている。
 ぎくりとして、レオアリスは背後を振り返った。
 すぐそこに、血を流しながらも小さな包みを守るように覆い被さっている、母の。
『そなたとその男、いずれでも良い。いずれかの命を糧としよう』
 激しい鼓動、動揺が心を埋め尽くし、揺さぶった。
「――もう」
 あんな場面は見たくない。二度と。
 バインドが歩み寄る。その右腕に揺れる、炎を纏った剣。
 ゆらりと揺らぐ。
 レオアリスは踏み込み、右手の剣を薙いだ。バインドの剣が動き、レオアリスの剣を受け止める・・・・・
 確かに剣が噛み合う感覚があった。レオアリスの剣を押し戻そうとする、反動。
 戦える・・・
「……俺と戦え。それで満足するなら」
 赤子を両腕の中に抱き締め包み込む、母の姿。
 まだその下から青白い光は顕れていない。
 今なら、まだ間に合う――
 今、この時だけ。
 レオアリスは剣に力を込め、バインドのそれを弾いた。炎を纏った剣を青白い光を纏う剣が追う。
 風を感じた。再び剣を弾き、踏み込み、背後の母子から距離を取る。
 バインドの剣はあくまでも背後の二人を斬りたがっているように、レオアリスの剣をただ躱す。
「駄目だ」
 更に踏み込み、斜め下から剣を、掬い上げるように振った。








 夜の中を飛来した柘榴の飛竜を迎え、ボードヴィルの城壁には松明や角灯の灯りが慌ただしく行き来する。
 報せを受けていたタウゼンは、昼の戦いで片腕を失いまだ重い身体を押して中庭に立ち、降りて来る飛竜を待った。飛竜を操るルベル・カリマの剣士、クラディアスへ目礼を向ける。
 飛竜の背から降ろされたアスタロトは、痛みを抑え込むように身体を硬く丸めている。
「公――」
 タウゼンの声に反応して辛うじて瞼が動き、意識があると判ってタウゼンは眉を寄せた。
(意識がない方が、ましな状態のはず――)
 下流の戦場からは飛竜であれば半刻かからず飛べたはずだが、予め報告に聞いていた状況から考えれば、その苦痛は片時であっても耐え難いだろう。
「とにかく、対処を。ギヴェリ殿、エスカテ殿」
 アスタロトの身体を柔らかな布に包ませて寝かせ、タウゼンはそこに控えていた二人の法術士を振り返った。
 二人はそれぞれ法術院の術士で、ギヴェリは治癒や精神作用系分野の分科の長であり、エスカテも同じく術式補佐を担う羽翼系を束ねる術士だ。二つの分野ではアルジマールに次ぐ実力を有している。
「触れるのは最小限に。法術を喰うだけではない。些細な振動もお身体に響くようだ」
 頷き、二人は寝台に横たえたアスタロトを注意深く検分した。
 中庭は全ての園灯に火が入り、松明が掲げられ、昼に似て明るい。
 その中を、タウゼンが長いと感じるほどの沈黙の後、ギヴェリは厳しい面を上げた。
「どうだ」
 勢いこんで尋ねたタウゼンヘ、ギヴェリが低く声を押し出す。
「ナジャルの闇の影響は、かなり濃いかと。しかしながら、公の御身にある闇を取り除く術をすぐに施せば」
「やめた方がいい。侵食は一瞬で進む」
 そう言ったのはルベル・カリマのクラディアスだ。若い面――だが確実に、法術士達よりも歳を重ねた眼差しがその場を見据える。
「腕を断つ覚悟があれば別だが――それも俺の剣が間に合えばの話だ」
「それは、しかし」
「良い。今貴殿等を失う訳には行かない」
 タウゼンは低く、押さえた声で言った。
 ギヴェリが膝を進める。
「ならばお痛みの軽減だけでも、せめて」
「将軍は半ば無意識に侵食を抑えておられる状態だ。痛みは危険を報せる為のもの、それを抑えれば侵食は却って進行する。全身を蝕むのに時間はかからないだろう」
「ならばどうせよと言うのだ! 公をいつまでこの状態に置いておけと――」
 思わず荒げた声はその半ばですぐに抑えられたが、法術士二人は数歩下がって頭を伏せて自らの力不足を詫び、クラディアスはただ視線を返した。
「いや――失礼をお詫びする」
 タウゼン自身も羞恥を浮かべ、首を振った。
 アスタロトに移した視線には苦悩が滲んでいる。炎帝公、正規軍将軍とはいえ、まだ十代の少女の受けていい苦痛ではない。
(相当の苦痛の中、意識すら手放せないとは)
 青ざめた額に浮かぶ玉のような汗がその身の中の苦痛を伝えている。
「アルジマール院長ならば或いは可能かもしれません」
 法術士の言葉に視線を戻し、タウゼンはギヴェリとエスカテ、そして窓の外を見た。
 アルジマールが今集中して取り組んでいるのは、ナジャルの捕縛陣と転位陣の敷設だ。
 束の間天秤に掛けたのは、このサランセラム、そして下流域にいる兵士達――国内のおよそ一千万の民。
 既にアルジマールは一度術式を中断している。これ以上の中断は別の破滅を引き寄せる。
「――それは、公が望まれまい」
「わたしが――わたしにできることがあれば」
 幼い、けれど威厳を帯びた声にタウゼンは振り返り、素早く膝を下ろした。
 ファルシオンが中庭へ出てくるところだ。
 幼い王子が前に立つのを待ち、だがタウゼンは厳然と首を振った。
「なりません。これはナジャルの闇――公の炎を喰らい、治癒の為の法術、そしてその術師すら喰らいます。殿下の御身に影響が及ぶ可能性が極めて高いのです」
「けど」
 ファルシオンはタウゼンを見返し、そしてもどかしそうに横たわるアスタロトを見つめた。
「アスタロトを、こんなに苦しんだままにしておくなんて、したくない」
「ナジャルからの影響を断つ以外、現時点では確実な術は無いと考えます」
 唇をきゅっと引き結び、ファルシオンは眉を寄せた。
「アルジマール院長の見立てでは、ナジャルが本体を現わせば法陣に捕らえられる――法陣の支配下におけると。つまり、本体を現わすまでに追い詰めれば、この状況を変えられるでしょう。それを待ちます」
 そこに賭けるしか無いというのが正しい。それ以外に今、考え得る方法が無いのだ。
 タウゼンは膝をついたまま、ファルシオンの瞳を見つめた。自分の焦燥をそこに抑えてもいる。
「レオアリス殿、またお二人には伝令使を送りました」
 不安そうな黄金の瞳が、南の方角へと動く。
 レオアリス達がどこまで動けているか。アスタロトさえもがこの状態では、不安ばかりが強くなる。
 ファルシオンは肩を上下させ、息を吐いた。
「――わかった。でも、下流は」
「現在落ち着いており、体制を立て直しております」
 ナジャルの炎に焼かれた兵の被害はまだ把握しきれていない。
 ただ、百や二百では済んでいないのは、ルベル・カリマのクラディアスの報告からも分かっていた。



 クラディアスは踵を返し、控えている柘榴の飛竜へと再び歩み寄った。
 エストはそのままボードヴィルへ留まるよう言ったが、そのつもりは毛頭無い。少しでも下流でのナジャルの動きを抑えることが、カラヴィアス達の勝利に繋がる。
 手綱を掴んだ手を止める。
「クラッド兄」
 駆け寄ったのはティルファングだ。その後ろにベンダバールのティエラの姿もある。
「僕も行く」
 クラディアスはティルファングを睨むように見据え、飛竜の背に跨った。
「だめだ。お前はレーヴの側にいろよ。きっとすぐ目が覚める。それにここでも戦いが起こらない保証はないんだからな」
「長がいる」
「長がいてもだ」
 その言葉が帯びた重さに、ティルファングは束の間、喉の奥に息を飲み込み言葉を探した。
 下流での戦い――ナジャルの力の一端に対峙する戦場と現状がどういうものか、クラディアスの言葉に端的に現れている。
 ナジャルの力の底知れなさ。
 未だその果てを覗けていない。
 ティルファングが迷う間に、クラディアスは飛竜を飛び立たせた。











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2021.5.2
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