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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

二十八



 凛と立つ、その姿に掠れた声が零れる。
「母さん――」
 そうだ。
 若い、自分よりも十歳上かどうかという外見だが、その女性ひとは確かに、自分の母だとわかった。
 顔も、眼差しも、覚えていない。声も。
 どんなふうに話すのか、どんな響きなのかすら知らない。
 真っ直ぐに背の半ばまで伸びた黒髪。同じ色の黒い瞳はどこか見覚えがあり、懐かしい。
 今その瞳にある深い憂い、悲しみは、きっとレオアリスが知っている理由の為だ。
 父――ジンが喪われたこと。
 心臓が掴まれたように胸が苦しくなる。そこに満ちてくるのは罪悪感を含んだ想いだ。
 父の姿を王城の中に探している間も、普段の何気ない時間の間も自分はずっと、この女性ひとのことを思い起こさないようにしていた。無意識に。
「何で、ここに――」
 自分の呟きに打たれ、はっとしてレオアリスは身を返した。
(バインド――!)
 かつて倒したはずのバインドの姿がそこにある。
 ゆっくりと歩み寄る、右腕の剣に揺れる炎。
 戦いの相手を求め、周囲を炙り続ける炎。炎は剣から止め処なく滴り、自身の足元を埋めて行く。
(ここは)
 改めて意識する。十八年前の黒森――ジンとの戦いの、直後だ。
 ジンを斬った後、バインドは更なる戦いを求めてそこにいた自らの部下、近衛師団第二大隊と北方軍第七大隊の兵を斬り、そして剣士ルフトの里に向かった。
 剣士達を斬り、里を焼いて。
 尚も戦いを求めた理由、それをバインドは、ジンが戦いの最中に剣の力を向けたものがそこに在ったからだと、そう言った。


『一瞬だけ、奴は何かに気を取られた。そこに力を向けた』

『俺は、その何かを探した』

 そして剣士の里で、バインドは目指すものを見つけた。


『赤子だった――』


 あの声、揶揄と期待に満ちた声が耳の奥に甦る。



『――お前だよ』



 レオアリスは両腕を開き、母を背に立ちはだかった。
「止めろ! 戦いたいのは俺だろう!」
 声など聞こえた素振りもなく、バインドはレオアリスの上を擦り抜けた。
 振り返り、バインドの腕に伸ばした手が空を掴む。
 解っている。
「戦いたいなら俺と戦え! もう一度! 何度だって――!」
 その言葉が虚しいのも解っている。
 これは過ぎた出来事だ。
 今から起こることはただの過去――
 ナジャルが作り出す幻影、投影だと、解っている。
 それでも。
 変えられない過去だとしても、見たくない。そうさせたくない。奪いたくない。
 自分が――
「止まれ!」
 薙いだ切先は、だがバインドの首を断つ直前で、止まった。
 急速に湧き起こったのは凍るような疑念だ。
 これは幻影だと、理解している。現実ではないと。
 けれど幻影ならば――もし。
 これがナジャルの仕掛けた罠だとしたら。
 バインドではなく、もし、実際にここにいるのがプラドやカラヴィアスなのだとしたら。
 その可能性は否定できない。気が付いた時、自分の剣が二人を斬ってしまっているのではないか。
 激しい呼吸が伝える振動が、水平に止めた剣を微かに揺らしている。
 立ち尽くしたレオアリスを残し、バインドは歩みを止めず、右腕の剣の炎は一層その赤を増した。熱と共に周囲へ散り、燃え広がる。
 炎の向こうでバインドが振り下ろした剣を、風を纏う剣が受ける。
 もし、赤子を産み落としたばかりでなければ、結果は少し異なっていたかもしれない。
 数回剣を合せ、だが本来の力を失った剣はバインドの剣に容易く弾かれた。
 剣が砕ける。
 身体を斜めに剣が過ぎ、血が噴き出した。
 それすら、初めから分かり切っていたことのように、彼女は一瞬の躊躇も見せず身を返した。


「駄目だ――庇うことなんてない、逃げてくれ」


 白い布に包まれた赤子へ覆い被さる。
 剣がその背に落ちる。
 この場面を覚えている。
 見ていた。
 落ちる剣。
 影になった母の顔――


「母さん!」


 自分はこの後、バインドを斬るのだ。
 自分を庇ってくれている、母ごと。


 その背の上に炎の剣が落ちる。


「止めろ――!」
 飛び込んだ身体を剣が擦り抜ける。
「止めろッ!」
 喉が裂けるほど叫ぶ。
 バインドへではなく・・・・・・・・・、母が抱きしめている、それ・・へ――
 母の身体の下から青白い光が滲んだ。



『しっかりと見ると良い。自らの母の姿を――』

 周囲に、頭の中に含んだ嗤いが湧き起こる。

『そなたが自らの手で奪ってきたものが何か』

 低く低く、嗤う。

『そなたの周りは常に死で満ちている』



 赤子の身体から光が湧き起こる。
 青い光は母の胸から背中へ抜け、その向こうのバインドの右腕を肩から断った。
 母が瞳を見開き、驚いた眼差しをレオアリスへ――腕の中に包んだ赤子へ向けた。


 その瞳がふと流れ、傍らで凍り付いて見つめるレオアリスを捉えた。
 それはきっと、意味のない視線の流れだ。
 あの時そこに、レオアリスは居なかったのだから。
 そのはずなのに、赤子を抱き抱えたまま、母は左腕を上げた。
 伸ばされた左手の指先が、触れる。
 頬に。
 柔らかく微笑んだ。
 温度は感じられない。
 唇が音はなく、言葉を綴る。
 その声も聞こえない。


「母さん――」


 掴もうとした手は炎の中に落ちた。


 バインドの剣から零れた炎が激しく燃え上がり辺りを包み込む。
 母は小さな赤子を両腕に抱き締め、広がる炎から遮るように、自分の身体の下に包み込んでいる。
 炎が視界の全てを隔てる。


 レオアリスは叫んで炎の中に飛び込んだ。
 もう姿はどこにもない。バインドの姿も、母の姿も。
 周囲は炎が埋めるだけだ。
 どこにも。
 一瞬、頭の中が全て、真っ白に染まった。
 何が――



 無音で、鼓動すら聞こえない。



 自分は今・・・・何を見過ごした・・・・・・・


 母の死を――
 自分の手で母の命を奪うことを――
 目の前で行われたそれらを


『変えることができたのだ、今』


 耳元で声が低く、ゆるりと囁く。
『あの剣士を斬っていれば――何故、剣を止めた? そなたはその剣を、もう意志のままに操れるのではないかね?』
 レオアリスは剣を握ったままの自分の両手を見た。
 青白い輝きは曇りもせず保たれている。
『あの一瞬、一度だけが機会だった。そなたの手で変えられる、唯一の機会を与えてやったというのに、それを選択しなかったのはそなた自身だ』
 瞳を見開き、声のする虚空を彷徨い、その視線が落ちる。闇に。
「変え、られた――?」
 これは過去の投影ではなく、自分は十八年前のあの時の、その場にいたのだと。
 あれはたった今、ここで起こったことだと――
「嘘だ……それは」
 そんなことが有り得るはずがない。
『そんなことが有り得るはずがないと? ただ過去の罪を怖れ、言い訳を並べて何もせずやり過ごしたそなたが、一体何を言えるのかね?』
 だが、と、囁く。
 足元から這い上がり身を絡め取る、その響き。
『もう一度だけ――もし、そなたがそう強く望むのならば、我が結末を変えてやろう』
 レオアリスは顔を上げた。
『もし己が罪を悔い、償いたいと望むのであれば、変える道はある』
「どう、やって」
 炎はレオアリス一人を赤々と照らし出している。
 炎にも照らされない深い闇が揺れる。
『自らの命であがなうことだ。この場ならばそれは叶う。今、唯一ここでのみ――』
 渦巻く闇は千もの色彩を帯び、そして闇に呑み込む。
『我が全て変えてやろう。母の死も、父の死も。そなたの一族の滅びも――王の死も』
 鼓動が跳ねた。
『そしてこれから用意された数千、数万、数多あまたの死も』
「そんなことを、できるわけが、」
『できるとも。何故ならば、全てはそなたをきっかけにしていると思わないかね? 父の死、母の死、一族の死。そなたの剣の主の死も。だがそなたが今ここで命を差し出すと言うのならば――そなたの存在と引き換えにするのであれば、変えてやろう』
 次第に声は、柔らかさを増した。
『さあ――』
 慈愛に満ちた、母の言葉のように響く。
 差し伸べられた手を取れば、何の問題も憂いも無いのだと。
 差し伸べられた手以外、全ては闇だ。
 揺らぐ。
「――本当に、変えられるのか」














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2021.4.25
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