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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

二十七



 指先から肉を、神経を蝕む闇が、痛みを伝える。
 じりじりと、その場所から肉や骨を焼かれていくようだ。
 ほんの僅か前まで自分の炎だったものに。
 アスタロトは咄嗟に、身体の内側に炎を思い浮かべた。
 浄化の炎。身を清めるもの。
 芯から浮かび上がるような熱が広がり、黒い闇の侵食をとどめる。
「いっ――た、い……」
 零れる声を、どうにか、ほんの呟きほどに抑え込んだ。
 神経を蝕む痛みに呼吸が短く切れる。吐く行為すら苦しく体力を奪い、重ねて吸う。
 目の奥が重苦しく白く、思考がどんどん圧迫される。
 炎によって侵食の速度は止まったが、そこで鬩ぎ合ったままだ。だからこそ耐え難い。
 高々指先でさえ、消えない痛みで気が狂いそうだ。
 どうにか――


 ここから逃げてしまいたい。
 意識を手放して。


 気が狂いそうに痛くて――、あの時、ジグムントが自分を斬れと言った理由が解る。耐え難い。
「将軍!」
 ルベル・カリマの誰か――おそらくトールゲインが呼んでいる。
 辛うじて意識を向ける。荒い呼吸に身体が、視界が揺れる。
(状況……)
 そうだ――海魔は。戦いは。
 どうなった。
 炎は。
 撤退する南方軍を、炎が追って――
 薄らと開けた瞳に捉えた光景に、アスタロトは束の間痛みすら忘れて愕然とした。
 身体の芯が瞬間的に凍り付くようだ。
 既に夜の帷の落ちた草原が、昏い灯りに揺れている。
 灯りを放つのは黒く染まった炎――草原を焼きながら走り、南岸と北岸をそれぞれ撤退する南方軍の後尾に、襲い掛かった。
「待、て……!」
 炎に包まれた兵達が苦鳴を上げて転がる。
 耳を塞ぎたくなる悲鳴と叫びが風に乗って流れた。
 炎は次々と、撤退する南方軍の兵士達を飲み込んで行く。
 剣士達が交わす言葉が辛うじて耳に入る。「せめて足止めをしろ」と。
 トールゲインの声か。「本体を倒さねば――長に伝令使を」
 続いて交わされる言葉。
「トールゲイン殿……」
「エリアス、どうした――」
 そのどれもがアスタロの意識に響く。
(私が……私の炎だった)
 兵達を追う炎はアスタロトの創り出したものだ。
 アスタロトは炎を消そうと足掻いたが、変容した炎はもはやアスタロトの支配下に無く、アスタロトの意思ではそよぎもしない。
(そうじゃない)
 指先を蝕む絶え間ない、際限ない痛みに苛まれながら、アスタロトは悲鳴をあげる代わりに奥歯を噛み締め、身体の芯に力を込めた。
(できることはある――まだ)
 今、自分の内側で侵食をとどめている炎――清浄なその炎、けれどごく僅かな塊りに過ぎないそれを、操る。




「全速力で退け! 後方を構う必要はない、自らの命を保つことを考えろ!」
 ケストナーは兵達に号令を飛ばし、自らは迫り来る炎を馬上から見据えた。
 消火は困難――不可能だ。
 手元に水など無く、あったとしても通常の水では消し止めることなどできないだろう。
 ただ部下達が呑まれて行く。無惨に。生きながら焼かれている。
 後退する兵に炎は追いすがり、一列、また一列と確実に飲み込んでいく。敢えてそうしているようにゆっくりと、だが確実に。
 その場に満ちる苦鳴、悲鳴、助けを求める声、呻き、肉が焼け、焦げる臭気。
 ケストナーは拳を握り込み、震わせた。
「おのれ……ッ」
 ケストナーの目にする範囲だけでも、既に百名以上が炎に呑まれている。
 命をなんだと思っているのかと――そんな常識が通用しない相手だと分かっていても、激しい憤りに全身が破裂しそうだ。
「閣下、後退を!」
「分かっている! いいから貴様がさっさと行け!」
 ケストナーの側に留まろうとした中将を、右手に握った剣を鞘ごと振って追いやる。
「行け! 足を止めるな!」
 自分を気にして速度を緩めた周囲の兵達へ、更に怒鳴る。
「行け!」
「閣下!」
「兵の撤退を指揮し続けろ!」




 撤退する南方軍第一大隊を指揮しながら、アルノーもまた顔を歪ませた。
 炎に飲まれた兵を置いて行く以外の術がないことに、動揺すら覚える。
「ナジャル――」
 ここまで傍若無人に命を奪うとは。
 これは戦いなどではなく、虐殺だ。
 ナジャルが命を喰らう存在というのならば、過剰ではないか。
(公)
 この状況をアスタロトがどう受け止めるか、それを掠めるように思う。
「とにかく退け! 振り返るな! 足を止めるな!」
 今はそれしか道はない。




 アスタロトの中で炎が、身の不浄を拭う炎が渦を巻き、湧き起こる。
 指を付け根まで蝕み侵食する闇が、炎に払われて引く。
 アスタロトは炎を外へ向けた。
 南方軍を捉え、焼く、それへ。
 アスタロトの身体から一度空に吹き上がり、二つに分かれて空を流れる。白く輝く炎が南岸と、北岸、それぞれを蝕む昏い炎へと降り注ぐ。
 広がり、兵達を追いかける炎の上へ――昏い炎に焼かれる兵士達の上へと降り注ぎ、包む。
 昏い炎が消える。
 辺りを埋め尽くしていた耳を塞ぎたくなる叫びが、消えた。
 兵士達は尚も撤退しながら、仲間達の叫びが消えた丘を振り返った。
 一面に穏やかな、輝く炎が揺れている。
「――炎帝公――」
 ケストナーが、アルノーが、将校等が撤退を促す指示だけが丘に流れる。
 兵達は白く輝く炎を背に、口元を引き結び無言のまま後退を続けた。


 指先から這い上がった闇が、既に肘までを蝕んでいる。
 余りの苦しさにアスタロトは途切れ途切れの悲鳴を上げ、飛竜の背から滑り落ちた。








 白い閃光が走り、直後に風が抜ける。
 プラドの剣撃を受け、無数に周囲を埋めていた海魔は一直線に胴を断たれ地面に崩れ落ちた。
 海魔達の身体を灼いたのはカラヴィアスが放った一撃だ。剣が過ぎ去った後に光の筋が残る。
 レオアリスは自らを囲んだ十数体の海魔へ、青白い光が爆ぜる剣を振り抜いた。右の剣を追い、更に左の一振りを流す。
 シメノス南岸の草原、見渡す限りに犇めいていた海魔達は全て身を断たれ、崩し、地に倒れている。散った体液を浴びた樹々や岩が無惨に溶けた姿を夜の中にも晒している。
 レオアリスは呼吸を整えるように息を吐いた。初め、海魔達は再生を繰り返したが、その気配はもうない。
(まだだ)
「気を付けろ」
 カラヴィアスが警告する。レオアリスはその声を耳に、意識を巡らせた。
 視線の先、断たれ、地に積み重なった海魔の身体がぐずぐずと崩れる。
 次いで混じり合い、霧のように広がった。
 形を変える。
(次は何に――)
 霧が三人の周囲を包むように広がる。
 プラドが踏み込み剣を薙いだ。
 迸った風は霧に飲み込まれ、消えた。霧は漂ったままだ。
「本気を出したのか?」
「出した」
 カラヴィアスの問いに短く答え、プラドはレオアリスへ視線を向けた。
「――気を付けろ。これは」
 プラドがみなまで言う前に、レオアリス、プラド、カラヴィアスの間に霧がどっと流れ込む。
 咄嗟に息を止めたが、僅かに吸った。
「切り離せ」
 カラヴィアスの声も霧の向こうに消える。
 ただ、その意味は解った。レーヴァレインが戦いの中で示してくれたことだ。
 生命を吸うナジャルの闇から、自身を切り離すことを。
 剣が光を帯びるのと同じく、自らの身体を膜で覆った状態を思い描く。暗い視界の中で、自分の身体がほんのりと光を帯びているのが解る。
(影響はない、はずだ――)
 先ほど呼吸に混じった闇も、肉体に影響を及ぼす気配はない。
 となればナジャルは、この霧の中に新たなものを形造る。
 意識を研ぎ澄まし、澱む霧を見据えた。
 物音はせず、カラヴィアスの姿もプラドの姿も見えない。
 ただ彼等の気配は感じる。
 霧に隔てられているせいか、たった今までよりも気配は遠く思えた。
(何を仕掛けてくる――?)
 しんと、まるで平穏の中の静寂と思わせ、辺りは風の音一つなく静まり返っている。
 流れるのは霧の粒子だけだ。
 動きを待つべきか、それとも剣を以ってこの闇を一旦斬り払うべきか――
 半ば瞳を伏せ、意識を集中し、周囲へ流す。
(あの二人はどう動く?)
 二人とも位置は変わっていない。
 更にふた呼吸、意識を研ぎ澄まし、レオアリスは瞳を上げた。
(待っていても仕方がない)
 ここが長引けば下流の戦いにも影響が出るだろう。


 視界の隅で霧が揺れた。
 視線を向けた先で、人影が見えた。濃い霧の中から近付いてくる。
 レオアリスは咄嗟に身構えた。
 知らず詰めた息を吐く。
(また――)
 また、ナジャルが、王の姿を取るのではないかと――
 例えあの時、自分の心と向き合い弱さを乗り越えたつもりでも、今またその姿を目にすれば、動揺せずにいられるか自信がない。



 霧の中から現れたのは男だった。
 レオアリスは息を呑んだ。
 王ではない。
 だが、見覚えがある――良く。
「――バインド……」
 右腕・・に炎を纏う剣を顕し、レオアリスへと歩いて来る。その姿はレオアリスが対峙した時と違い、近衛師団の軍服を纏っている。
 息が詰まる。
(十八年、前の――)
 バインドが第二大隊に在籍していた頃――剣を失う前だ。
 おそらく――、黒森。
 近衛師団第二大隊が派遣された、北の剣士達の――ルフト・・・の反乱、あの時――
 熾火のような光、執着を宿した双眸が、レオアリスを捉える。
 レオアリスは咄嗟に手の中の剣を意識した。
 だがバインドの視線は実際にはレオアリスを通り越し、背後に据えられている。
 背後で気配が動いた。
 レオアリスは首を巡らせ、背後を――バインドの視線の先を見た。
 女性が一人、立っている。
 黒く長い髪を揺らし、彼女の右腕にも剣が顕れていた。
 剣の周囲を風が取り巻いている。その女性ひとの上には疲労が濃く、瞳は深い憂いに満ち、ただそれを抑え凛として立っていた。
 彼女が護るように背後に置いた、白い布の小さな包み。小さな、生まれたての、生命の気配がある。
 鼓動が耳を鳴らす。自分が呼吸しているのか判らない。
「――母さん……」
 喉の奥から、掠れた声が零れた。












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2021.4.18
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