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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

二十六


 
『門を維持しろ! 少しでも多く、ファロスファレナへ渡らせろ!』
 西海第二軍大将ミュイルはシメノスの河面に立ち、後方、下流に光る道を開けたファロスファレナへの『門』を背後に、じりじりと動く西海軍兵の撤退を指揮した。
 一度に渡れるのは一小隊ずつ、百名程度だ。
 およそ十間の岸壁の間を埋め、逃げ出そうとする第三隊後陣の兵士達、一万近くが犇めいている。
『慌てるな! 慌てればその分遅れる!』
 何度も声を枯らして怒鳴る。ただ、兵達の恐怖は鎮まりようがない。
 上流にはナジャルの吐き出した――或いはその欠片が姿を変えたか、百近い海魔が塊りになり、高い両岸に挟まれた谷を埋めている。
 アレウスの剣士達の剣、そしてアレウス国正規軍将軍アスタロトの炎――、それを受けて尚も損傷という言葉を知らないかの如く蠢く。
 吐き出された体液に触れ、上流側にいた兵、数百がまとめて溶けた。
 恐怖の声が上がり、兵達が更に押し寄せる。
『落ち着け! 今は我等第二軍の将、レイラジェ閣下が上流を抑えてくださっている! ヴォダ将軍もおられるはずだ!』
 レイラジェとヴォダの名は兵達を僅かに落ち着かせた。
 上流、空から降った炎が海魔の身体を包むのが見える。
『見ろ、アレウス軍の敵も今はナジャルだ! 落ち着いて退け! ファロスファレナの門はまだ充分つ!』
 そう言いながらもミュイルは上流を厳しく睨んだ。
 炎が一瞬の内に変化している。海魔は今、黒い炎を纏った身を起こしていく。アスタロトの炎が変質したものだとミュイルにも解る。
(触れたものを全て、呑み込んでいきやがる――)
 その有り様は貪欲なナジャルという存在そのものだ。
『ミュイル殿!』
 呼ばれた方へ顔を向け、ミュイルもまた声を上げた。
『イフェル殿か――』
 第三隊、ヴォダの麾下であるイフェルだ。
 無数の傷を負っているその姿を、ミュイルは厳しい表情にほんの少しの安堵を浮かべ迎えた。
『閣下――レイラジェ閣下と、ヴォダ将軍は』
『お二人は、上流で、海魔の足止めの為に、残られた』
 荒く息を吐くイフェルの肩に手を置き、そのまま後方へ押しやる。
『お二人の肩を並べた共闘、俺も見たかった。貴殿は先にファロスファレナへ――』
『いや、俺もここに』
『門の前が混乱している。俺より貴殿が指揮した方が奴等は落ち着く』
 イフェルはほんの僅か迷いを見せながらも、門近くの様子を目にして唇を引き結び、頷いた。
『礼は、改めて――』





 ヴォダが動くごと、その後に切り裂かれた海魔の身体が水中に浮かぶ。再び寄り集まろうとする断片、肉塊をレイラジェの操る無数の矛が数珠繋ぎに動き、広がり、突き立ち、穿つ。
 既に二人が切り裂いた海魔は百体近くを数える。
 海魔は際限なく湧いてくる。斬れば斬るだけ、その数を増やすようだ。
 ヴォダの剣、レイラジェの矛が切り裂き、貫き、だが海魔の身体は漂った先で再び結合し、ちぐはぐで継ぎ接ぎの身を晒しながら動き、襲いかかった。
 ヴォダが剣を薙ぎ――、そのまま身体を傾がせ膝を落とす。
 既に限界は通り越し、今剣を動かしているのは身に染み付いた反射に近い。左腕の肘から先を失ったことも動きを著しく制限していた。
『――』
 切り裂いたはずの海魔の身体が寄り集まり、身を起こす。ほとんどがまだ、削がれた肉をぶら下げている状態だ。それらの肉の断面が盛り上がり、互いに吸着し、ぐるりと壁を作った。
 周りを囲み、膝を落としたヴォダへ覆い被さるように身を倒す。
 ヴォダは剣を握った腕を上げようとし、止めた。
 際限無い。ここの十体を斬って、それが何になるのか。
(さすがに、ここまでだ――)
 諦観と共に息を吐いたヴォダへ、肉の壁が迫る。その表面からじわりと茶色の液体が滲む。水に漂ったそれがヴォダの腕に触れ、皮膚を溶かした。
 目の前の肉塊に数十の矛が突き立ち、裂く。レイラジェの矛だ。
 ヴォダを囲んだ海魔は倒れたが、視線を向けた先、レイラジェ自身の周囲には一振りの矛も無い。
 そしてレイラジェの後方、撤退する兵達の後尾が近付いている。当初の位置から大分押し込まれているのが判った。
 兵達を渡していくファロスファレナへの『門』も、次第にその光を落とし始めている。
 膝を落としたままのヴォダを越え、五体の海魔――肉の塊がレイラジェへ押し寄せる。矛は全て上流の海魔を相手取り、戻す間がない。
 ヴォダは鼻を鳴らし笑った。
『厄介なのは矛だけなものか――』
 レイラジェは腰に帯びていた長剣を引き抜き、五体の海魔の胴を一息に断つ。海魔の身体が崩れて落ちる。
 踏み込もうとしたレイラジェの身体が、後ろから引かれるように止まった。
 原因は足だ。
 いつの間にか、左脚に触腕が巻き付いている。
 ナジャルに喰われ失った左脚は感覚が無い。義足は軋む音を立て、直後に押し潰された。
 触腕がそのまま膝上を捉える。
 レイラジェの矛はまだヴォダの後方だ。戻す気配は無く、海魔達をそこに押し留めている。
『阿呆が――』
 舌打ちと共に身を起こし、ヴォダは剣を走らせレイラジェの左膝を捕らえていた触腕を断った。
 その剣を川底に杖のように突き立て倒れかかる身を支え、そのままレイラジェを睨んだ。
『レイラジェ、貴様はもう行け』
 片脚を失ったレイラジェは体勢の制御を欠いている。
 背後で海魔は斬ろうが貫こうが構わず際限なく生まれ、肉塊を連ね、水中を埋めて行く。
 これ以上、ここでの戦いに意味は無い。
 それはヴォダも、レイラジェも初めから理解している。
 どこで切りをつけるかだ。
『上流、大元を叩かなくては、ここで幾ら裂いたところできりが無い。これ以上消耗戦をすることに意味があるか』
 レイラジェが何か言う前に、ヴォダは気の合わない同胞の顔を見据えた。
『兵を任せる。――その先もだ』
『貴様の部下は』
『兵どもが貴様の言に従わないのは、貴様の不足だ。俺は知らん』
 背後に迫る海魔を振り返り様切り裂き、その身の回転に合わせ、ヴォダはレイラジェの胸を力任せに蹴った。
『!』
『貴様は先の役目を全うしろ』
 レイラジェの身体が水に乗り、下流へ流れる。早い流れから抜け出すには、レイラジェ自身も体力を消耗し過ぎていた。
 遠去かるヴォダの姿を、海魔の壁が遮る。
『――』
 伸ばしかけたレイラジェの腕を、何かが引き止めた。
『閣下――!』
 ミュイルが腕を掴んでいる。
 二人はそのまま、共に河面へ浮き上がった。
『ミュイル』
 周囲には無惨に溶け、事切れた兵達の亡骸が数百、いや、千を超えて浮かんでいる。
 ただほとんどの兵は退避した後だ。
 視線を向けた先、ファロスファレナへの門は既にその光を弱々しく明滅させ、あとどれほども保たないのは見て分かった。
『兵達はほぼ送りました。閣下もどうか――』
 河面の上では海魔が一つの肉塊のように寄り合い、黒い炎を纏わりつかせながら岸壁の間を競り上がって行く。
 岸の上がどうなっているのか、アレウス軍からの攻撃は止んでいた。上空を旋回する飛竜から閃光が落ちる。
 閃光を受けた海魔の塊りが二つに割れ、だが止まることなく、尚も高い岸壁の上へ膨れ上がり、這い上がる。
 は河面の下に続き、たった今までレイラジェ達が戦っていたあの海魔を生み出している。
『閣下』
 ミュイルが再度促す。
 レイラジェは一旦、上流へ視線を向けた。その水面の下へ。
 当初の目的、兵達をファロスファレナへ送るという彼等の役割は既に果たしていた。次は自分達、第二軍の兵士達をファロスファレナへ戻さなくてはならない。
 この後はこの後で、幾らでもやるべきことはある。
『――ファロスファレナへ、戻る』
『門』の最後の瞬きへ、レイラジェは身を向けた。




 ファロスファレナへの『門』が消えて行く。
 薄れていく光を確認し、ヴォダは膝を屈めて最後の力を掻き集め、直後に踏み出した。
 正面に迫る二十体を超す海魔を、閃光に似た剣が次々と屠る。
 僅かひと呼吸――
 水中を埋めていた海魔は悉く切り裂かれていた。
 全身の力が抜け、川底に膝を落とす。
 静まり返った水中で、再び肉が寄り集まる。
(どこまでも……)
 これで本当に終わりだと判っていたが、もう指先すら動かない。視線を上げる気にもなれなかった。
 海魔が肉芽を伸ばし寄り集まる。
 頭上に影が差した。
 既に触腕とも肉の塊りとも判別の付かないそれが伸ばされる。
 肉を裂く音が立つ。
 身に感じる苦痛はなく――ヴォダの足元に、肉塊が倒れた。
 柄の短い矛が、一体の海魔の頭に突き立ち、川底に縫いとめている。
 河面を破り、螺旋状に降り注ぐ矛が次々と海魔の群れを穿ち、貫き、切り裂いた。
『どこまでも、余計な――』
 ヴォダは薄く笑い、そのままシメノスの流れに倒れた。














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2021.4.18
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