二十五
飛竜が、岸壁の間を潜るように飛ぶ。
シメノス上で、半数近い海魔がひと塊りに寄り集まっていた。
数十体の海魔が寄り合い積み重なり、その姿は不恰好な塔のようだ。もともとの身体が四本の腕を有していたためか、長さも大きさも異なる腕や脚、頭があちこちから生え出て、彫刻家が狂気のままに作り上げた彫像を思わせた。
塔がそれ自体が生き物の如く、四方に散った飛竜を追って身と腕を伸ばす。
ルベル・カリマの剣士の一人、ジグムントは海魔の伸ばす不揃いの腕を飛竜で掻い潜り、擦り抜け様四本を切り落とした。吹き出す血を躱して飛ぶ。
その血が岸壁に飛び、岸壁の岩を溶かす様を横目に見る。
正面から交差するようにすれ違ったエリアスへ、短く声をかける。
「血を被るのは避けろ」
エリアスが頷き応える。二人はほぼ同時に、海魔の腕、身体の一部を断った。断ち切られた断片が落ち、落ちた先で海魔の塊にまた飲まれる。
ジグムントはその様子を眺め、眉をひそめた。
「切りがなさそうだ――」
トールゲインは上空に上げた飛竜の背から全体を眺めた。
足下、海魔が寄り集まり作り上げた巨体は、斬ることはできるが、それだけでは滅するに至らない。
両岸からの正規軍の攻撃はまだ続いている。
西海軍は二万弱の兵が、下流へ一塊になり犇めいていた。その先、アレウス軍が後退を防ぐ為に置いたものか、大小の岩が河幅の半ばまで埋め、そこに混乱が拍車を掛け思うように退避できない状況だ。
「怯えきっているか」
それだけ、ナジャルの存在が彼等にとってひたすらに脅威なのだろう。トールゲイン自身危険性は理解しているつもりだが、根源的恐怖は感じない。
「トールゲイン殿」
カロラスが飛竜を寄せる。
「海魔の足止めは問題ない。今のうちに二者とも、兵を引かせた方がいい」
「そうだな」
西海軍兵士も、アレウスの兵士も。
ナジャルへの供給源となる前に。
剣を振るうにも、周囲への影響を考慮しなくていい状況が望ましい。
「アスタロト将軍、剣域を広げます。まずはアレウスの兵達を退かせて頂けますか。彼等は足止めの役割を充分果たしてくれました。あとは我々に」
トールゲインの近く、北岸寄りに飛竜を置いていたアスタロトはトールゲインの言葉に頷いた。
アスタロトの炎にとってもそれは同様だ。
「そうさせてもらう。私も、その方がやりやすい」
「西海兵はどう引かせる?」
カロラスは下流を見渡した。
「あの岩を弾くか――」
剣で崩して開けば多くが通れるようになるが、それにはまず、犇めいている西海兵を一旦あの場所から離す必要がある。
「仕方ない」
「待って」
飛竜を向けようとしたカロラスを、アスタロトは止めた。双眸を細める。
三百間(約900m)ほど先、岩に塞がれた流れの向こうで、河面がチカチカと光を弾いている。
「あれは」
光を弾いているのは水だ。陽光を弾き、河面が渦を巻いているようだった。
薄らとした光がその周辺を染めている。
それは河面が弾く陽の光とは異なる、水中から差す光だった。
目を凝らす中、唐突に、そこにいた西海兵の一団――数百名が、拭い去るように姿を消した。
「転位――?」
アスタロトは目を凝らした。
下流が次第に騒がしさを増す。空気を伝わってくるのは安堵と、歓喜だ。
「少しずつだが、消えて――移動しているのか?」
トールゲインも呟く。
アスタロトやトールゲイン達にはそれが誰によるもので、どんな技かは詳細には判別がつかない。
だが、西海軍にも撤退の手段が生まれたことは判った。
「良し――カロラス、皆に指示しろ。五人で畳み掛け、あの海魔を一息に滅する。将軍閣下、我らが斬った後、貴方の炎を」
アスタロトは深く頷いた。
「任せて。私が残らず焼き尽くす」
五騎の飛竜がそれぞれ異なる方角へ展開し、上空からシメノス岸壁の間に侵入する。
宙を最初の剣光が熱を帯びて流れる。
エスト――次にバルギエル、クラディアス、エリアスが、飛竜で急速に迫り、剣を薙ぐ。
不恰好に積み重なり寄り集まった海魔の、巨大な身体がその都度身を震わせ、深々と四筋の亀裂を刻んだ。剣は海魔の肉を断ち、その向こうの岸壁にも深い亀裂を穿つ。
ジグムントが飛竜を駆り、直上から渾身の力を込め、剣を振り下ろす。
横に四筋、既に断たれていた海魔の身が、縦にもう一筋新たな亀裂を生じさせ、複数の断片となって崩れた。
ジグムントは首を巡らせ、崩れ落ちる海魔を見据えた。
容易い――容易いが故に、心許ない。
「更に畳み掛ける。細切れにしろ」
一旦岸壁を抜け出した飛竜を旋回させ、再び侵入し海魔の肉塊に迫る。
ジグムントが重ねる初撃を加えた、直後――
肉塊は更に変化した。
肉と肉がより深く結合し、表皮が混ざり合い、一つの歪んだ塊になる。
飛竜の背からカロラスが声を張る。
「気を付けろ、何かあるぞ」
その身体の肌――表皮に、プツリと、水膨れのようなものが浮き上がる。
一箇所だけではなく、皮膚、剥き出しの肉を覆って全体に広がる。
背中に虫唾が走る感覚に、カロラスが叫んだ。
「退がれ!」
海魔が身を震わせる。
水膨れが弾け、どろりとした茶色い液体と共に、無数の剣や槍が吐き出された。
「受けるな――!」
カロラスの警告は、至近にいたジグムントが飛来する剣を払い落とすよりやや、遅かった。
剣や槍を全て弾き、だが同時に注いだ液体に触れたジグムントの剣身が、変色する。
「――ッ」
広範囲に振り撒かれた液体を受け、西海軍の後陣の兵士達から悲鳴が響く。兵達は河面でのたうち、或いは転げ回り、そしてどろりと溶けた。
ジグムントもまた苦痛に眉を顰め、飛竜の背でよろめいた。
液体は触れた剣身をその箇所から崩し――蝕み、じりじりと広がっていく。
剣士の剣を、喰らっている。
剣だけではなく身体も、艶めく柘榴の鱗の飛竜も。
飛竜ごと、シメノスの河原に落ちた。
「ジグムント!」
押し殺しきれない苦鳴が谷に響く。
傷の再生とほぼ同じ速度で、液体が蝕んでいく。
エリアスが飛竜を返す。
「エリアス、待て!」
海魔の塊が再び、その身――肉塊を震わせた。
「散れ!」
声と共にトールゲインが上空から剣を振り下ろす。
縦に走った剣風が海魔の塊を両断し、海魔は液体を吐く前に二つに分かれ、シメノスに倒れた。水飛沫が上がる。
「ジグムント!」
飛竜から身を乗り出し掴もうと伸ばしたエリアスの手から、ジグムントは身を引いた。
「む……無理、だ……ッ」
侵食が止まらない。
じわじわと肉を喰らい、骨に達する。右腕から肩は既に半分骨が見えていた。
「こいつは、お前にも、移る」
「構うか、ここを離れるのが先だ! さっさと手を」
ジグムントの背後の動きに気付き、エリアスは一層焦りを帯びた。
海魔が肉を撚り合わせ、再び身を起こそうとしている。
「ジグムント!」
飛竜の背から伸ばした手はジグムントに届かない。飛竜が飛空体勢を保ち切れず、一旦その場を離れる。
「そのまま退け……、俺は」
ジグムントは辛うじて首を動かし、上空、トールゲインの飛竜を見上げた。
身を蝕む液体は消えもせず、剥がす術も止める術もない。既に半身の皮膚や肉が溶け爛れ骨が覗いている。
自らの回復力が蝕む速度とせめぎ合い、苦痛を引き延ばす。
死なず、喰らわれ続ける。
そしてそれはナジャルへ流れて行く。
ただナジャルの餌として。
「トールゲイン殿」
殺してくれ、と。
ジグムントの視線を受け、トールゲインが剣を向ける。
「エリアス、戻れ。もう海魔が動く」
「トールゲイン殿! まだ――」
エリアスが懇願とも非難ともつかない声を上げる。
海魔の表皮に、無数の突起が泡立つ。
ジグムントが身を返し、海魔へとよろめきながらも、走った。
「待て、ジグムント――!」
海魔へと打ち下ろすジグムントの剣は、剣身が半ばまで蝕まれている。
打ち下ろす前に、自らの力の負荷により、容易く折れた。
海魔の肉塊から無数の腕が伸び、ジグムントに掴みかかる。
トールゲインは剣に力を溜め、飛竜の背で踏み込んだ。
「待って!」
声と共に一筋、炎が降った。
炎が海魔を包み、炉に焚べた薪木のように燃え上がった。
一方で炎はジグムントを包み、その身を蝕む液体を焼いた。
「――」
ジグムントの身体がよろめき、声も無く倒れる。
エリアスは河面ぎりぎりに飛竜を飛ばしてジグムントをその背に掬い、河面から離れた。
状態に視線を走らせ、息を吐く。
侵食は止まっている。
だが無惨に喰らわれた肉や骨――そして折れた剣は、回復の気配がない。
苦痛の様子が見えないのだけが幸いだった。
「感謝する、将軍閣下」
今後回復するのかどうか――エリアスには判断できない。
そしてナジャルの能力が、本質が『喰らう』ものだと、改めて突き付けられる。
剣士でさえ例外ではない。
トールゲインが燃え盛る炎を見据える。
「あれはまだナジャルのごく一部だ。それにすら近付くのが危険なら、遠距離からのみでは十分な損傷を与えられん」
直接剣を叩き込むことが最も効果的だが、それが困難になっている。
「私が燃やす。私の炎に距離は関係ない」
アスタロトは飛竜を、トールゲインとカロラスの横に進めた。
「貴方達は一旦退がって。もっと火勢を強める」
海魔を包んでいた炎が歪む。
同時に、シメノス岸壁の内側を埋めるほどに膨れ上がった。
アスタロトは驚きに真紅の瞳を見開いた。
「なに――」
アスタロトの意思ではない。
そうではなく、炎が干渉を受け、歪められている。
鮮やかな緋色が芯に一点闇を生じたかと思うと、急速に広がり黒々と染まった。
「何だ――」
指先に刺すような熱を覚え、アスタロトは自分の手に視線を落とした。息を呑む。
指先が、黒く変色している。
それはじわりと、指を這い上がり始めた。
痛みと熱と、痺れ。
「まさか――そういうこと」
炎もまた、例外ではない。
ナジャルの創り出した海魔が、触れたものを貪るということ――
ジグムントの剣と同じだ。
触れているという点では、アスタロトの意思が生み出す炎も同じことなのだと。
背筋を凍る感覚が走った。
(ならどうやって、倒すんだ――)
黒く、歪んだ炎が辺りを埋める。
そこにある生命を貪ろうとしているのが判る。下流、そして岸壁を這い上がる。撤退していく正規軍兵士達を追っている。
草地を瞬く間に広がる。兵達はまだ、二百間(約600m)も離れていない。
すぐに炎は兵達に追い付くだろう。
「やめろ!」
アスタロトは手を伸ばした。指先が硬直し、思うように動かない。
けれどこの黒い炎を止めなくては。
「――消えろ……ッ!」
もはや自分のものではない炎は、アスタロトの意思に欠片すら揺らがなかった。
アスタロトの指先を覆う染みはその間にも、手の甲へと這い上がる。
痛みが神経を蝕んだ。
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