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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

二十一



「防御陣に反応あり――! 上流、二里の位置です!」
 法術士団の術士が声を張る。
「ナジャルめ、やはりここに来るか――」
 ケストナーはシメノス下流の岸沿いに置いた南方軍本陣の天幕で、腰掛けていた椅子から立ち上がった。
 夕刻、サランセラムでの浄化に立ち会い、飛竜で取って返したところでボードヴィルからナジャルが動いたという一報を受けた。
 報せからまだ半刻も経っていない。
「距離は役に立たんな」
 騎馬ならば半日はかかる距離が一切妨げになっていないことに、ケストナーは奥歯を軋らせた。
 防御陣もナジャルの動きを感知する為だけに急遽置いたもので、押し留める役割ははなから期待していない。
 ケストナーは天幕を出て本陣を歩いた。自身の騎馬は既に引き出している。
「ナジャル近接をボードヴィルへ伝令! 全部隊は防御体制を堅持させろ! 我等はこれ以上退けん。引けばレガージュが喰らわれる」
 フィオリ・アル・レガージュは切り札だ。
 レガージュが再び西海の――ナジャルの手に落ちることは、ここで全兵が呑まれるよりも悪い。
「援軍が来る。それまでの話だ。それまで遠方からの攻撃に徹する。大型弩砲アンブルストの射出用意は」
「既に」
 西海軍の後陣を下流域内に留めた段階で、配置は終えている。ボードヴィル侵攻に失敗して反転した西海軍の部隊とこの昼に接敵し、当初四万近かった敵兵を挟撃によりおよそ二万弱まで削った。
 その西海軍にはまだ動きが見られない。
「ナジャル出現に合わせて反撃があるだろう。だが岸壁を越えようとしない限りはナジャルに集中しろ。場合によっては下流へ逃しても構わん」
 第一大隊大将アルノーが頷き、伝令兵へ指示を出す。
「射程に捉えたら一斉に放て」
 通常の武器でナジャル相手にどれほど損傷を与えられるかも判らないが、何もしないで兵達を食われる訳にはいかない。
 ケストナーは自らの騎馬に跨り、上流、夜の奥を睨んだ。
 ナジャルがここへ来ることが分かっているからか――、空気が重く、首筋を一筋、汗が伝う。
 この場所の岸壁の高さは十間に近いが、その高さもナジャルへの防壁になるとは期待できない。
(援軍が到着するまで、兵を喰らわせないことのみ)
「来ました――」
 伝令の声が走る。
 シメノスの両岸に並んだ南方軍兵士達の間に痛いほどの緊張が走った。
 シメノスで――およそ五十間(約150m)先の岸壁のはざまで、最後の防御陣が『闇』に触れ、白く爆ぜる。
 一瞬河面と岸壁を照らし出し、すぐに夜に沈む。
 目を凝らした夜の中、重く濃い闇が動いたのが分かった。




 西海兵達は戦いに疲れ果て、シメノスの流れの中に蹲っていた。
 早朝、六万で侵攻した時とは比べ物にもならないほどに数を減らし、追い込まれ、夜の闇だけが兵達にとっての救いになっていた。
 ほんの少し前までは。
 だが、今、もう一つの――他の何よりも避けようのない死が迫っていることを、西海兵達は自らを包み流れて行く川の水から感じ取っていた。
 身体の芯を凍らせて行くような気配、恐怖。
『ナジャルが――』
 ナジャルが、_ゆっくりと迫って来る。
『俺たちは結局、最後にはナジャルに喰われる……』
 逃げようがない。
 海へ逃げられたとしても意味がない。
 ここまでどうにか生き延びられたと思っていたのに。
『喰われるくらいなら昼の戦いで死んだ方が、ましだったんじゃないか』
 上流に光が爆ぜた。西海兵達には判らなかったが、南方軍が置いた防御陣の光だ。
 解ったのはそこに死があるというだけだ。
 死ですらないかもしれない。
 ナジャルに喰われれば、死の安寧もないのだから。
 黒々とした闇が上流から、川の流れの代わりに迫る。
 それがナジャルの一部だと、何より西海兵達自身が良く知っていた。
 それでも逃げ出す者が無い。
 恐怖と、諦めだけがある。
 兵達は誰もが固まり、ただ自分の前に迫り来る死を逃れようもなく待っていた。


 初めに我に返ったのは、ヴォダの副官、第一隊大将ギルムだ。
 兵達と同様に、ただ上流を見据えて立つヴォダへ指示を仰ぐ。
『閣下、指示を――! 兵達に!』
 ヴォダは振り向かない。
『閣下!』
『結局は、ナジャルめに喰われる。今更何の意味がある――』
 あれに対抗する術などないのだ。
『この戦いに勝っていたとして――、結果は変わらなかっただろう。いずれにしてもナジャルは全てを喰らう』
『閣下――わ、私は、諦めたくありません』
 語尾を震わせ、だが意を決して押し出された声に、ヴォダは初めて視線を向けた。
『あの地上の男も、言っておりました。こ、これは、ナジャルを倒す機会だと――』
 ギルムが青ざめながらも、ヴォダへ光る目を据えている。
『戦っている以上、どちらかが必ず勝つと――それが、わ、我等でないとは、限りません――閣下!』
『あの男か――』
 存分に剣を撃ち合えたのは、久方振りに心地良かった。
『もったいねぇ』と、そう言った。
 嘲笑う。
『何がもったいないものか。ナジャルなど、俺達の尺度で測れる相手ではない』
『閣下! どうせ喰われるのであれば、戦いを!』
『――』
 上方――、岸壁の上で歯車が軋んだ。昼に散々聞いた、アレウス軍の大型弩砲アンブルストの鋼鉄の矢が射出される音――
(ここで――)
 だが、自らの上に降り注ぐと思われた鋼鉄の矢は、流れ下る闇へ、夜を切り突き立った。
 突き立つ側からぼろぼろと形を崩し、闇に飲まれていく。
 それでも第二射が飛ぶ。
『閣下――』
 ギルムのその声はヴォダへの重ねての懇願ではなく、驚きだ。
『アレウスが――』
 大型弩砲アンブルストの歯車の音が尚も響き、射出された鋼鉄の矢が闇に突き立つ。何度も。
 闇に飲まれても何度となく。
 岸壁の上の喧騒――鼓舞する声。
 ヴォダは嘲笑った。
 嘲笑うしかない。
 自分を。
(腰抜けが――!)
 全くもって、腰抜けだ。
(何が瞬速の剣か――)
 剣を掴み、引き抜く。
『ギルム!』
 副官の目に喜色が閃く。
『あれはまだ一部だ。ナジャルに対し、防御線を引け!』
『――は!』
 凍りついていた兵達の間に、僅かずつ、潮騒が広がるように生気が蘇る。
『全員潰れる必要はない。できる限り撤退させろ』
 水を用いた『道』を開ける兵は殆どが前線に取られていた。今この二万の兵の中には数えるほどしかいない。
 数人ずつが限度だが、それでも僅かでも逃れさせられるのならばそうするまでだ。
 自らは海馬に跨り、闇の迫り来る上流へ進む。
『止めてやるとも――僅か一呼吸の間だけだろうがな』






 レオアリスは眼下に、黒々と横たわる闇を見下ろした。
 闇は浮かぶ三騎の飛竜と、その乗り手に気付いている。
 それでも尚ただ横たわっているのは、自分達の剣を脅威とも感じていないからか。
 レオアリスは右手を鳩尾に当てた。
 ずぶりと沈め、溢れる青白い光とともに剣を引き出す。
 一振り――
 それから、左の剣を。
 二振りの剣が夜に煌々と、その身を輝かせ、冴える。
 青い光が雷光に似て剣の上を爆ぜる。
 カラヴィアスが小さく笑った。
「お前はなかなか、我が強いな。初っ端から全開か」
 その右腕には既に、揺らぐ熱を纏う剣を顕している。左側に飛竜を置くプラドもまた、剣を顕し、その周囲を風が揺れた。
 レオアリスは左右の剣を提げ、ぐっと膝を屈めた。
「初めから――力を出し惜しみすべきじゃないでしょう」
 眼下の闇が動く。
 蟠っていた闇が、渦を巻き、一点に集まっていく。
 一人の男の姿に。
 上空へ持ち上がった面の、血のように赤い双眸をレオアリスは見据えた。
「ハヤテ」
 銀翼の翼が風を叩き、小さく畳んで急降下する。
 青白い光が二筋、夜に光の帯を描く。
 ナジャルの立つ草地へ、およそ十間に迫り、レオアリスはハヤテの背を蹴った。
 右の剣が青白く爆ぜながら、ナジャルの頭上へと落ちる。
 雷に似た閃光と共に、光が一瞬、岸壁の上を染めた。











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2021.3.28
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