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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』

十九



 十一月二十三日、夕刻六刻。
 夕闇になだらかな丘が沈んでいる。連なるいくつものそれは視界の果てで、黄昏と薄闇の中に溶けて混じり合う。
 呼吸もまた大気に溶かすように、アスタロトはそっと息を落とした。
 瞳を閉じ祈る。
 失われた彼等の命の為に。
 瞳を開く。
 アスタロトの背後にはタウゼン、ランドリー、ミラー、ケストナー、ゴードンの方面将軍と、そして西方軍の各将校が並んでいる。
 ファルシオンはボードヴィル砦城の塔から、この場所を見つめているだろう。
 西方第五大隊大将ゲイツが口元を引き結び、真っ直ぐに丘を見据えている。その隣でワッツもまた、アスタロトの向こうの丘を見つめた。
 ヴァン・グレッグの率いた西方第四、第五、第六、第七大隊を喪ってから四か月。
 ようやくだ。
 今、ここにいる亡骸達はヴァン・グレッグ達のものではないが、それでもようやく彼等を落ち着いて弔える。
 アスタロトは両手を伸べ、向かい合わせにした手のひらの間に小さな炎を浮かべると、送り出すようにそっと放った。
 炎は夕闇の中でゆらりと身を揺らし、ほんの少し先の草の上に落ちた。
 ポツリと灯った赤い火が、無音の中で丘を走る。
 なだらかな起伏の丘には、死者の群を構成していた正規軍兵士達、そして西海軍兵士や海魔の姿がそこかしこに倒れている。
 まだ蠢いている者もある、目を伏せたくなる光景をアスタロトは目を逸らさず見つめた。
 やがて空気を焦がす音を伴い、炎が草地の上に残されていた数多くの亡骸を残さず包み、燃え上がった。
 辺りを照らし、空を焦がす。
 アスタロトの瞳に炎が揺らぐ。
 ヴァン・グレッグ達をアスタロト自身で送ることはできなかった。
 彼等の分も、今。
 空を焦がす炎の中で、丘陵に横たわっていた亡骸が静かに崩れていく。
 最後の亡骸が全て灰になるまで、アスタロトは瞳を逸らさず、見つめていた。







 北西の方角に炎が揺れている。
 戦場を浄化する炎だ。
 ファルシオンはボードヴィル砦城の塔から、揺らぐ大気を見つめた。大地から立ち昇り夜を照らすようなその灯りが、心の中や体の奥に沈んでいたものを拭い去っていくように感じる。
 胸のあたりが少し、軽くなった。
「アスタロトの炎は、きれいだ。みな、これでゆっくり眠れるだろうか」
 そうあって欲しい。
 もう二度と、その命、その死を貶められることのないように。
「そう思います。きっと」
 すぐ傍で同じように炎を見つめているレオアリスの、その声の響きはファルシオンを安心させる。
 ずっと前から傍らにあって、この先もずっと、そこにいるように思えた。
 けれど父王がそうだったように――ただ思っているだけでは駄目なのだ。自分がそのために動かなくては。
「レオアリス。彼等のためにも、からなず勝とう」
「はい」
 レオアリスが今、この瞬間も、ナジャルが動き出した場合に備えて即応できるよう意識を張り巡らせていることがファルシオンにもわかる。
 そしてその時が、すぐそこにあることも。
 ナジャルとの戦いは、この半年間の――そして今日乗り越えたどの戦いよりも厳しく困難なものだ。
 これまでも、今日も、できることを、できる限り、やってきたと思う。
 それでも。
「私はレオアリスに、たくさん、いろんなものをまかせてしまっている」
 サランセラムを照らす炎は、少しずつ色を失い、小さくなっていく。
 その炎が消えたら、もう一歩前へ進む。
 ファルシオンはレオアリスと向かい合い、決意を込めて笑みを浮かべた。
「帰ったらたくさん、たくさん話をしよう。私に分けてほしい」
 レオアリスが頬に笑みを刷く。
「はい」

 遠く、澄んだ炎の気配を乗せた風が、肌を撫ぜるように流れた。








 夕闇が辺りを埋めていき、やがて夜になる。
 風の音だけが渡る静かな草原で、ナジャルは身を横たえていた。周囲から見ればそこには、夜の色よりも濃い闇が横たわっているように見えただろう。
『浄化の炎――オルゲンガルムと同じもののようだった』
 この短期間にそれを身に付けるとはと、感心を覚える。
 それが願いの、意志の強さというものだろうか。
 地上は随分と、変化と可能性に満ちている。
 ナジャルはひとつ、欠伸をした。
 しかし腹が減った。
 死者の軍を吐き出し、そして三つの影を吐き出し、腹の辺りが少し心許こころもとない。
 身を揺らし、闇全体が揺れる。
 闇の一部が鎌首をもたげ、枯れた草地を這う。
 動き出したそれがぴたりと止まる。
 同時に、その周囲――半径百間(約300m)ほどの円形に光の幕が立ち上がり、ナジャルの闇を阻んだ。
『法術――』
 アレウスの法術士達によるものだ。
 遠隔で、対象者が動いた時にだけ発動するよう、およそ一里(約3km)離れたボードヴィルから張られたものだろう。
 だからこそ、ナジャルを封じ込める意図のものではない。
 ただ鈴を鳴らす為だけのもの。
『――』
 定まらない闇の中で、ナジャルが薄く嗤う。
 闇の一部は光の幕を事も無く抜け、そしてその先の草地を這った。二百間先のシメノス岸壁へと這い、岸壁を水の筋のように流れ落ちる。
 喰らうものはこの辺りには無い。近隣の村も街も、全てもぬけのからだ。
 近くの命はボードヴィル砦城のもの。
 だが、シメノスの下流――そこには。






 ボードヴィル砦城は俄かに慌ただしさを増した。
『ナジャルが、動きました――!』
 法術士団からの報告に、日中軍議を開いた広間で、ファルシオンの前に立っていたレオアリスとアスタロトは互いに顔を見合わせた。
「一晩は休ませてもらえなかったな」
 レオアリスが動く。
 ファルシオンの前に一度片膝をつき、上体を膝の上に伏せた。
「レオアリス――、そしてみなに、武運を」
 ファルシオンの言葉に身を起こし、幼い面を見上げて頷く。
「必ず――」
 口元に笑みを刷き、レオアリスは立ち上がった。もう一度ファルシオンへ一礼し、広間を抜け、扉に向かう。
 アスタロトも同様にファルシオンへと膝をつき、レオアリスを追った。
「まずは、援護する」
 レオアリス、ルベル・カリマ、プラド――、その剣域に身を置くのは難しい。アスタロトは遠方からの支援を担う。
「ちゃんと引き連れてこいよ。アルジマールが準備してるとこまで。それが鍵なんだから」
「解ってる」
「無茶すんなよ」
「解ってる」
 二人が扉についたところで、再び法術士団からの報告の声が広間に落ちた。
『重ねて、ご報告いたします。ナジャルはこちらへは向かっておりません。ナジャルが向かっているのはシメノス下流――』
 アスタロトは瞳を見開いた。
「まさか、逃げる――?」
 シメノスを下り、西海へ抜けるつもりか。
「いや、そんなはずない。私達を喰らわずに帰るほどの損傷も脅威も、これっぽっちも与えてないんだから」
 アスタロトが自分で首を振る。
 その言葉を耳に、レオアリスは瞳を細めた。
 シメノス下流――
「――レガージュ……、いや、その手前」
 奪還したレガージュを起点に、南方軍がシメノス沿岸に展開していた。後退してくる西海軍後陣を補足する為だ。
 午前中のシメノス戦で分断し、後退した西海軍はおよそ四万弱。下流域で目論見通り南方軍と戦闘となったが、今は一旦小康状態に入っている。
 アスタロトとレオアリス、二人が瞳を合わせる。
「まさか――」
 シメノス下流へナジャルが向かったとしたら、その目的は。
 レオアリスは奥歯を噛んだ。
 西海軍後陣四万弱。そして、南方軍。
「下流の兵を喰らうつもりか」









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2021.3.21
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