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王の剣士 七

<第三部>

第九章『輝く青 3』




「レオアリス!」
 レオアリスにはレーヴァレインの声が届かないのか、現われた男の前に立ち尽くしている。
 闇から形作られたその姿――それは先ほどまで相対していた海皇の面差しと同じであり、そしてまるで印象の違うものだ。
 一瞬その存在が、ナジャルの吐き出した影から創り出されたものだということを忘れるほどに。
 その理由は、一つだ。
 ナジャルが、他の二つの影が纏っていた禍々しさがそこには無い。
「――良くない」
 レーヴァレインは駆け寄ろうとし、足元から噴き上がった闇に左腕を取られた。
 左腕――肘先に装着していた銀色の義手が、どろりと溶ける。そのまま闇が這い上がる。
 レーヴァレインは咄嗟の判断で、剣で義手ごと闇を断った。宙に足場を作り出し、飛び移る。まだ癒えていない胸や手足の傷がひきつれ、一瞬身体が傾いだ。堪えて更に蹴る。
 闇が伸び、レーヴァレインが蹴って離れた直後の足場を包み、溶かす。レーヴァレインは蠢き追ってくる闇を躱し、作り出した足場を移動しながら、凍り付いたように立ち竦んでいるレオアリスへ、声を張った。
「レオアリス! よく見ろ! 言ったはずだ、それは君の剣の主じゃない!」
 自分の声がひどく空虚に届いていることを、レーヴァレインは自覚していた。
 自分では届かないだろうことも。
 それでも声を張る。
「解るだろう!」
 レオアリスの剣が消えている。
 それが何よりの証だ。剣の主の前で、その捧げた剣が消えることはない。そのことにレオアリスの心が気付いていないはずがない。
「レオアリス!」
 海皇は既にシメノス南岸の縁にいる。シメノスを渡ればボードヴィルだ。三叉鉾はいまだ大気の中から命を吸い上げ続け、そしてボードヴィルに至れば、そこにいる者達の命を残さず吸い上げるだろう。
 それはナジャルへ力を与え続けることでもある。もし、ファルシオンの命を取り込めば――
(ナジャルを倒せる可能性は、限りなく低くなる)
 レーヴァレインはほんの僅か迷い、海皇へと、宙空に足場を浮かべた。
 足場を駆けようとしたその正面に、闇が遮って立ち上がる。
 右腕の剣を振るい、闇を断つ。直後に足元から闇が湧き起こり、レーヴァレインは飲まれる寸前で足場を蹴った。
 新たな足場に降り、慎重に呼吸を整える。
(傷の回復が遅い)
 その原因は海皇の闇が剣を捉えたことにあるのだろう。何より、海皇の三叉鉾が今も生命を吸い上げ続けていること――気を巡らせ遮断していても、僅かに削り取られていく。
 ナジャルの含んだ笑い声がレーヴァレインの意識を冷やす。
『悲嘆、絶望――その中から生まれ出る希望。なんとも心地良い。深ければ深いほど、複雑に絡み合うほどに、我が舌には美味だ』
「あなたの趣向は本当に賛同できない、古き海の王」
 レーヴァレインは足場の上で身を起こし、ナジャルに向き直った。
 ナジャルを一時でも抑えなければ、レオアリスへ働きかけることも、海皇を止めることもできない。
原初の竜オルゲンガルムに近しい存在であるはずのあなただ。我々泡沫のごとき命の足掻きなど、瞬きの間に消えていく程度のものだろう。何故苦しめる」
『何、ただの暇潰しだよ』
 視線の先でナジャルは、自分へ剣を向けるレーヴァレインを意に介す様子もなく、レオアリスと王の姿を捉えて笑みを浮かべ、両手を広げた。
『さあ、見せてくれ。絶望の中の希望――希望の果ての絶望』
 レーヴァレインはナジャルへ、踏み込んだ。
 右腕の剣が白く発光し、熱を帯びる。
 光を引いて流れ、ナジャルの身体を薙ぎ、斬り下ろす。
 それまでの攻撃とは異なり、ナジャルの身体はほんの瞬きほどの間、静止し――断たれた身体は再び元通りになった。
(手応えは、ある――)
 吐き出した影の一つ――ルシファーが消えたからか。
 それとも、海皇に続いて、王の姿も現わしたからか。取り込んでいた膨大な力の塊――それでも、おそらくナジャルが取り込んだ王も海皇も、ルシファーも、その時点で本来のものではなかったはずだが――それを身から切り離したからか。
(斬れる)
 必ず――
 レーヴァレイン一人の剣では不可能だったとしても、このナジャルを斬ることはできる。
 だからこそ、その為にレオアリスは剣を取り戻さなくてはならない。
「レオアリス!」
 ナジャルの闇がレーヴァレインを囲み、高く立ち上がる。
「!」
 闇が滝のように降り、レーヴァレインの身体を包んだ。






 タウゼンは再び増してきた眩暈を押さえ込み、城壁に手をついて南岸を見据えた。
 細部は見えない。それ以上にまだ、一点の闇のようにしか見えない。
 だが、確実に近付いてきている。この眩暈、兵士達を襲った状態の原因が、その手にしている黒々と闇を纏った武具であり、それが見えない触手を広げ命を吸っているのだと判る。
「やはり、ここへ向かっているか」
 ここにいる多くの兵、そしてファルシオン。その命を喰らう為だ。
「南岸の戦いは、どうなっている」
 レオアリスと、ルベル・カリマの剣士の二人が今どのような状態なのか。つい先ほどまでレオアリスの剣光と、そしてレーヴァレインだろう白光が閃くのが見えていた。それが今は見えない。
 ただ、二人が近付いてくるものを止められない状況にあるとは推測できた。
(公は――)
 アスタロトともう一人の剣士は。
(シメノスに落ちられた)
「タウゼン閣下、ご指示を。まずは防御を固めねばなりません。この城への攻撃と、それから吸収を遮断する防御陣を」
 傍らに立ったハイマンスもまたタウゼンと同様、眩暈を堪えるようにこめかみを抑えている。ハイマンスは五十代前半のタウゼンよりも十歳上だ。タウゼンは頷き、ハイマンスの肩を一度叩いた。
「ハイマンス、お前は座って少し休んでいろ」
 拳を握り込み、声を張る。
「法術士団、法術院は城への防御陣の展開、そしてあの存在の捕縛の用意」
 法術士達はファルシオンがその力で一度吸収を遮断した後、既に防御陣の準備に入っている。
「同時に迎撃準備を整えよ! 大型弩砲アンブルストへの矢の装填、集中斉射できるよう配備を変える」
「王太子殿下は、王都へお戻りいただきますか」
 大型弩砲アンブルストが配置を変える滑車の音が低く流れる中、タウゼンは双眸をすがめ、近付いてくる影をもう一度睨み据えた。あれは確実に、ここにいるファルシオンを目指している。
 ファルシオンが王都へ転位した場合、あの影はどこへ行くのか。
 万が一、ファルシオンを追い王都へ移動してしまえば、この戦いはそこで終わる。
「――まずは、法術による防御を固める。状況によっては、アルジマール院長にはここへ戻ってもらう」
 ファルシオンを守り抜くこと、それが最も重要だ。
 法術士達の詠唱が流れ始める。
「北岸、後退した西方、東方軍の状況を確認させよ。押されているようなら南岸の北方軍を向ける。北方軍からはまず飛竜隊を一隊、ボードヴィルへ戻せ。ファルシオン殿下には一時、飛竜で可視範囲内に退避頂くことも想定に入れる。ランドリーへはすぐにこの空域に近寄らず、様子を見るよう指示を徹底させよ」
「閣下、南岸から――!」
 兵の声にタウゼンは再び南岸を睨んだ。
 南岸からシメノスの上空域、そして北岸へ――闇が橋を架けようとしている。その先端は既にシメノスの河幅の半ばまで達していた。
 タウゼンは片手を上げた。
大型弩砲アンブルストを放て!」
 歯車が噛み合い回転する音をたて、強靭な発条ばねを張る。
 次の瞬間発条が弾け、ボードヴィル砦城の城壁から、鋼鉄の矢がシメノスを渡ろうとする闇の橋へ打ち出された。






 三叉鉾の切先が、闇を纏ってゆらりと揺らぐ。
 光。
 丸い黄金の光が、遠くに見えている。
 ぶつぶつと闇は呟き、ほとんどが意味を成さない弾ける泡のような音の繋がりの中に、時折貪欲な響きが混じる。
『寄越……せ――』
 命。闇のうろを埋めるもの。再び取り戻し、地上へ――
 戻る為のもの。
 濁った眼差しをボードヴィルへ向ける。そこに多く命が揺れているのがわかる。その中でも、一際輝く黄金の光。
『――』
 泥の海に弾ける泡のような呟きを落とし、海皇は身体を左右に揺らめかせ、一歩ずつ歩いた。
 南岸の縁から、足を踏み出す。闇が足元に伸び、シメノスの岸壁に橋を伸ばす。
 ボードヴィル城壁から一斉に放たれた鋼鉄の矢が橋へと降り注ぎ、だが、矢は闇に触れた瞬間からどろりと溶けていく。
 その間にも更に闇の橋は伸び、北岸、ボードヴィル城壁の足元へと先端を架けた。
 海皇は闇の橋を、のろのろとした動きで渡り始めた。










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2021.1.31
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