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王の剣士 七

<第三部>

第八章『輝く青 2』



 
 水平線も空も既にその境を失い、フィオリ・アル・レガージュの街はシメノス河口の斜面に黒々と沈み込んでいた。
 普段は海にその存在を示し絶えず灯されていた通りの灯りもなく、家々の窓にも一つの光も無い。
 今、レガージュの街を占拠しているのは西海軍の兵士達の群れだ。港は桟橋を失い、そしてレガージュを交易港たらしめていた船は一隻も見当たらない。
 西海の兵士達はその大半が海の中に身を置き、しんと静まって次の号令を待っていた。




 西海軍第一軍将軍フォルカロルは、占拠したレガージュの交易組合会館へ、ゆっくりと踏み入った。
 がらんとした玄関広間は二階までの吹き抜けだ。正面の階段は途中の踊り場から左右に分かれ二階へと続いている。
 部下が恭しくフォルカロルを導き、フォルカロルは三階の交易組合長の執務室に入ると、当然のように窓際の広い執務机に腰掛けた。
『閣下――』
 副官のベンゼルカが部屋の中央に膝をつく。
 フォルカロルと同じ水人種で、肌の色が青白い以外は地上の人種と変わらない容貌をしている。
『アル・レガージュは完全に掌握しました。ザイン、そしてレガージュ船団は住民達を連れ、南へ逃れています。今は偵察のみ、差し向けております』
 フォルカロルは鷹揚に頷いた。
『住民どもを連れている以上、大した動きなど取れないだろう。奴等は放っておけ。ザインにだけ注意を向けておけば良い』
『承知いたしました。次の動きですが』
『シメノス遡上の準備を急がせよ。一刻後にはこの街を発ち、ボードヴィルを目指す』
『恐れながら――閣下、一旦、兵達を休めるよう、ご高配ください』
 低い姿勢からの進言にも、フォルカロルはじろりとめおろした。
『腑抜けたことを――! 今が好機だ。この勢いで軍を進め、一気呵成にボードヴィルを陥さずしてどうするか! 奴等め、相当慌てふためいているはず、そこを突いて壊滅させるが用兵の王道。貴様は我が副官でありながらその程度の潮目も読めんのか』
 ベンゼルカはさっと身を低くした。
『いえ――閣下の御慧眼、敬服の至りに存じます。しかしながら、我が愚考にほんの僅か、御耳を傾けて頂けますれば、』
 ゆったりした椅子を味わうように、フォルカロルは身体を深く持たせかけた。
『良かろう、聞いてやる。申せ』
『は。申し上げます。現在、ボードヴィルにはほぼ、アレウスの兵はおりません。アレウスめが陣を張ったのは、間抜けにも見当違いのグレンデル平原――、ボードヴィルまで騎馬でおよそ一日の距離であります。飛竜を持つとしても全軍を移動させるには早くとも半日を要しましょう。であれば我等が深夜に兵を出し、早朝ボードヴィルを強襲する頃にもまだ、奴等は必死に馬を駆っていることでしょう』
『だが、アレウスには転位の術があろう』
 フォルカロルは声音を緩めはしたが、眉を厳しく怒らせたままだ。
『転位の術は、大軍の転位ほど従前からの準備が必要なもの――いかに転位陣が優れていようと、この急転直下ではグレンデル平原へ布陣した五万を一息に転位させることなどできますまい。シメノス遡上、その後の戦いは激しいものになり兵どもも疲労を溜めましょう。今、閣下の温情、御心の広さを兵どもに示されておかれるのは、この先・・・、有益かと――』
 この先、と、言葉に力を込めた意図を、フォルカロルは受け止めた。
 白い面に満足げな笑みを浮かべる。
『ふむ。そうまで申すのならばそちの言、容れようではないか』
『有難き幸せに存じます』
 ベンゼルカは恭しく状態を伏せた。
『明日の布陣は』
『昼の軍議の通り、六万二千の兵をもってシメノスを遡上致します。まずはボードヴィルにおいて王太子ファルシオンを捕縛、グレンデル平原より転進したアレウス軍を順次撃破、壊滅させ、その後王太子を処刑します。旗印と軍を失えばもうアレウスに打つ手はございません。悠然とシメノスを遡り王都を奪う――』
 フォルカロルは鷹揚に頷いたが、ただ、とベンゼルカは続けた。
『現時点で我が軍の一部を王都へ、直接向ける手もございます。ボードヴィルと同時に王都を攻撃すれば、勝利は更に確実となりましょう』
 ベンゼルカの足元に、投げ付けられた墨壺が砕ける。
 フォルカロルはベンゼルカの新たな進言を半ば苛立ちと共に跳ねつけた。
『貴様はこの私に、先月のプーケールめと同じ轍を踏めと――? 兵力を分散したが故の敗北を忘れたか! プーケールめ、この私を出し抜いて王都を襲撃し功を得ようとしたつもりが、部隊は壊滅の憂き目を見、奴自身は命を落とす結果となったではないか。あの敗北がサランセラムの我が本隊の敗北に繋がったのだ。今更事の理も弁えない愚かな進言を私に聞かせるな』
『は――ご無礼を申し上げました。何卒、ご寛恕頂けますよう……』
 すぐさま身を伏せたことに、フォルカロルは怒りを昇らせていた面を緩めた。
 双眸を細め見下ろす。
『許す。だが次に同じことを聞かせれば、貴様は能無しということだ。私を失望させるな』
 ベンゼルカは恭しく顔を伏せ、フォルカロルの前を辞した。




 広い室内の床や書棚、卓や執務机には、マリ王国や南方の国が原産の、貴重な麻栗樹ジャティ材が惜しみなく用いられていた。
 艶やかで濃い黄金色の木材は貴族や富裕層、文化人に好まれ、アレウス以外でも高値で取引されている。美しさだけではなく耐久性と耐水性に優れ、強靭であることから船の甲板などにも使われた。
 そうしたこの部屋の一つひとつがレガージュにおける交易の盛んさと繁栄ぶりの一端を示すものでもあったが、フォルカロルは一切興味を示さなかった。
 ただの木製の机だ。フォルカロルの役には立たない。
『何とつまらぬ所だ。城も、玉座も無い。レガージュなどただの港街に過ぎぬではないか。難攻不落ですらない』
 貴重な書物や財貨は全て持ち出したのか、広い部屋にの左右に設えられた書棚はほとんどが空だ。
 戦果の一つもないとは、腹立たしい。
『やはり玉座を奪わねば』
 だが、と独りごちる。
 今の海皇は抜け殻だ。
 海皇は既にナジャルの吐き出した影に取って変わられている。ならばフォルカロルには偽りの海皇に従う義理などない。
 偽りの海皇に、玉座など必要ない。
『では誰に、玉座が必要か――?』
 ナジャルに玉座が渡されると決まった訳ではない。
 他の三の矛は今は無く、他の将軍達の内プーケールは既に戦死し、レイラジェは裏切り者として数日の内に討たれ命を落とす身だ。
 では、その後の西海、そして地上に於いて、玉座を手にすべきは誰か。
 他に誰もいない部屋で一人、フォルカロルはほくそ笑んだ。





 西海軍がシメノス遡上を開始したのは、翌十一月二十三日深夜、一刻のことだった。
 レガージュからボードヴィルへ、西海軍先陣が到達するのにおよそ五刻。
『進め――』
 先陣にフォルカロルの副官ベンゼルカ、中央陣に総大将フォルカロル、そして後衛となる陣に第三軍将軍ヴォダが自らの海馬を置く。
 河幅いっぱいに、横一列六十名が並ぶ方陣形を連ねた六万の軍は、その全長およそ半里(約1.5km)にも及んだ。
 兵列が進み始めるにつれ、シメノスの流れが進軍に遮られ、水嵩を増し、兵達の足元や身体の脇を辛うじて流れ過ぎて行く。先陣は使隷のを用い流れをものともせず進む。
 目指すボードヴィルは、十里(約30km)の距離だ。
 一方で未だ動き出さない後衛に身を置いている第二軍将軍ヴォダは、海馬の上で退屈を隠さず身を揺すった。
『フォルカロルめが、戦功を奴一人のものにするつもりだ。こんな位置では俺は出番すらなく、ボードヴィルに着いた頃には全て終わっているだろうよ』
 このような長大な兵列は、とうんざりと吐き出す。
 ヴォダの得意とする剣技も、今回は使いどころが無いように思えた。
『レガージュの追い討ちであれば、少しは楽しめたのだろうが』
 ザインと剣を合わせることぐらいしか楽しみが無い。
 傍らに海馬を置く副官エリルが『ですが』と上官を見る。
『ボードヴィルには炎帝公と呼ばれる小娘と、もうひとりの剣士がいるでしょう。フォルカロル殿には荷が勝ちすぎる。そもそも自ら戦おうとするかどうか』
 と声を潜め、かぶとの面頬の下に笑いを隠した。
『慌てて閣下へ助けを求めてくるのではありませんか。閣下の剣技が必要とされる場は、自ずと出てくると考えます』
『いっそフォルカロルめが名誉の戦死でもしてくれれば、俺はその弔い合戦を喜んでやってやるのだがな』
『楽しみですな。加えてボードヴィルを陥した後、もうお一人、閣下の剣を必要とする相手がおられましょう』
 ヴォダは銀色の硬貨のように光る眼でエリルを見た。
 その視線を前方へ戻す。
『あの裏切り者か――』
 自身と同じ変異種の、そしてほぼ同じ時期に昇進を競い合った男だ。
 元第二軍将軍レイラジェが海皇の元を離反した理由、それはヴォダにとっては価値を感じないものだった。
 ヴォダは海馬の手綱を軽く握り直し、その後は自らの陣が動き始めるのを、再び退屈を隠そうともせず待った。

 六万五千の内三千をレガージュに残し、六万二千もの大軍は、ゆっくり、整然と、シメノスの暗く広い河面を地上の街道のごとく進軍していく。







 レガージュの西海軍がシメノス遡上を開始したと、同時刻。
 まだ夜明けの気配の遠い暗い丘陵地帯を、夜の闇に身を沈めた集団が影のように進む。
 風はなかったが、集団の動きに押され、夜の大気が重く揺らぐようだ。
 影絵のような集団が目指すのは、南東、およそ三百間(約900m)先を流れるシメノス大河の河畔――そのシメノスに沿って上流へ向かえば、軍都ボードヴィルがある。
 そこには今、アレウス国王太子、国王代理たるファルシオンが本陣を置いていた。だがファルシオンを護る兵は近衛師団を始め、千名程度の護衛しか配置されていなかった。
 そのファルシオンの命を奪う為の、西海軍六万。
 未だその情景は夜の丘からは目にすることはできない。
 夜を進む彼等の後方の丘へ目を凝らせば、丘は薄らと光を纏っている。
 ゆらりと揺れ、影を浮かび上がらせ、吐き出した。









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2020.10.25
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