三十五
全ての音が周囲から消える。
ただ一人向かい合い、そして影は正面に、ほんの三間ほど離れたところに立っていた。
纏っていた闇がゆっくりと剥がれ落ちていく。その姿が現われる。
レオアリスは緩く首を振り、一歩、足を引いた。
見たくない。
見てはいけない。
視線を逸らし、通り過ぎろ。
ボードヴィルへ――
ファルシオンがそこにいる。ファルシオンを、護らなくては。それがレオアリスのやるべきことだ――この剣が。
頭の中で、警告の声が激しく渦を巻く。
その全てを理解している。
紛い物だ。違う。
これはナジャルが創り上げただけのもの。
レーヴァレインがそう言ったように、ただの影――残滓。ナジャルの悪意の塊。
その人では、決して無い。
解っているのに、それでも瞳は逸らせず、閉ざすこともできなかった。
纏っていた闇は既になく、その姿は今、レオアリスの前にはっきりと在った。
乾いた大地に陽光が落とす、影の輪郭の明らかさ。
深い智慧と威厳と、静謐を湛えた黄金の双眸。
半年前、あの朝、レオアリス達の前に立っていた、王の姿――
幼い頃から何度となくその光を想い描き、そして王都で初めて目にした姿、レオアリスの前に在り続けた姿。
眼差しも、身に付けていたものも寸分違わず、それは彼の王の姿だった。何も、何一つ変わっていない。
銀の髪と、暗紅色を重ねた長衣の裾を風が揺らす。
王は身を揺らし、レオアリスへ、その黄金の双眸を当てた。
「レオアリス」
低く紡がれたその、声――
深い響き。
口元に浮かぶのは時折目にすることのできた、微かな笑みだ。威厳に満ちて温かく、深い。
見開いた瞳から涙が零れ、頬を伝って落ちた。
「陛――」
言葉を発しようとして、掴み損ない、息すら吐き出せなかった。喉は微かにその周辺の空気を震わせただけだ。
湧き上がる無数の想い、感情は何一つ言葉にならず、ただ喉の奥を塊が塞いでいる。
違う。
違う、はずだ。絶対に。
解っている――
それでも。
それでももう一度、その姿を目にしたかった。
その存在の前に立ち、声を聞きたかった。
名を呼ばれたかった。
熱の塊が喉の奥を競り上がり、零れた。
「――陛下……」
押し出した声と共に、押え込んでいた感情がどっと溢れ出す。
「陛下」
王が帰らなかったなど、信じていなかった。
そうだ。
信じていなかった。絶対に違う。
イスに行けばわかる。きっとまだ王は、イスにいて、王自身の何らかの考えがあって、だからそこに留まっているのだ。
兵達を救う為に残った。まだ戻らないのは王自身の意思のもとのことだ。
いずれ戻る。ファルシオンも、エアリディアルも、王妃もいる、王都へ。
戻らないはずはない。
そんなはずがない。
だって自分はそこにいなかった。この剣を持ちながら、イスに――王の傍にいなかった。
だからそんなはずはない。
そんな時に王の傍に自分が、いられなかったはずがない。
そんなのは嘘だ。
絶対に。
「そうだ――」
頬を涙が止めどなく伝う。それをレオアリスは意識していなかった。
口元に微かに、あるかないかの笑みが浮かぶ。
「やっぱり、嘘だったじゃないか――」
こうして今、王は目の前にいる。
戻らないなど嘘だった。
嘘だった――ずっとそう思っていたように。
それなのに何故、胸を掴むような苦しさがなくならないのだろう。
レオアリスは力無く下ろしていた両手を、緩く握りしめた。
手の中から、剣は消えていた。
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