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王の剣士 七

<第三部>

第八章『輝く青 2』

二十五



 
一人目・・・



 その響きは悍ましく、悪意に満ちて耳の奥へ入り込んだ。


 俯き、項垂れている。
 両脇に垂らした両手は力なく開かれ、そこに意思は感じられなかった。
 もとの彼女の軽やかさは残酷なほど損なわれ、踏み躙られている。
 アスタロトは自分の血が熱を持って身体や頭の中を巡っているのを感じた。
 怒りで破裂しそうだ。
 許せない。
 風が彼女の黒髪を揺らし吹き上がる。
 腐敗臭を帯びた、重い風。ぬるりと、肌に纏い付くような――
「――ふざけるな!」
 アスタロトの正面に炎の塊が膨れ上がる。夕陽がそこに落ちたように、激しく渦を巻き、大気を焼いた。
「レオアリス、離れろ! 焼き尽くしてやる!」
 レオアリスの姿を探し、唇を噛む。
 青白い剣が光を纏い、水の代わりに川底を埋めるの中に光を放っている。だが、ナジャルの黒い闇がその身体に纏い付き、ナジャルとナジャルの生み出した影へ斬りつける寸前で止まっていた。
 剣を握る右腕に込められた力とその身を捉える闇が、鬩ぎ合っているのが判る。レオアリスが纏う青白い陽炎が、憤りで埋め尽くされた中でさえ、アスタロトの意識にひやりと刃を当てた。
 一瞬、アスタロトの憤りを冷やすほどの激しい怒り。
「レオアリス!」
『会いたかったのだろう、そなたも――』
 ナジャルはその右手を正面へ述べた。上流、シメノスの水を堰き止めている第一の堰へ。
『つもる話をしてはどうかね。それとも戦いの続きをするか』
 ナジャルの足元から湧き出る黒い影が川底を這い、突風の速さで伸びる。瞬く間に第一の堰に到達すると、堰の上に残るアレウス兵や西海兵に退避する間も与えず、脚元から這い上がり、黒く包み込んだ。
 次の瞬間、石造の堅牢な堰は、灰を固めて造られていたかのように、ぼろりと崩れた。その上にいた数十名の兵ごと――シメノスの流れを堰き止めていた水門も。
 堰き止められ、あと僅かで堰を超えるほどの高さまで溜め込まれていた水が、轟音と共に流れ下る。
 ボードヴィル砦城のやや下流に立つナジャルと、二つの影、項垂れたままのルシファー。
 レオアリスへ。
「レオ――」
 アスタロトは炎の渦を、叩き下ろした・・・・・・。滝のように――柱のように紅蓮の炎がなだれ落ちる。
 ルシファー・・・・・が顔を上げた。
 瞳が無い。
「――ッ」
 呼吸が再び、喪われた。
 ルシファーの両手が広がる。
 第一の堰が失われシメノスを轟音を立てて流れ下る水が、彼女を飲み込む直前で、その周囲だけ見えない壁があるかのように円形に避けて流れる。
 そこを中心に渦を巻き――そのまま、竜巻となって立ち上がった。
 空から降り注ぐアスタロトの炎とシメノス岸壁の半ばでぶつかり合う。
 束の間、炎と水は拮抗し、一呼吸後、炎は大量の水蒸気を吹き上げ水に呑まれた。水竜巻が高温の蒸気を伴ったまま空中のアスタロトを包み込む。
 シメノスは流れを取り戻し、ナジャルとその影と、闇が捉えたレオアリスごと、激流に飲み込んだ。
「――!」
 叫ぼうとした喉へ、水蒸気が流れ込む。
 アスタロトを乗せていた飛竜が水蒸気に焼かれ、苦鳴を上げ身を捩らせ、シメノスに落ちる。
 岸壁にぶつかり逆巻き流れる激流が、落下したアスタロトを呑み、身体は流れに巻き取られた。飛竜の身体が激流の中に消える。自分の意思などまるで効かず、全身が揺さぶられる。
(呼吸――、息……が)
 肺にまるで空気がない。水面がどこかわからない。
 耳が詰まり、頭の血管が破裂しそうだ。肺が縮む。身体が川底にぶつかる。
 目の奥がチカチカと警告の瞬きを発した。手足が流れにもぎ取られそうに捻れる。
(まだ)
 まだ、ここで、死ぬわけにはいかない。
 俯いていた姿。
 美しかった、夜明け前の空の色のような瞳。
 軽やかな微笑みと、彼女そのもののようだった風。
(――許せない)
 肺の最後の酸素が尽きかける、その直前、アスタロトの体は何かの力に急激に引かれた。
 不意に身体の重みが増す。肺が空気を取り込んだ。
 同時に、吐き気を催す臭気も。
 ようやく叶った呼吸と喉の奥にべとりと張り付くような悍ましい臭気に、アスタロトは体を折るようにして咽せ返った。
 河面の、上だ。シメノスの岸壁の半ば。
「――ッ」
 目の前に、ルシファーがいた。
 間近に目にし――もうその存在が、戻りようもなく変わり果てていることを思い知る。
 臭気が塞ぐ喉から声を無理やりに絞り出す。
「……許せ、ない」
 這い寄る嘲笑が、荒い息遣いの向こうから耳の奥に染み込んだ。
『許せない? 何故かね? その者は志半ばで虚しく死んだ。その無念、叶えさせてやりたいと思ったのだ。その者の救いになることだと思わないかね』
 アスタロトは顔を跳ね上げた。
「お前――!」
 言葉が続かない。怒りで、全身が憤りで震え、酸素を取り戻した肺が呼吸を忘れてしまう。
 瞳が忙しなく動きナジャルを探す。シメノスの流れの下――
 今は水流は収まり、朝の、戦いが始まる前の速くても一定の流れに戻っている。ナジャルはその下だ。
 ぎくりとした。
「レオアリス――」
 まだ流れの、下に
 不意に伸びた手が喉を掴んだ。
「!」
 五本の指が――肉が崩れ、所々剥き出しになった骨が、喉に食い込む。
「ファ……」
 溢れかけた名前を飲み込む。
 ちがう。
 張り付く腐臭。
 覗き込む空洞の眼窩。
 ひび割れた口元が、笑みを象った。
「――違う!」
 アスタロトは右腕を跳ね上げ払った。喉を掴んだ手は加わる力とは裏腹に脆く、アスタロトが払い除けたその一振りで、手首から折れた。乾いた小枝のようだ。
 競り上がった悲しさと遣る瀬無さにぎゅっと唇を噛む。
 憤りが腹の底に重く澱む。
(私――、私は)
 ハイドランジアの美しい湖の連なりが目に浮かぶ。
 あの時、アスタロトが戦ったのは、彼女をこんな状態にする為ではなかったのに。
 あの時、自分が彼女を、最期まで――
「公!」
 はっと顔を上げる。
 上空から滑り込んだ飛竜がアスタロトをその背に掬い上げたところだった。シメノスの河面ぎりぎり、また水に落ちる寸前だった。
「――タウゼン。助かった」
 飛竜の手綱を繰るタウゼンを振り仰ぐ。
 岸壁の半ばほどの高さに浮かぶルシファーの横を擦り抜け、アスタロトを乗せた赤鱗の飛竜は一旦ボードヴィルの城壁近くへ宙を駆け昇った。ルシファーの頭がアスタロトを乗せた飛竜の動きを追いぎこちなく動く。
 努力してその空洞の視線から意識を逸らし、アスタロトは上空からシメノスを見下ろした。
 鼓動が速い。
「タウゼン、レオアリスは――レオアリスの状況は把握してないか」
 破壊された堰から流れ下った水はナジャルには何一つ影響を与えていないだろう。ただ、ナジャルの闇に身を捉えられていたレオアリスは。
「法術士団が、探索と、転位陣を」
 タウゼンの言葉を聞きながら、アスタロトはシメノスの流れに目を凝らした。
 流れが戻りもうどれだけ経ったのか。息は保つのか。
「タウゼン、飛竜を――」
 視界の先、流れ続けるシメノスの河面が、青白く発光した。内側から透けるように。
 直後、水面が塊のように盛り上がり、弾ける。
 幾筋もの、青白い光の筋の交差。
 アスタロトが新たな飛竜の手綱に手を伸ばす前に、空から銀色の矢――陽光を弾く銀翼の飛竜が水面へと突っ込んだ。
「ハヤテ!」
 視線が僅かに彷徨い、次いで河面から飛び出した飛竜の姿を捉える。河面から闇が触手のように数十の手を伸ばす。駆け上がる銀翼の背に青白い光が膨れ、伸びる闇の触手を千々に断ち切った。
 河面へと戻る・・闇へ、銀翼の飛竜から一筋、それまでよりも煌々と、青白い光が――剣光が奔る。
 シメノスの河面が割れる。
 一瞬、川底に立つナジャルの姿が曝け出された。その正面と右に揺れる、二つの影も。
 ナジャルの真上に剣光が落ちる。
 激しい水飛沫が岸壁の上まで吹き上がった。
「レオアリス!」
 アスタロトは飛び乗った飛竜の手綱を繰り、シメノス上空の銀翼の飛竜へ翔け寄った。
 レオアリスはハヤテの背に立ち、右手の剣を握り締め、眼下のシメノスを見下ろして――睨み据えている。肩は不規則な呼吸に揺れている。
「レオアリス、無茶するな!」
 それでも、今の剣撃ならばナジャルに、負傷を与えたのではないかと――
「まだだ。何も効いてない」
 レオアリスの声は淡々と、奥底に抑え難い怒りを孕み、押し出された。
「あの、影も――」
 その声を耳にしながら、アスタロトは喉の奥に息を呑み込んだ。
 河面が渦を巻き、盛り上がる。
 つい先ほど、水を失った川底に立っていた時と何一つ変わらず、ナジャルの姿がゆっくりと現れる。二つの影も。
 一人目・・・、と、そう言った。
 一人目に現れたのがルシファー。
(なら、あと二つは――)
 誰が・・
 肌を撫でる、ひやりとした凍るような怒り。
 レオアリスが誰を想像しているのか。
(まさか、そんな)
 あの深い海の底の、昏い謁見の間。
 黄金の光。
「レオ――」
 何を言っていいか判らず、ただそれを否定したくて、口を開きかけ――
 ハヤテとアスタロトの飛竜が翼で風を叩く。
 僅かに離れた二騎の間を黒い鞭に似た何かが掠めて抜けた。
 黒い竜巻が立ち上がる。
 中空に立つルシファーの周囲に、五本。
 それはあたかも鎌首を持ち上げた蛇が身をくねらせるように、左右にゆらゆらと揺れた。
 だがその渦は、周囲の大気を削り取るようにさえ思える。
『話をしたがっている。聞いてやらねば――』
 風の鞭がアスタロトへ、周囲を囲むように振り下ろされた。






 枯れた草が覆う大地に、重い足音を鳴らし、進軍する。
 死者の群れ、死者の軍。
 抜け殻の列。
 誰の目にも生命が失われているのは明らかだ。本来ならば動くことのない身体が、油の切れた歯車を回すようにぎこちなく、体を揺らし軋ませながら進む。
 正規軍兵達は後退しながら何度となく振り返り、声もなく、のろのろと近付いてくる死者の軍を見つめていたが、その姿が広げた手よりも大きく映るほどに近付いた時、誰からとも知れず呻き声を上げた。
 使者を動かすことそのものが冒涜的で、悍ましい。
 だがより悍ましいのは彼等がただの骸ではなく、よくよく見れば他者と混じっている・・・・・・ことだ。人形の手足を無造作に繋いだように見える。共に戦っただろう兵同士、そして剣を交えた敵同士――
 アレウス国の兵士の身体に西海兵の魚に似た頭が載っている。
 鱗を纏った身体の片腕は剥き出しの人の腕だ。
 上半身と下半身、片脚、両脚、両腕、身体半分。そんなふうにいかにも無造作に気紛れに、ただ合わせ、繋いだようなちぐはぐな姿が、進軍する死者の群れのあちこちに見えた。
 先月、サランセラムで戦った際に現われた死者の軍は、アレウス軍兵と西海兵が混在していたものの、それでもまだ個の形を保っていた。
 けれど目の前の、これは――死者達を操る者が、まるでその存在に興味の無いことが、悍ましく厳然とそこに現われていた。
「――全軍、止まれ」
 ゲイツは剣を握り締め、ナジャルの攻撃を避け後退させていた部隊を、止めた。それとも先に、部隊の兵達が後退の足を止めたのかもしれない。
 ゲイツの西方第五大隊だけではなく、左右に展開する他の西方軍、東方軍の部隊も、ゲイツの指令とほぼ同時に後退の動きを止めた。
 握る剣の柄に力を込め、近付いてくる死者の軍を見据える。
 彼等に共通し、心の中にあるのは怒りだ。アスタロトがルシファーを見て感じたものと同じ、怒りと憤り。
 その怒りをゲイツは吐き出した。
 それは決して遠くへ響かせる叫びではなかったが、兵達の耳に届いた。
「奴等はもとは生きていた、俺達の同僚だ。友人であり、同じ旗のもとに剣を持った仲間だった。がらくたのように扱われることを、断じて否定する」
 無言の同意が兵達の間に満ちる。
「西海兵は倒すべき敵だが、決して侮蔑されるべき存在ではない。彼等の尊厳を、俺達は尊重する」
 兵達はみな、ぎこちなく近付いてくる死者の群れを見据えたまま、腰に帯びた剣の鞘を鎧へ打ち付けるように叩いた。
 金属音が重なり、枯れた大地に流れる。
「だからこそ俺達は、この場で奴等を迎え撃ち、俺達の敵――倒すべき敵として戦い、葬る!」
 剣の鞘を鎧に打ち付ける音が再び響く。
 一呼吸後、ゲイツは自ら騎馬を駆った。背後から放たれた百の矢がゲイツの騎馬を追い越し、躙り寄る死者の軍へ突き立つ。
 矢に貫かれても呻き声も無く、倒れる者もほとんどなく、死者の軍は尚も進軍し続ける。
「俺達の剣を以って奴等を弔え!」











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2020.12.27
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