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王の剣士 七

<第三部>

第八章『輝く青 2』

二十一



 シメノスの川底そのものが持ち上がるように、巨大な蛇体が身をもたげる。
 たった今まで攻防の中心にあった下流の第二堰を押し潰し、川底に倒れた西海兵の躯をその身の下に敷いた。
 四十間近くある体躯は半身を起こしただけでボードヴィル砦城の大屋根を優に超えるだろう。
 ゆっくりとした動きは、余りの大きさ故に、ただ空を流れる雲のごとく、それが意思を持った生物であるという事実を見る者に忘れさせた。


『ほど良く、芳しき香りに満ちている――地上の河には血が滔々と流れ行く』


 その声もまた、遠い雷鳴の響きであり、地上から天へと立ち昇る竜巻の響きであり、荒れる大渦の響き。
 遠くから不意に訪れる死。
 自らの意思が及ばないもの。


『我が身を浸すに未だ充分とは言えぬが、祝宴の始まりには足ろう――』


『欲を言えば足らぬのは、祝宴を彩る葬送の音』


 半ばもたげていた長躯を再び曲げ、小屋ほどもある頭が川底へ降りる。
 北岸も、ボードヴィル城壁も、谷底を見下ろす兵達は皆呼吸を忘れ、時を止めたようにその動きを見ていた。



 川の両岸、崖の下にはアレウス軍の攻撃を免れた西海兵達が身を寄せていた。
 戦いに疲れ、戦う意思を失った兵達だ。
 その数もボードヴィル足下では千にも満たず、身を寄せる彼等の足元やシメノスの川底の血溜まりに横たわるむくろは数千に及ぶ。
 怯えた目も、物言わぬ目も、降りてくるナジャルの頭、血の赤を滲ませた銀色の双眸を、魅入られ半ば茫然と見つめている。
 奈落のごとき赤黒い口腔が開く。
 喉の奥に、百近い西海兵の身体が一瞬にして消えた。
 骸も生者も構わず、シメノスの底の西海兵をまとめて喰らう。
 水に代わって溜まった血を、下顎が掬う。咀嚼音すら無い。
『顎で喰らうのは面倒だ』
 ナジャルの蛇体が黒い闇を纏う。
 闇に触れた西海兵やその骸がどろりと溶けた。
 吸い込んでいる。
 生も死も。



 レオアリスの身を覆う青白い陽炎が一際揺めき、一歩、踏み出す。
 その動きとほぼ同時に、幼い叫びが上がった。
「やめろ――!」
 ファルシオンは堪らず叫び、城壁に駆け寄った。
「殿下!」
 レオアリスは咄嗟に腕を伸ばし、抱き止めた。
 黄金の瞳が深く輝く。
「どうして――、どうして兵達を食べるんだ! 仲間なのに!」
 その叫びは、凍りつき呑まれていた場の呪縛を解いた。川底にいた西海兵達のそれも。
 ようやく悲鳴が起こる。
 今初めてそこにナジャルの姿を見たように、西海兵達は叫び声を上げ川底を逃げ惑った。
 風が運ぶその声に、ファルシオンの全身の黄金が更に強く輝く。
「殿下!」
 消える・・・のでは、と――
 谷底へ。
 ナジャルの前へ。
 胃の凍る感覚にレオアリスは腕の中の小さい身体を抱き締め――だが腕の中の感覚は消えず、ただファルシオンの纏った黄金の光がナジャルへと、放たれた。
「――ッ」
 全身を光が透過し、感覚が、喪失する。
 瞬きの間の後、腕の中のファルシオンの感触が戻る。
 ナジャルの巨大な身体が迸った黄金の光に打たれ、蛇体は身を軋ませ動きを止めた。
「セルファン! クライフ!」
 クライフはセルファンとほぼ同時に動き、城壁と、ファルシオンの身体を受け取ったセルファンの間に立った。崖の下、ナジャルの姿が見える。まだ、黄金の光を纏ったまま動きは止まっているが――
 クライフは噛み締めた歯の隙間から呻いた。
「まずい――」
 ナジャルの双眸が、シメノスの底で動く。紅く暗いあぎとが上がる。
 ボードヴィル城壁へ――
 顎がすぐ横にあるような感覚が城壁の全ての者を覆う。
 クライフは、唐突に、全身が石になったかのように感じた。
 動かない。
 指先が痺れる。
 冷や汗が全身をどっと流れる。
 ナジャルの蛇体が身を揺らす。黄金の輝きは薄れている。
(動け)
 鎌首をもたげ、迫り上がる。
 身体を凍りつかせているのは先ほどの、ナジャルの非現実的な姿への驚きではなく、捕食者に対する恐怖――
 本能的な恐怖だ。
(動け!)
 背後でファルシオンを抱えたセルファンも、そしてボードヴィル城壁にある兵達も、再びナジャルの双眸に呑まれているのが分かる。
 ナジャルが長大な躯を伸ばし、その頭がボードヴィルの城壁へ、ゆるゆると近付いた。
 おそらくあの喉に納まるまで、身体は動かないのだと――
(動け――!)
「クライフ!」
 声――青白い閃光がクライフの、その場に凍り付いた全員の意識を叩いた。
 レオアリスが身を捻るように踏み込む。
 引き出され、右手に握られた剣が、青く輝く。
 風を裂く音と共に、迫り上がるナジャルの喉元へ、剣光を叩き込む。
 直後、空から紅蓮の炎が降り注ぎ、ナジャルの頭部を包んだ。
 ナジャルの躯が揺れ、喉元から血を吹き出し炎を纏わせたまま、刈られた大樹のように谷底へと倒れる。
「行け!」
 呪縛から解かれ、クライフは身を返した。既にセルファンがファルシオンを抱えて前を走っている。
 塔へ駆け入り、階段を駆け降る。
 タウゼンの指揮のもと、他の兵達も同様に城壁から退いていく。
 常域の戦いの終わり――ここからは。



「――レオアリス!」
 ファルシオンは塔に入る間も、セルファンの肩越しに、城壁へ立つレオアリスへ手を伸ばした。
 レオアリスの背後に、青い空が広がっている。
 空は輝くようだ。
 青く。
 青く。
 一度レオアリスは、ファルシオンへ視線を向けた。
 その背後で銀翼の飛竜が城壁へと降下する。
 レオアリスはその背へ飛び乗った。
 何か言葉を交わしたくて――ただそれが間に合わないまま、レオアリスを乗せた飛竜は城壁を離れた。




 眼下へ、紅蓮の炎が降り注ぐ。
 シメノス上空、アスタロトの周囲には炎の矢が尚も無数に浮かんでいる。
 初撃の剣とアスタロトの炎は、確かに今もナジャルに傷を負わせている。
 だが、それらがナジャルに何らかの影響を与えているようには見えなかった。シメノスの川底に倒れた蛇体は再び平然と動いている。
「硬い――でも、そんなの想定内だ。今の内に」
 炎を次々叩きこむ。シメノスから霧が立ち上るように煙が満ちる。
 浮き上がる黒々とした蛇体――ナジャルの、本体。
 そう、本体だ。
「本体が出てる内に」
 ナジャルを転位させるのであれば、転位陣が捉えるのは本体である必要がある。今は好機だった。
 レオアリスを乗せたハヤテが、一旦太陽へと縦の弧を描く。
 青白く尾を引く剣光。それがどのような状態にあるのか、今はもう慮っている時ではない。
(とにかく、まずは、転位を――!)
 アスタロトは炎を滝のように、シメノスのナジャルへと放った。
 同時にレオアリスの剣光が炎が纏い付くナジャルの躯へ、疾る。数撃。鉄鋼の如き鱗を削り、裂く。
 まだ足りない。
 ナジャルを倒せない。
 だが、今はそれでいい。
 ここでやることは、ナジャルの捕縛、そして転位だ。
 アスタロトは大きく息を吸い込んだ。
「――アルジマール! 頼んだ!」










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2020.12.13
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